書物を写す


張舜徽氏『中国文献学』(中州書画社,1982年)の中に、書物を写すことを述べた一章があります。第6編「前人整理文献的具体工作」第1章「鈔写」。写本文化の簡単な紹介、といってよいかもしれません。

その章では、昔の人々が書物を写した故事が紹介されています。たとえば、南斉の沈驎士。八十歳を過ぎて火事にあい蔵書を失った後、燈火のもと、反故紙に小さな字で書物を書き写し、ついに二三千巻の蔵書を築いたそうです(『南斉書』巻54、高逸伝)。

版本が主流になった宋代以降も、書物を写す行為は衰えませんでした。蘇軾が紹介するある老人は、『史記』『漢書』をみずから写し取り、大切に読んでいたといいいます(「李氏山房蔵書記」)。

張氏はさらに、手控えとしての抜粋が、新たな意味を生んだ例をも挙げています。宋の袁枢(1131- 1205)は、『資治通鑑』を読みにくいと感じたため、事柄ごとに同書の内容を分類しなおし、『通鑑紀事本末』という著作をまとめました。本来の動機は、自分が読みやすいノートを作ることでしたが、これが新たな史書のジャンル、「紀事本末体」を創出する結果となり、創造性あふれる大著作となった、と評しています。

ただただ書物を写す「死鈔」から、創造的な鈔写である「活鈔」へと展開した、というのです。

さらに張氏は、「死鈔」の方でさえも大いに有意義である、と付け加えることを忘れてはいません。銭澧(1740-1795)という人の「一を手写することは、十を唱えることに匹敵する」(「通鑑輯略序」)との語を紹介しています。

たまたま最近、孫徳謙『古書讀法略例』(商務印書館,1936年)を読み、その巻4にも「書用鈔読例」という章があり、そこで、古書を書き写すことの効用が述べられていました。孫先生・張先生という二人の文献学者が口をそろえるからには、必ずや功徳があるのでしょう。

そういえば、近頃は手書きのノートすらとっていません。便利さに流されて、いろいろなことを試してみる気持ちを忘れかけていたのかもしれません。『容斎随筆』を書いた宋の洪邁(1123-1202)も、さまざまな書籍から抜粋したノートを作っていたそうですし、清の凌廷堪(17571809)も群経を手写したといいますから、古人にならい、すこし写してみようかとたくらんでおります。

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人名から宗教に及ぶ


六朝時代には、外来の仏教と並び、道教が広く信仰されました。道教の信仰は、庶民ばかりでなく貴族にも広がっていました。

道教は、個人個人の宗教的な選択によって信仰されるというよりも、むしろ家族によって信仰されていた。そして、それぞれの家族が住んでいた地域、特に中国の沿岸部に近い地域が、その信仰を育んだ。陳寅恪氏はそのように考え、次の論文をを書きました。

「天師道與濱海地域之關係」(『金明館叢稿初編』上海古籍出版,1980年。初出は『中央研究院歴史語言研究所集刊』第3本,第4分冊,1933年

論文の中では、道教を信ずる家族の例として、琅邪の王氏、高平の郗氏、呉郡の杜氏、会稽の孔氏、義興の周氏、陳郡の殷氏、丹陽の葛氏、東海の鮑氏、丹陽の許氏、丹陽の陶氏、呉興の沈氏が検討されています。

道教を信奉する家族か否かを判断する際、ひとつの手がかりとして採用されたのが、「名前に「之」字や「道」字を含む」ことでした。

すなわち中国では古くから、君主や親の名(いみな、「諱」)を呼ぶことを避ける「避諱」と呼ばれる習慣があり、親の名を口にすることすらできません。南北朝時代は、その習慣がもっとも厳しく遵守された時期でもありました。ところがその六朝時代、「之」「道」などを名に含む家族が多く見いだされ、これを観察すると、親にも子にもそれらの文字が共通する例がたいへんに多いのです。

有名な王羲「之」の息子に、王献「之」がいます。これは通常の避諱観からすると奇異ですが、道教徒はこれを意に介さなかったらしいのです。こういう理由で、「之」「道」字を名に多く用いる家族は、道教徒の一家である、という仮説が成り立ちます。

