『古書通例』と『目録学発微』


余嘉錫は生前、著作をわずかに一点しか出版しませんでした。それは『四庫提要辨証』という書物です。これは、有名な『四庫全書総目提要』二百巻を詳しく検討しなおしたものであり、今なお広く用いられています。同書は著者自身認める畢生の作でもあり、余嘉錫文献学の真骨頂であるといえますが、いかんせん、それ自体、膨大かつ難解です。全篇を通読する人は少ないのではないでしょうか。かくいう私も通読したことはなく、いま読んでいる最中です。

それでは初心者がとりつく島がないのかというと、そうではなく、都合のよいことに、余嘉錫が1930年代に大学の講義に使っていた次の二書、『古書通例』(『古籍校讀法』ともいう)と『目録学発微』が、恰好の手引きとなるのです。

これらはもともと、民国時代に講義資料として印刷されたものであり、正式な出版物ではありませんでしたが、余嘉錫の没後、整理出版されました。私は、それぞれ以下の版で読みました。

  • 『古書通例』上海古籍出版社、1985年7月
  • 『目録学発微』巴蜀書社、1991年5月

これらのうち、『古書通例』については、2008年に平凡社、東洋文庫の一冊として、嘉瀬達男・内山直樹の両氏とともに、訳出しました。近いうちに、『目録学発微』の方も世に問うことができれば、と望んでおります。

さて両書は、ともに大学の講義資料とはいえ、資料も充実しており、たいへんに高度な議論が展開されています。両者とも、重点は前漢末の劉向・劉歆父子が作った目録を根本に据えて、中国の書物の歴史を見通したものです。

『古書通例』は、先秦時代の諸子百家の学問が、どのようなかたちで「書物」というかたちに定着したのか。そして劉向たちは過去の学問をどのように整理・集成し、どのように目録を作ったのか。そこに重点があります。詳しくは、日本語版につけられた、内山直樹氏の「解説」をご覧ください。

一方の『目録学発微』は、やはり劉向・劉歆父子の校書を大いに発揚しつつ、一つの学としての目録学の意義、そして、劉向らの目録以後の目録学の展開を述べたものです。『古書通例』が「劉向以前から劉向まで」に重きを置くのに対し、『目録学発微』は「劉向から劉向以後」に重きを置く、といえます。

また両書の方法論を比較すると、『古書通例』が実践的な読書の学を説くのに対し、『目録学発微』は目録学の方法と資料を紹介する、ともいえましょう。

このように対比してみると、それぞれの書物の内容には違いがありますが、互いに補い合って、余嘉錫文献学の基本的な見方を提示できていると考えています。

【補】『目録学発微』『古書通例』については、近年、さまざまなかたちで出版がなされています。

  • 『中国現代学術経典 余嘉錫 楊樹達巻』劉夢渓主編,李学勤・劉国忠・王志平編校,河北教育出版社,1996年10月
  • 『余嘉錫説文献学』上海古籍出版社〔名家説“上古”学術萃編〕,2001年3月
  • 『目録学発微』(含『古書通例』)中国人民大学出版社〔国学基礎文庫〕,2004年9月 
  • 『目録学発微 古書通例』中華書局〔余嘉錫著作集〕,2007年10月
  • 『余嘉錫講目録学』鳳凰出版社〔近代学術名家大講堂〕,2009年4月

どれをお買い求めになっても大差ありませんが、どれも校勘が不十分です。そのうち、それぞれの版のどのあたりに問題があるのかについても、ご説明したいと思います。

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“『古書通例』と『目録学発微』” への 3 件のフィードバック

  1. 古勝 隆一先生
                  2014年5月12日
    ◎『四庫提要辨證』。
    『辨證』巻二十・集部一『常建詩三卷』を読みました。
    「題破山寺後禪院」の「曲徑通幽處」の「曲」字について、余氏は「自宋及明、凡引此詩、無作『曲徑』者」と言い、「曲徑通幽處」ではなく「竹徑通幽處」とするのが正しいとしています。私もこの結論に賛成しますが、余氏は「提要乃據建集、改作『曲徑』、抑何過信汲古閣本之甚耶」、「『曲』字爲毛刻之誤、審矣」と言っていて、この批評はずいぶん館臣と毛本とに対してきついな、と思い近藤光男著『唐詩集の研究』の「常建詩」(詹満江氏執筆)を見たところ、「汲古閣刊『常建詩』巻三には『竹逕』となっている」と記されていました。余氏は毛本を見ずに、-詹氏は静嘉堂文庫所蔵の汲古閣刊本を見たそうです-、あのような批評をしたのでしょうか?詹氏が正しいならば、余氏の論述はやや武断に過ぎるか、と思われます。こんな傾向が余氏にはあるのでしょうか?
    それから、「余嘉錫の総合的研究」『四庫提要辨証』集部目録に「常建詩 三卷 案唐常建」となっていますが、「案」字は衍字、また、「唐常建」のあとに「撰」字が脱けています。
    藤田吉秋

    1. 藤田様

      四庫全書所収の『常建詩』「題破山寺後禪院」の本文は、汲古閣本を元にしており、まさしく「竹徑通〔一作遇〕幽處」としております。余氏は四庫全書の本文を見ずに提要だけを見て『弁証』を書いていますので、このような誤りが生じております(当時、四庫全書の本文を見ることは不可能でした)。

      四庫提要では、汲古閣本に基づくことを明記したうえで「曲徑通幽處」と引用しているわけで、汲古閣本及び四庫全書本を見ていない読者が、汲古閣本及び四庫全書本の『常建詩』本文が「曲徑通幽處」と作っていると推測するのは、一応、やむを得ないことではないのでしょうか。四庫提要の作者が誤って「曲」の字を示したのは、やはり問題だと思います。

      ただ、汲古閣本の『常建詩』は、1926年に涵芬樓から『唐六名家集』の一として影印出版されており、余氏もたやすく確認できる本であったはずですから、これを見なかったのは落ち度であろうと思いますし、「『曲』字爲毛刻之誤、審矣」との判定が誤っていることは明らかです。提要を書いた館臣が「今據建集改正」といったのを真に受けたきらいがあります。

      余嘉錫は、四庫館臣が示した説のうち、彼らが宋代の学者文人を批判した部分を大いに問題視しています。それゆえ、欧陽修の誤字を指摘するかのようにも読めるこの部分、余氏は感情的に反応しているようです。

      私は武断であるとまでは思いませんでしたが、やはり事実関係の確認は大切であると、あらためて感じました。ご教示に感謝いたします。

      学退復

  2. 古勝 隆一先生
                  2014年5月16日
    ◎「余嘉錫は、四庫館臣が示した説のうち、彼らが宋代の学者文人を批判した部分を大いに問題視しています」。

    これは、何に拠られたのでしょうか?
    余嘉錫著『弁証』序録に「(紀氏)自名漢學、深惡性理、遂峻詞醜詆、攻擊宋儒、而不肯細讀其書」と言い、この序録に引く『珩璜新論』提要には、「平仲與同時劉安世・蘇軾、南宋林栗・唐仲友、立身皆不愧君子。徒以平仲・安世與軾不協於程子、栗與仲友不協於朱子。講學家遂以皆寇讎視之」と記されていて、これに拠れば、余氏の問題視したのは、四庫館臣の「宋代の学者文人を批判した部分」ではなく、「宋儒・講学家を批判した部分」になるのではないか、と思われます。「宋代の学者文人」というと範囲が広すぎるように思います。

    藤田吉秋

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