「各」の下部は何なのか


甲骨文編より
甲骨文編より

『説文解字詁林』(醫學書局,1928年)という大きな書物があります。丁福保という人が、1920年代に整理、出版したものです。膨大な量に及ぶ『説文解字』の版本や、諸家の注釈を、文字単位に配列しなおして、調べやすくしたもので、今なお重宝します。

しかし、文字を知ろうとするならば、『説文解字』だけでこと足りるわけではありません。同じ趣向の書物として、『爾雅詁林』『広雅詁林』なども出版されています。

今回、甲骨・金文についての学説を手軽に見ようと思い、『古文字詁林』(古文字詁林編纂委員會,全12册,上海教育出版社,1999年)というものを広げて、「各」字を調べてみました。

まず、『甲骨文編』、『続甲骨文編』、『金文編』、『包山楚簡文字編』、『睡虎地秦簡文字編』、『長沙子弾庫帛書文字編』、『古璽文編』、『漢印文字編』、『石刻篆文編』、『古文四声韻』の諸書に基づき、古文字の字形が集められています。続けて、『説文解字』の説解を挙げ、さらに呉式芬以下の諸家の説が引用されています。

ここでは、羅振玉(1866‐1940)と楊樹達(1885-1956)、二人の説を紹介いたします。

『殷虚書契考釈』において、羅振玉は、次のようにいいます。

『説文解字』に「各は、言葉を異にすること。口と夂とに従う。夂とは、歩いているのに歩みを止めることであり、人の意見を聴かないことである」と。考えるに、各の字は夂に従うが、これは足の形が外からやってくるのをかたどったもの。口に従うのは、みずから名乗るためである。「各」字が、「来𢓜(やってくる)」いう意味を示すもとの字(「本字」)である。

羅氏は、甲骨文の形を根拠として、「各」字の上半分は、足の形(おそらく、かかとからつま先を上から見た形)が外からやってくる様子とし、下半分は、口頭でみずから客が名乗るもの、と解釈しました。

一方、楊樹達には、その名も「釈各」、各を解釈する、という一文があり、『積微居小学述林』巻2に収められています。楊氏は、羅氏の説を引いたうえで、次のようにいいます。

わたくしが考えるに、羅氏の説で、「各」がやってくることの本字である、とするのは正しい。しかし、「足の形が外からやってくるのをかたどったもの」といい、「口に従うのは、みずから名乗るため」というのは、いずれも誤り。甲骨文では下の部分をUのように書くことがあり、口に従うわけでないと分かる。わたくしが思うに、口型やU型はみな「区域」をかたどった形であり、足でそこにやってくるから、それゆえ「来る」「至る」という意味になる。・・・。(表記の都合上、一部を意訳しました)

こうしてみると、「各」字の下方の四角については、諸家の間で見解がばらばらであることが分かります。これまで、当ブログですでにご紹介したものをまとめておきましょう。

  • 許慎:口の形。異なる意見を表す。
  • 藤堂明保:石のような物、またはある地点を示す記号。
  • 沈兼士:形は口であるが、口の意味ではない。
  • 羅振玉:口の形。客が口頭でみずから名乗ること。
  • 楊樹達:区域を示す記号。

『古文字詁林』を見ると、それ以外にも、実にさまざまな見解があります。たとえば、馬叙倫は「踏むという意味」といい、周名煇は「かかとの形」といい、労榦は「席をあらわす」といい、于省吾は「あなの形」といっており、説の一致を見ません。

立場としては大きく二つあり、第一は「とりあえず許慎の説を認めて、口として理解する」立場であり、第二は「それ以外の可能性を探る」立場でしょう。それはおのずと、「許慎との距離をどのようにとるか」という問題と一体であるに違いありません。

私は文字学者ではありませんので、古文字の形について、自分の見解は持っておりません。文字についてはあまり触れぬほうがよさそうです。そうではなく、いずれ訓詁の立場をさらに深めてゆきたいものです。

「各」の下部は何なのか の続きを読む

広告

沈兼士のとらえた右文の「各」


昨日、ご紹介した、沈兼士(1887-1947) 「右文説在訓詁學上之沿革及其推闡」(『慶祝蔡元培先生六十五歳論文集』國立中央研究院,1933年。後に『沈兼士學術論文集』中華書局,1986年に収める)にも、先日来、私がこだわっている「各」字に関する記述がありました。それは、「應用右文以比較字義」という章において、「觡」字をめぐって考察されています。

まず、『説文解字』(4篇,角部)に次のようにあります。

觡,骨角之名也。从角,各聲。
觡とは、骨の角の名である(段玉裁によると「骨のような角の名」)。角に従い、各の声。

これについて、沈氏は資料や諸家の説を引いた上で、次のようにいっています。長文にわたりますが、訳文をお示しします。

わたくしが考えるに、『説文』では「各」を「異詞」と釈しており、それゆえ「各」の声に従う字には、「分かれる(「岐別」)」義がある。たとえば、「路」は「分かれる」から名づけられたものである。言い争ってやまないことを「詻」というし、「𩊚」とは、なめしていない革を、ものを包む用に当てることであり、「𠲱」とはさえぎる(「枝𠲱」)ことで、「笿」とは杯をしまう竹かごであり「𩊚」と同意、「絡」もそうである。