この仮説は、陳寅恪の得意の議論であったようで、次の論文にも応用されています。

「魏書司馬叡傳江東民族條釋證及推論」(『金明館叢稿初編』上海古籍出版,1980年。初出は『中央研究院歴史語言研究所集刊』第11本,第1分冊,1943年

この論文は、『魏書』司馬叡傳に見える少数民族を考証したものですが、その中に「谿」と呼ばれる民族があり、陳寅恪は、陶淵明の一家もその民族に属するといい、しかも一族に陶綽之・陶襲之・陶謙之など、名前に「之」字を持つ者が多いので、彼らは谿族、かつ道教徒の家系なのであろう、と言っています。

また同論文の中では、これも同じく谿族に属する胡諧之という人物に触れています。『南史』で彼にまつわる悪口を引き、「胡諧是何谿狗」とありますが、『資治通鑑』では「胡諧之」と、「之」字を補っています。これを陳寅恪は、司馬光の見識不足と見ています。すなわち、「之」は省略可能であって、実際、多くの資料に「之」を書かない例があるから、わざわざ補う必要はない、という主張です。

また、次の論文でも六朝人の「之」字に触れています。

「崔浩與寇謙之」(『金明館叢稿初編』上海古籍出版,1980年。初出は『嶺南學報』第11本,第1分冊,1950年

そこでも、『北史』巻27に寇謙之が「寇謙」と表記されることにつき、「之字非特專之真名,可以不避諱,亦可省略(之の字は、固有の本名ではなく、避諱せずともよいし、省略もできた)」と解釈しています。

以上が、「之」字をめぐる陳寅恪の議論です。「之」字を足すことが見識不足というのは、少々行き過ぎのようにも思いますが、ともかく、名前と宗教との関係を明らかにした大発見でした。

阮裕の信仰


阮略の子孫の名を見ていると、ひとつの事実に気がつきます。阮晞之・阮歆之・阮長之・阮彌之・阮胤之・阮彦之・阮履之と、名前に「之」字をもつ人が多いことです。

陳寅恪氏「天師道與濱海地域之關係」(『金明館叢稿初編』上海古籍出版,1980年)によると、六朝時代、道教徒の間で、名前に「之」をつける習慣があったということですから、阮氏の一家は家族の信仰として、もともと道教を共有していたと、ひとまず推測することができます。陳氏の考証の詳細については、また機会を改めてご紹介します。

その陳留の阮氏の信仰について調べる過程で、『世説新語』尤悔篇に次の一段があることを知りました。

阮思曠奉大法,敬信甚至。大兒年未弱冠,忽被篤疾。兒既是偏所愛重,為之祈請三寶,晝夜不懈。謂至誠有感者,必當蒙祐.而兒遂不濟。於是結恨釋氏,宿命都除。
阮思曠(阮裕)は仏法を信奉し、完全に帰依していた。その長男は成人前、急に重い病にかかってしまった。阮裕はこの子をとりわけ愛しており、そのために三宝を祈り、昼夜を分かたず勤行した。「真心をもって仏の感応を得られたならば、きっとおたすけいただけるにちがいない」と思ったのであるが、子はそのまま助からなかった。そこで仏教をうらむようになり、宿命の教え(仏教)をまったく辞めてしまった。

阮裕の懸命な祈祷もむなしく、長男の阮牖(阮傭とも)が若死にしてしまい、それで阮裕は仏教から離れた、というわけです。

阮裕の三男、阮普は、『建康実録』では阮普之と呼ばれています。「之」字を名前に含む道教徒の名を資料に書く場合陳寅恪氏も指摘するとおり、「之」字を省く例は、たいへんに多いのです。それゆえ、阮裕の三男の名は阮普之であり、時には阮普とも呼ばれた、と考えてよさそうです。

そうであるとすると、長男を失ったことを転換点として、阮裕は仏教から道教へと信仰を変えた、このように推測できます。そこから、家族の信仰も変化したのでしょう。子孫の名に「之」字を含む者が多いことも、これによって説明できるように思われます。

その一方で、陳留の阮氏からは熱心な仏教徒も多く出ており、阮孝緒もその一人です。道教を信仰する家から仏教徒が出たことについては、次の問題として考えなければなりません。

また、阮氏の道教信仰の実態は、今のところ、まったく明らかでありませんので、その方面も解明が必要でしょう。

阮孝緒の家系


陳留阮略世系
陳留阮略世系

阮孝緒(479-536)は、陳留尉氏(現在の河南省開封近郊)の出身。建安七子のひとり、阮瑀(?-212)や、その子の阮籍(210-263)と同族に属する、貴族の一員です。

