「史」が目録を書く理由


『漢書』芸文志において、『太史公』書、すなわち『史記』は、六芸略の春秋家に収められていました。その後、魏晋の時代に、四部分類が創出され、甲・乙・丙・丁の部が設けられると、史書はその丙部に収まることになります。

ここに史書は経書の仲間から独立し、新たな居を構えました。余嘉錫は目録学を「学術の史」と呼びましたが、目録家がそれほどに強い力を持ちえたのは、それは史部の創設が「史」なる学術に特別な地位を与えたためではないか、と、昨日、推測しました。

しかし、目録と「史」の関わりを考察すると、史部の創出のみが両者の唯一の関わりであったというわけではありません。四部分類の創出以前に、すでにそれは始まっており、また後世にも興味深い展開があったのです。

いま、目録と「史」の深いつながりを列挙しましょう。なお、ここでいう「史」とは、「史」官のことでもあり、「史」書のことでもあり、「史」学のことでもあります。「史」の語義にはこれらすべてが含まれますので、あえて区別せずに挙げてみます。

  1. 班固が『漢書』を編纂した際、その「志」の一つとして、劉歆『七略』をほぼそのまま流用して「芸文志」を書きました。これによって、国家の図書目録が正史と明確に結びつくこととなります。『漢書』は後に、四部分類の史部に収まりました。
  2. 六朝時代、書目の編纂が主に秘書で行われるようになりました。たとえば、魏では祕書郎の鄭默が、晋では秘書監の荀勗が、宋では秘書監の謝霊運や、秘書丞の王倹が、そして隋では秘書監の牛弘が、それぞれ国家の図書目録を編纂したのです。『宋書』百官志には、魏の秘書監を記して「芸文や図書をつかさどった。『周礼』の外史が四方の書物、三皇五帝の書籍をつかさどった、というのがこれに当たる」、といいます。六朝時代、秘書は、中書という役所と合併されたりして複雑に制度改革されますが、秘書が「史官」と見られていたこと、疑いありません。六朝時代、「史」は確かに目録をつかさどっていたわけです。
  3. 上述したとおり、四部分類の中において史部が独立し、書目が史部に収められるようになったことです。歴代の国家の図書目録が、書目をどこに収めていたか、それらが失われた現在、確認するのは困難ですが、少なくとも、『隋書』経籍志のもととなった隋の『大業目録』ではすでにそうなっていたはずです。
  4. 唐代以降、「経」学の立場からでなく、さまざまな「史」学の立場から、目録学の研究が盛んとなったことです。鄭樵『通志』、馬端臨『文献通考』などは、四部分類では史部に分類される「史」書ですが、これらは目録学史上の重要な著作であり、大いに議論を深めました。他方、「経」学者は、目録学の理論書を生み出すことができませんでした。
  5. 清朝中期、天才的な「史」の才を持つ章学誠が登場し、「六経皆史」、すなわち「儒家経典は、すべて古代の史の書物である」という命題を打ち立てました。これは、その後の目録学の趨勢に大きな影響を与えたました。
  6. 「経」側の要因として、儒家それ自体には、古代以来、非常に多く内部の学派間における闘争の歴史があり、儒家の内部さえまとめられず、とても「学問全体をまとめる」可能性がなかったという、特殊な事情があります。

このようなさまざまな事情が絡まり合い、清朝末期ごろの中国の学術史においては、「経」学ではなく、むしろ「史」学に、目録および目録学の管理が求められた。そのような趨勢にあったのでしょう。

そのような歴史の積み重ねの上に、最終的に登場したのが、目録は「学術の史」であるという余嘉錫のことばであった。私はそのように考えます。余嘉錫が考え出したというよりも、むしろ、事態をうまく言い当てたものではないのでしょうか。

広告

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中