以上、「各」の声符を持つ字を列挙し、続いて「骼」字を検討します。

ここから推測すると、『説文』は「骼」を「禽獣の骨を骼という」とするが、これは、『礼記』月令、孟春「掩骼埋胔」の鄭玄注に「骨枯を骼という」とし、蔡邕が「露出している骨を骼という」とし、『呂氏春秋』孟春紀「揜骼埋髊」の高誘注に「白骨を骼という」とする、それらの諸説にかなわない。おそらく骨に肉がなくなり外に露出しており、肢体が骨ばって見えるので、肉のある屍と異なる、ということであろう。…。

次は、「𠲱」字。

また、「𠲱」を『説文解字』では「枝𠲱のこと」としており、段注に「枝𠲱とは、さえぎる意である。『玉篇』に「𠲱とは枝柯のこと」といい、『釈名』に「戟とは格である。横に枝分かれ(枝格)のあるもの」といい、庾信の賦に「草樹溷淆し、枝格あい交わる」という。「格」字が通行するようになり、「𠲱」字が廃れたのであろう」と。

わたくしが考えるに、段玉裁は、『説文解字』が「格」を「木が長い様子」と訓じており、「𠲱」こそ枝格(枝分かれ)の意の本字であると思ったのであろう。右文説の考え方で調整するならば、「各」の声に従う字は、「分かれる」ことから「枝分かれ」の義を得たのであり、偏が「木」か「丯」かという重文にすぎず、決して二字ではない。…。

「𠲱」字の検討を終え、沈氏はさらに論を進めて、「閣」字に及んでいます。

「格」「𠲱」がそうであるのみならず、「閣」も同じである。厳元照『爾雅匡名』巻5に「『爾雅』釈宮に「扉をとめるための部分を閎という」とあり、『経典釈文』に「閎の音は宏、ある本では閣に作る。郭璞の注本には閣の字はない」と。…」という。思うに、「閣」の字は「各」の声に従って「止める」義を得たものである。

そして、ようやく本題の「觡」字にもどり、次のように結論します。

以上のことから考えると、「觡」字の義は、『礼記』楽記、『史記』封禅書の文にもとづき、郭璞、顧野王の訓に照らし、さらに右文説を参考とすれば、許慎・鄭玄の説の誤りがわかるのである。

「觡」は、単に「骨のような角」というのではなく、「枝分かれした角」であるというのが、沈兼士の結論であるわけですが、その中で「各」字に「分かれる」義があることを繰り返し確認しております。

沈兼士がこの論文を書いた1930年代、甲骨・金文の研究も進展し、「各」字についても議論があったようです。それは古文字においては「いたる」意を表し、「格」の本字である、という考え方が多かったようです。そのためか、上に引いた本文に対して、沈氏は次のような注をつけています。

各は、甲骨文字や金文では「来格」(いたりきたる)の格の字のもとの形であるが、その字は、足がくつから出た形をかたどっており、「出」字がくつに足を入れようとする形をかたどるのと、ちょうど反対である(呉大澂の説)。おそらく、古代では地面に席をしいて座したので、家に入るときはくつをぬぎ、外出するときはくつを履いたのであり、『礼記』曲礼に「戸外にくつが二足あるとき」というのは、それにあたる。

「口」は口舌の口ではなく、ちょうど「履」「般」が「舟」に従うものの舟や車という意味の舟ではないのと同じである。

そうではあるが、「各」の音素に「分かれる」義が含まれているのも、また事実であり、そもそも本字であるか、仮借字であるかにこだわる必要はない。

なぜ「くつを履く形」を示している「各」が、「分かれる」意を持つのか。これについて、沈氏の見方は明確ではありません。その原義よりもむしろ、「各」を声とする諸字を帰納して、それらが「分かれる」意を共有することの意義を重んじた結果、といえましょうか。

沈兼士の説が正しいとは限りませんし、先日、紹介した藤堂明保氏が指摘している「声母(語頭の子音)の区別」を沈氏は行っていません。しかし右文説の立場から、このような意見が提出されていることは、いまなお軽くない意味を持つのではないでしょうか。

「右文説在訓詁學上之沿革及其推闡」


沈兼士(1887-1947) 「右文説在訓詁學上之沿革及其推闡」(『慶祝蔡元培先生六十五歳論文集』國立中央研究院,1933年。後に『沈兼士學術論文集』中華書局,1986年に収める)を読みました。

もとの雑誌に載ったものは80ページに近い雄篇です。目次に簡単な説明を付して引いておきます。

  1. 引論
  2. 聲訓與右文(同音・近似音を用いた古い訓詁である「声訓」と、右文説との関係)
  3. 右文說之略史一(宋代の右文説についての概説)
  4. 右文說之略史二(明・清の右文説についての概説)
  5. 右文說之略史三(清末から近代にかけての字源研究の概説)
  6. 諸家學說之批評與右文說之一般公式(研究史の総括、および本稿の主内容たる「公式」)
  7. 應用右文以比較字義(右文を手がかりとして訓詁を考え直す方法)
  8. 應用右文以探尋語根(右文を手がかりとして「語根」をとらえる方法)
  9. 附錄(魏建功・李方桂・林語堂・呉承仕からの手紙、および沈兼士の識語)