阮孝緒の血統を溯り、系図を作ってみました。右の画像をクリックしてみてください。今回は、父子関係のみの系図です。

『晋書』巻49、阮籍伝には、阮籍以外にも、陳留尉氏の阮氏が収められており、その中に阮略という人物とその一族が見えます。阮略を初代にすえると、第8代の阮孝緒らまでをたどることができます。

なお、宋本『世説新語』(尊経閣文庫蔵)には、汪藻「世説叙録」という資料が附刻されており、その中に「人名譜」がついています。「陳留尉氏阮氏譜」(以下、「阮氏譜」と略)が含まれており、参考になります。現在、宋本の影印本が手元にないので、楊勇氏『世説新語校箋』修訂本(中華書局、2006年)によりました。

「阮氏譜」によると、阮瑀の父、阮敦は、阮略の兄です。つまり、阮略は阮瑀の叔父という関係となります。

  • 第1代

阮略。官は斉郡太守(「阮氏譜」は斉国内史)。(『晋書』巻49)

  • 第2代

阮顗。官は淮南内史(「阮氏譜」は汝南太守)。略の子。(『晋書』巻49)

  • 第3代

阮放、字は思度。官は黄門侍郎、交州刺史。顗の子。(『晋書』巻49)
阮裕、字は思曠。顗の子、放の弟。官は金紫光禄大夫。(『晋書』巻49)(『世説新語』徳行篇注引『阮光禄別伝』)(『宋書』巻92、『南史』巻70)

  • 第4代

阮晞之。放の子。官は南頓太守。(『晋書』巻49)
阮牖(『晋書』、「阮氏譜」では「阮傭」に作る)、字は彦倫(『阮氏譜』による)。裕の長男。早世した。(『晋書』巻49)(『世説新語』尤悔篇注引『阮氏譜』)
阮寧。裕の二男。官は鄱陽太守。(『晋書』巻49)
阮普(『建康実録』では「普之」)。裕の三男。官は驃騎諮議参軍。(『晋書』巻49)(『宋書』巻92、『南史』巻70)(『建康実録』巻14)

  • 第5代

阮歆之。牖の子。官は中領軍。(『晋書』巻49)(『広弘明集』巻3)
阮腆之。(『晋書』巻49、「阮氏譜」では「腆」。)寧の子。官は秘書監。(『晋書』巻49)(『晋書』巻10)
阮万齢。寧の子、腆之の弟。(『晋書』巻49)
阮長之。字は茂景(『南史』、「阮氏譜」では「景茂」)。普の子。官は臨海太守。(『宋書』巻92、『南史』巻70)(『建康実録』巻14)

  • 第6代

阮彌之。歆之の子。官は交州刺史。(『晋書』巻49)(『宋書』巻97、『梁書』巻54、『南史』巻78)
阮慧真。歆之の子。官は臨賀太守。(『広弘明集』巻3)
阮師門。長之の子。官は原郷令。(『宋書』巻92、『南史』巻70)

  • 第7代

阮胤之。慧真の子。(『梁書』巻51、『南史』巻76)
阮彦之。慧真の子、胤之の弟。官は大尉従事中郎。(『梁書』巻51、『南史』巻76)(『広弘明集』巻3)
阮韜、字は長明。裕の玄孫。官は侍中。(『南斉書』巻32、『南史』巻24)(『建康実録』巻16)(『続高僧伝』巻五)
阮晦。裕の玄孫、韜の弟か。官は光禄。(『続高僧伝』巻五)(『高僧伝』巻十一)

  • 第8代

阮履之。彦之の子。(『梁書』巻51、『南史』巻76)
阮孝緒、字は士宗。彦之の子、履之の弟。(『梁書』巻51、『南史』巻76)

阮氏の本貫は陳留尉氏(河南省開封近郊)ですが、4世紀初頭、永嘉の乱のころ、洛陽貴族たちとともに南遷して建康に至りました。移住したのは、おそらく阮顗と、その子の阮放・阮裕らではなかったか、と推測しています。東晋時代、阮裕は建康の社交界における注目の的となり、『世説新語』には多くの逸話が伝えられています。

