七十篇か十七篇か


『漢書』芸文志に「礼古経」なるものへの言及があります。通行本である、中華書局本によって、本文を示します。

『禮古經』者,出於魯淹中及孔氏,(學七十)〔與十七〕篇文相似,多三十九篇。

中華書局本は、王先謙『漢書補注』を底本としていますが(ただし『補注』を含まず)、問題のある部分について、底本の文字を括弧の中に残しつつ、代案を亀甲括弧に入れて示したところがあります。引用部分についていうと、底本の「學七十」を誤字と認めて括弧に入れた上で、「與十七」と代案を示しています。さらに中華書局本は、次の校語を付しています。

劉敞說「學七十」當作「與十七」。楊樹達以為劉說確鑿不可易。

楊樹達の考え方は、『漢書窺管』(上海古籍出版社、1984年、211-213頁)に見え、宋の劉敞(1019-1068)の説を支持しています。中華書局本の校訂者は、それに従ったわけです。

さて、その劉敞の説は、もと『漢書刊誤』という本に書かれていたそうですが、後に失われました。しかし劉敞説は、劉元起が刻した建安本『漢書』に引用され、その建安本を本にした明の南監本や清の武英殿本にも、同じく引用されます。その経緯は、王先謙『漢書補注』の序である「前漢補注序例」に書いてあります。

さて『漢書補注』は、汲古閣本という別系統の本文を主としつつも、注記については武英殿本をも採用しているので、ここにも劉敞説が見えます。

王先謙『漢書補注』は、本文を「『禮古經』者,出於魯淹中及孔氏,學七十篇文相似,多三十九篇。」とした上で、「補注」に劉敞・王応麟・沈欽韓・葉徳輝らの説を長々と引き、自分の按語を付けています。王氏は、「七十」を「十七」と改める点については劉敞に賛成するが、「學」を「與」と改める点には賛成しない、といいます。

この説は葉徳輝に基づいており、仮にこの説に基づいて本文を作るならば、「『禮古經』者,出於魯淹中及孔氏學,十七篇文相似。」となります(「多三十九篇」は下に続くと主張します)。しかし、楊樹達ならびに中華書局本の校訂者は、王氏の説に異を唱え、やはり全面的に劉敞の説に従うべし、とし、私もそれに同意します。

『漢書』芸文志の、この少し前の部分に、「『禮』,古經五十六卷,經七十篇。」ともあり、それについても劉敞が「十七篇」と改めるべきと主張しており、銭大昭や、中華書局本の校訂者もこれを是としています。

どちらの「七十篇」も、『漢書』のもとの姿としては、「十七篇」であった、と推測します。いたって常識的な見方で、人様にお示しするのもはばかられますが、やはり誤字であっても、千何百年も伝えられてきた本文は強いもの。「七十篇」として引用するものを見かけたので、備忘のために書き留めておきます。

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