阮氏の子孫たちは、その後、南朝末期に至るまで、基本的には建康に居を構えたようです。

侯景は冗談を言えたか


陳寅恪「書魏書蕭衍伝後」(『金明館叢稿初編』上海古籍出版,1980年)という短文を読みました。

『魏書』巻98,島夷蕭衍伝の次の一段が問題とされています。

衍每募人出戰,素無號令,初或暫勝,後必奔背。景宣言曰「城中非無菜,但無醬耳」,以戲侮之。
蕭衍は何度も兵を募ってたたかいを挑んだものの、そもそも号令をかける者がなく、少し勝利したこともあるが、後にはきまって敗走する結果となった。侯景は大きな声で「城中には野菜がないわけではないが、調味料がないのだな」といって、侮辱した。

梁の武帝(在位502-549)が、逆賊の侯景(503- 552)に取り囲まれている場面で、侯景が武帝を挑発して「城中非無菜,但無醬耳」と言ったのですが、これは陳寅恪によると、「城中には”菜”(卒、すなわち兵卒)はあるが、”醤”(将、すなわち将軍)はない」という意味のからかいです。

陳寅恪は、この冗談を思いついた人を探り、侯景の参謀、王偉という人物がそれに当たるのではないか、と推測しています。「侯景は「清流」ではないのだから、こんな「雅な冗談(「雅謔」)を作って梁武帝をからかうことなど、できるはずがない」と陳氏は言うのですが、果たしてそうでしょうか?私は侯景にも言えたのではないかと思うのですが。伝統中国では「冗談は教養」と見なされていたのかも知れません。

陳氏の主眼は「菜と卒との発音が通じる方言を探ること」にあるのですが、私はむしろ、侯景には「雅謔」は言えない、と考える陳氏の思考法に興味を覚えました。

阮孝緒の伝記資料


阮孝緒(479-536)、陳留尉氏(現、河南省開封市)の人、あざなは士宗。梁の時代に生きた偉大な目録家であり、普通四年(523)、当時、知りえた書物の網羅的な目録、『七録』を書きました。

その阮孝緒の伝記は、現在、3種あります。

  1. 『梁書』巻51、処士伝、阮孝緒伝。
  2. 『南史』巻76、隠逸伝下、阮孝緒伝。
  3. 『広弘明集』巻3の小伝。

『広弘明集』のものは、先日ご紹介したとおりですが、これはおおむね『南史』の伝に基づいており、それを節略したらしく思われます。

『梁書』の伝と『南史』の伝とを比較してみると、両者には出入があります。『広弘明集』の伝の内容はかなり簡略ですが、『梁書』の伝に含まれない記事があるので、『南史』(あるいはそれよりも詳しい別種の伝記)に依拠したものと推測できます。

しかし、そればかりではありません。『広弘明集』の伝には、『南史』の伝にも見えない記事があるのです。それは、阮孝緒の曾祖が宋中領軍の阮歆之であり、祖が臨賀太守の慧真であることが、『広弘明集』にのみ書かれている、ということです。これによって、阮孝緒の家系をたどることが可能となります。

また、伝の末尾に「編次佛、道,以為方外之篇,起於此矣。」と書き添えられていますが、これは『広弘明集』の編者、道宣の案語でしょう。

ただし『広弘明集』の阮孝緒伝は、つぎはぎが目立って読みにくく、また文字の誤りもあります。以下、少し問題のある部分を列挙してみましょう。

  • 孝緒年十三,略通五經大義。隨父為湘州行事,不書南紙,以成父之清。 「南紙」は、『南史』では「官紙」とします。父が湘州行事となった際、阮孝緒は役所の紙を使わなかった、ということのようです。
  • 常以鹿林為精舍,環以林池,杜絕交好,少得見者。 「鹿林」は、『梁書』『南史』とも「鹿牀」とします(前後の文章は異なります)。「牀」はベッドのこと、「鹿牀」でも意味が通らないので、あるいは「麁牀(粗牀)」の誤りかと推測します。
  • 南平元襄謂履曰 南平元襄王は、蕭偉、あざな文達、『梁書』巻22に伝が立っています(太祖五王伝)。『広弘明集』は「王」字を脱しているようです。
  • 王作『二闇』及『性情義』 「二闇」は、『南史』梁宗室伝下では「著二暗義」。『梁書』太祖五王伝、『冊府元亀』巻293では「著二旨義」。
  • 世祖著『忠臣傳』,集『釋氏碑銘』、『丹陽尹錄』、『妍神記』 「妍神記」は、『南史』では「研神記」。『隋書』経籍志(史部、雑伝)にも「『研神記』十卷,蕭繹撰」と見えるので、「研」が正しいようです。

これまで『梁書』と『南史』の阮孝緒伝の違いを見落としていましたが、この機会に少し調べてみて、いろいろと異同があることが分かり、有益でした。

阮孝緒小伝|七録佚文の附録1


孝緒,陳留人。宋中領軍歆之曾孫。祖慧真,臨賀太守。父彥,太尉從事中郎。

孝緒年十三,略通五經大義。隨父為湘州行事,不書南紙,以成父之清。

年十六,丁艱,終喪,不服綿纊。雖蔬食有味,即吐之。

在鍾山聽講,母王氏忽有疾。孝緒於講座心驚而反。合藥須生人蔘,自採於鍾山高嶺,經日不值。忽有鹿在前行,心怪之,至鹿息處,果有人蔘。母疾即愈。

齊尚書令王晏,通家權貴,來候之,傳呼甚寵,孝緒惡之,穿籬而遁。晏有所遺,拒而不納。嘗食醬而美,問之,乃王家所送,遂命覆醢。及晏被誅,以非黨獲免。

常以鹿林為精舍,環以林池,杜絕交好,少得見者。御史中丞任昉欲造之,而不敢進,睨鹿林,謂其兄履曰:「其室則邇,其人甚遠」。太中大夫殷芸贈以詩,任昉止之曰:「趣舍苟異,何用相干」。於是朝貴絕於造請,惟與裴貞子為交【貞子即子野之諡】。

天監十二年,祕書監傅昭薦焉,並不到。天子以為苟立虛名,以要顯譽,自是不復徵聘。故何胤、孝緒,並得遂其高志。

南平元襄謂履曰:「昔君大父,舉不以來遊取累。賢弟獨執其志,何也?」孝緒曰:「若麇麚盡可驂馭,何以異夫騄驥哉?」

王作『二闇』及『性情義』,並以示之,請為潤色。世祖著『忠臣傳』,集『釋氏碑銘』、『丹陽尹錄』、『妍神記』,並先簡居士,然後施行。

鄱陽忠烈王,孝緒姊夫也。王及諸子,歲時致饋,一無所受。

嘗自筮死期云:「與劉著作同年」。是秋劉杳卒。孝緒睨曰:「吾其幾何?」數旬果亡,年五十八。皇太子遣使弔祭,賵贈甚渥。子恕追述先志,固辭不受。門人諡曰文貞處士。

孝緒博極群書,無一不善。精力強記,學者所宗。著『七錄』、『削繁』等諸書一百八十一卷,並行於世。編次佛、道,以為方外之篇,起於此矣。

七録目録|七録佚文3


『七錄』目錄

經典錄 內篇一
易部,本〈當作六十〉四種,九十六帙,五百九十卷。
尚書部,二十七種,二十八帙,一百九十卷。
詩部,五十二種,六十一帙,三百九十八卷。
禮部,一百四十種,二百一十一帙,一千五百七十卷。
樂部,五種,五帙,二十五卷。
春秋部,一百一十一種,一百三十九帙,一千一百五十三卷。
論語部,五十一種,五十二帙,四百一十六卷。
孝經部,五十九種,五十九帙,一百四十四卷。
小學部,七十二種,七十二帙,三百一十三卷。
右九部,五百九十一種,七百一十帙,四千七百一〔十〕卷。

記傳錄 內篇二
國史部,二百一十六種,五百九帙,四千五百九十六卷。
注歷部,五十九種,一百六十七帙,一千二百二十一卷。
舊事部,八十七種,一百二十七帙,一千三十八卷。
職官部,八十一種,一百四帙,八百一卷。
儀典部,八十種,二百五十帙,二千二百五十六卷。
法制部,四十七種,九十五帙,八百八十六卷。
偽史部,二十六種,二十七帙,一百六十一卷。
雜傳部,二百四十一種,二百八十九帙,一千四百四十六卷。
鬼神部,二十九種,三十四帙,二百五卷。
土地部,七十三種,一百七十一帙,八百六十九卷。
譜狀部,四十三種,四百二十三帙,一千六十四卷。
簿錄部,三十六種,六十二帙,三百四十八卷。
右十二部,一千二十種,二千二百四十八帙,一萬四千八百八十八卷。

子兵錄 內篇三
儒部,六十六種,七十五帙,六百三十卷。
道部,六十九種,七十六帙,四百三十一卷。
陰陽部,一種,一帙,一卷。
法部,十三種,十五帙,一百一十八卷。
名部,九種,九帙,二十三卷。
墨部,四種,四帙,一十卷。
縱橫部,二種,二帙,五卷。
雜部,五十七種,二百九十七帙,二千三百三十八卷。
農部,一種,一帙,三卷。
小說部,十種,十二帙,六十三卷。
兵部,五十八種,六十一帙,二百四十五卷。
右一十一部,二百九十種,五百五十帙,三千八百九十四卷。

文集錄 內篇四
楚辭部,五種,五帙,二十七卷。
別集部,七百六十八種,八百五十八帙,六千四百九十七卷。
總集部,十六種,六十四帙,六百四十九卷。
雜文部,二百七十三種,四百五十一帙,三千五百八十七卷。
右四部,一千四十二種,一千三百七十五帙,一萬七百五十五卷。

術技錄 內篇五
天文部,四十九種,六十七帙,五百二十八卷。
緯讖部,三十二種,四十七帙,二百五十四卷。
曆算部,五十種,五十帙,二百一十九卷。
五行部,八十四種,九十三帙,六百一十五卷。
卜筮部,五十種,六十帙,三百九十卷。
雜占部,十七種,十七帙,四十五卷。
刑法部,四十七種,六十一帙,三百七卷。
醫經部,八種,八帙,五十卷。
經方部,一百四十種,一百八十帙,千二百五十九卷。
雜藝部,十五種,十八帙,六十六卷。
右十部,五百五種,六百六帙,三千七百三十六卷。

佛法錄三卷 外篇一
戒律部,七十一種,八十八帙,三百三十九卷。
禪定部,一百四種,一百八帙,一百七十六卷。
智慧部,二千七十七種,二千一百九十帙,三千六百七十七卷。
疑似部,四十六種,四十六帙,六十卷。
論記部,一百一十二種,一百六十四帙,一千一百五十八卷。
右五部,二千四百一十種,二千五百九十五帙,五千四百卷。

仙道錄 外篇二
經戒部,二百九十種,三百一十八帙,八百二十八卷。
服餌部,四十八種,五十二帙,一百六十七卷。
房中部,十三種,十三帙,三十八卷。
符圖部,七十種,七十六帙,一百三卷。
右四部,四百二十五種,四百五十九帙,一千一百三十八卷。

『文字集略』一帙,三卷。序錄一卷。
『正史刪繁』十四帙,一百三十五卷。序錄一卷。
『高隱傳』一帙,十卷。序例一卷。
『古今世代錄』一帙,七卷。
『七錄』一帙,一十一卷。
『雜文』一帙,十卷。
『聲緯』一帙,十卷。
右七種,二十一帙,一百八十一卷。阮孝緒撰,不足編諸前錄,而載於此。

古今書最|七録佚文2


古今書最

『七略』,書三十八種,六百三家,一萬三千二百一十九卷。五百七十二家亡,三十一家存。

『漢書』藝文志,書三十八種,五百九十六家,一萬三千三百六十九卷。五百五十二家亡,四十四家存。

袁山松『後漢藝文志』,書……。八十七家亡,……。

『晉中經簿四部』,書一千八百八十五部,二萬九百三十五卷。其中十六卷,佛經,書簿少二卷,不詳所載多少。一千一百一十九部亡,七百六十六部存。

『晉元帝書目四部』,三百五帙,三千一十四卷。

『晉義熙四年祕閣四部目錄』。

『宋元嘉八年祕閣四部目錄』,一千五百六十四帙,一萬四千五百八十二卷【五十五帙,四百三十八卷,佛經也】。

『宋元徽元年祕閣四部書目錄』,二千二十帙,一萬五千七十四卷。

『齊永明元年祕閣四部目錄』,五千新足,合二千三百三十二帙,一萬八千一十卷。

『梁天(鑒)〔監〕四年文德正御四部』及『術數書目錄』,合二千九百六十八帙二萬三千一百六卷【祕書丞殷鈞撰『祕閣四部書』,少於文德書,故不錄其數也】。

新集『七錄』,內外篇圖書,凡五十五部,六千二百八十八種,八千五百四十七帙,四萬四千五百二十六卷【六千七十八種,八千二百八十四帙,四萬三千六百二十四卷:經書。二百三種,二百六十三帙,八百七十九卷:圖符】。

內篇五錄,四十六部,三千四百五十三種,五千四百九十三帙,三萬七千九百八十三卷【三千三百一十八種,五千(二)〔三〕百六帙,三萬七千一百八卷:經書。一百三十五種,一百八十七帙,七百七十五卷:圖也】。

外篇二錄,九部,二千八百三十五種,三千五十四帙,六千五百三十八卷【〔二千七百五十九種,二千九百七十八帙,六千四百三十四卷:經書。七十八帙,一百四卷:符〔圖〕】。

  • 『広弘明集』巻3より。
  • 凡例は前回の「七録序|七録佚文1」に準じます。ただし今回、原注を【 】中に入れてしましました。

七録序|七録佚文1


『七錄』序    梁處士阮孝緒

日月貞明,匪光景不能垂照;嵩華載育,非風雲無以懸感。大聖挺生,應期命世。所以匡濟風俗,矯正彝倫。非夫丘索墳典,『詩』『書』禮樂,何以成穆穆之功,致蕩蕩之化也哉!故鴻荒道喪,帝昊興其爻畫;結繩義隱,皇頡肇其文字。自斯以往,沿襲異宜。功成治定,各有方冊。

正宗既殄,樂崩禮壞。先聖之法,有若綴旒。故仲尼歎曰:「大道之行也,與三代之英,丘未逮也,而有志焉」。夫有志以為古文猶好也。故自衛反魯,始立素王。於是刪『詩』『書』,定禮樂,列五始於『春秋』,興十翼於『易』道。

夫子既亡,微言殆絕。七十並喪,大義遂乖。逮乎戰國,俗殊政異。百家競起,九流互作。嬴(正)〔政〕疾之,故有坑焚之禍。

至漢惠四年,始除挾書之律。其後外有太常、太史、博士之藏,內有延閣、廣內、祕室之府。開獻書之路,置寫書之官。至孝成之世,頗有亡逸。乃使謁者陳農求遺書於天下。〔命〕光祿大夫劉向及子伋、歆等讎校篇籍,每一篇已,輒錄而奏之。會向亡,哀帝使歆嗣其前業。乃徙溫室中書於天祿閣上,歆遂總括群篇,奏其『七略』。

及後漢蘭臺,猶為書部。又於東觀及仁壽闥,撰集新記。校書郎班固、傅毅並典祕籍。固乃因『七略』之辭,為『漢書』藝文志。其後有著述者,袁山松亦錄在其書。

魏晉之世,文籍逾廣,皆藏在祕書、中、外三閣。魏祕書朗〈當作郎〉鄭默刪定舊文,時之論者謂為朱紫有別。晉領祕書監荀勗,因魏『中經』更著『新薄』,雖分為十有餘卷,而總以四部別之。惠懷之亂,其書略盡。江左草創,十不一存。後雖鳩集,淆亂以甚。及著作佐郎李充,始加刪正,因荀勗舊簿四部之法,而換其乙丙之書,沒略眾篇之名,總以甲乙為次。

自時厥後,世相祖述。宋祕書監謝靈運、丞王儉、齊祕書丞王亮、監謝朏等,並有新進,更撰目錄。〔宋殷淳撰『大四部目』。儉又依『別錄』之體,撰〕為『七志』。其中朝遺書,收集稍廣。然所亡者,猶太半焉。

齊末兵火,延及祕閣。有梁之初,缺亡甚眾。爰命祕書監任昉,躬加部集。又於文德殿內,別藏眾書,使學士劉孝標等,重加搜進。乃分數術之文,更為一部,使奉朝請祖暅,撰其名錄。其尚書閣內,別藏經史雜書。華林園又集釋氏經論。自江左篇章之盛,未有踰於當今者也。

孝緒少愛墳籍,長而弗倦。臥病閑居,傍無塵雜。晨光纔啟,緗囊已散;宵漏既分,綠帙方掩。猶不能窮究流略,探盡祕奧。每披錄內省,多有缺然。其遺〔文〕隱記,頗好搜集。凡自宋齊以來王公搢紳之館,苟〔能〕蓄聚墳籍,必思致其名簿。凡在所遇,若見若聞,校之官目,多所遺漏。遂總集眾家。更為新錄。其方內經(記)〔史〕,至于術技,合為五錄,謂之內篇;方外佛、道,各為一錄,謂之外篇。凡為錄有七,故名『七錄』。

 昔司馬子長記數千年事,先哲愍其勤,雖復稱為良史,猶有捃拾之責。況總括群書四萬餘卷,皆討論研覈,標判宗旨,才愧疏通,學慚博達。靡班嗣之賜書,微黃香之東觀。儻欲尋檢內寡卷軸,如有疑滯,傍無沃啟。其為紕謬,不亦多乎!將恐後之罪(子)〔予〕者,豈不在於斯錄。如有刊正,請俟君子。

 昔劉向校書,輒為一錄,論其指歸,(辯)〔辨〕其訛謬,隨竟奏上,皆載在本書。時又別集眾錄,謂之『別錄』。即今之『別錄』是也。子歆(探)〔撮〕其指要,著為『七略』。其一篇即六篇之總最,故以(撮)〔輯〕略為名。次六藝略,次諸子略,次詩賦略,次兵書略,次數術略,次方技略。

王儉『七志』,改六藝為經典,次諸子,次詩賦為文翰,次兵〔書〕為軍書,次數術為陰陽,次方技為術藝。以向、歆雖云『七略』,實有六條,故〔別〕立圖譜一志,以全七限。其外又條『七略』及〔二〕漢藝文志、『中經簿』所闕之書,并方外之經,佛經、道經各為一錄,雖繼『七志』之後,而不在其數。

 今所撰『七錄』,斟酌王、劉。王以六藝之稱不足標榜經目,改為經典。今則從之,故序經典錄,為內篇第一。

劉、王並以眾史合于『春秋』。劉氏之世,史書甚寡,附見『春秋』,誠得其例。今眾家記傳,倍於經典,猶從此志,實為繁蕪。且『七略』詩賦,不從六藝(諸)〔『詩』〕部。蓋由其書既多,所以別為一略。今依擬斯例分出眾史。序記傳錄,為內篇第二。

諸子之稱,劉、王並同。又劉有兵書略,王以兵字淺薄,軍言深廣,故改兵為軍。竊謂古有兵革、兵戎、治兵、用兵之言,斯則武事之總名也。所以還改軍從兵。兵書既少,不足別錄,今附于子〔末〕,總以子兵為稱。故序子兵錄,為內篇第三。

王以詩賦之名,不兼餘制,故改為文翰。竊以(傾)〔頃〕世文詞,總謂之集。變翰為集,於名尤顯。故序文集錄,為內篇第四。

王以數術之稱,有繁雜之嫌,〔故〕改為陰陽;方技之言,事無典據,又改為藝術。竊以陰陽偏有所繫,不如數術之該通。術藝則濫,六藝與數術,不逮方技之要顯。故還依劉氏,各守本名。但房中、神仙,既入仙道;醫經、經方,不足別創。故合術技之稱,以名一錄,為內篇第五。

王氏圖譜一志,劉略所無。劉,數術中雖有歷譜,而與今譜有異。竊以圖畫之篇,宜從所圖為部。故隨其名題,各附本錄。譜既注記之類,宜與史體相參。故載于記傳之末。自斯以上,皆內篇也。

釋氏之教,實被中土。講說諷味,方軌孔籍。王氏雖載于篇,而不在志限。即理求事,未是所安。故序佛法錄,為外篇第一。

仙道之書,由來尚矣。劉氏神仙,陳於方技之末;王氏道經,書於七志之外。今合序仙道錄,為外篇第二。

王既先道而後佛,今則先佛而後道,蓋所宗有不同,亦由其教有淺深也。凡內外二篇,合為『七錄』。天下之遺書祕記,庶幾窮於是矣。有梁普通四年歲惟單閼仲春十有七日,於建康禁中里宅,始述此書。通人平原劉杳從余遊,因說其事。杳有志積久,未獲操筆。聞余已先著鞭,欣然會意,凡所抄集,盡以相與。廣其聞見,實有力焉。斯亦康成之於傳釋,盡歸子(順)〔慎〕之書也。

  • 『広弘明集』巻3より。
  • 底本は、大正新修大蔵経、第52巻に収める『広弘明集』(No.2103)。ただし、その句読には従わず、新たに標点した。CBETA(http://www.cbeta.org/)の電子版を利用させていただいた。
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