形声字の声符(諧声符。本稿では「声母」と呼ばれる)に注目する右文説を大きく総括し、学問らしい学問として位置づけなおした研究であるといえます。

「政とは正なり」といった声訓の方法や、「戔のつく字はすべて小さい物事をあらわす」といった宋代の右文説は、一見すると語呂合わせや思い付きのようで、学問らしくありません。しかし清朝には、段玉裁『説文解字注』、王念孫『広雅疏証』、焦循、阮元、陳詩庭、陳澧らが、古音研究を基礎として、諧声符にあらためて着目し、研究が大きく進展します。さらに清末から民国時代には、章太炎『文始』を代表とする字源研究が、もはや諧声符の字形にこだわらず、文字の生成を論じました。こうした学問の展開が、「引論」から「右文說之略史三」にいたるまで、「右文説」という着眼点からまとめなおされています。

そして、本稿の主たる内容は、「諸家學說之批評與右文說之一般公式」という一章であろうと思われます(pp.811-834)。単純な構造をした「音符」は、さまざまなかたちで文字を派生させてゆきます。たとえば「皮」は「はぎ取られた皮」の意であり、その音が、「かぶせる」という意味を持つ「被」「彼」等のグループと、「はいで分ける」という意味の「破」等のグループを派生し、さらに「破」等のグループが、「かたむく」意の「波」「頗」等の字を派生する、という例が挙げられています(pp.814-815)。

音符が字本来の意味としてではなく、単なる音の借用として用いられることがあるなど、説明は容易ではありません。それゆえ、表による説明がなされています。辞書ではないので、調べ物に使えるわけではありませんが、これによって沈氏の考え方を知ることができます。

「應用右文以比較字義」および「應用右文以探尋語根」の二章は、この理論に基づいて訓詁学を深めるという応用編になっており、これは訓詁を考える参考になりそうです。特に後者においては、漢字ではなかなか探りがたい「語根」の概念が提唱されています。

付録とされている各氏からの手紙も興味深いものです。李氏はいかにも言語学者らしく、「字形を離れ、語音を根拠とすべきこと」を説きます。これに対し、沈氏の識語では、訓詁学の立場があらためて強調されており、それぞれの方法の違いも感じさせます。

古文字研究でもなく、近代的な言語学でもない、訓詁という立場を沈氏はとりました。そして、「右文説」という観点から学説史をまとめ、自己の見方を提示しました。ここに、右文説というひとつの漢語観の総括を見るのは、不公平ではあるまいと思うのです。

清朝の右文説


先ごろ、藤堂明保氏(1915-1985)の「単語家族」の考え方をご紹介しましたが、もとをたどれば、それは藤堂氏の完全な独創ではありません。直接的にはベルンハルド・カールグレン(Bernhard Karlgren, 1889-1978)の”Word Families in Chinese” (B.M.F.E.A, vol.5, 1933)をもとにしていますし、さらに溯って伝統的な中国古典研究の文脈に沿っていうならば、「右文説」という漢字の見方を大いに参考にしているのです。

この右文説について解説したいと思い、その総括である、沈兼士(1887-1947) 「右文説在訓詁學上之沿革及其推闡」(『慶祝蔡元培先生六十五歳論文集』國立中央研究院,1933年。後に『沈兼士學術論文集』中華書局,1986年に収める)を読みかえしておりましたが、思いのほか手間取っておりました。

しかし思いおこせば、藤堂氏の著書『漢字語源辞典』の中に、右文説についての適切な解説が含まれていました。右文説は宋代に溯るものですが、清朝の学者がこれを展開させたことこそ重要なので、ここでは、清朝の学者たちの成果を述べた部分について、藤堂氏の解説を引いておきたいと思います(學燈社,1965年,「序説」II-2)。

そもそも「右文説」とは何か?藤堂氏は次のように説明します。

形声文字は、多くは右側に音符となる部分を含んでいる。従って、青・晴・清・精という系列を例に取れば、その基本義は右側の音符「青」で代表されるといってよい。この主張を「右文説」という。

右文説とは、発音を表示する「右文」すなわち形声符が、同時に「基本義」をも表す、という学説である、というわけです。この右文説に対する清朝の学者の貢献を、藤堂氏は次のように述べます。

清朝の安徽・揚州の学派は、こうした(右文説の)考えを積極的に推進するに力があったが、そのうち程瑤田「果臝転語記」と、阮元「釈矢」「釈門」の三篇の論文は、今日からみても、かなり精彩のあるものである。

それら三つの論文について、藤堂氏は次の注釈を加えています。

程瑤田は{k-l-}という語形を表すさまざまな動植物や物の名が、概して「丸くコロコロした」特色をもつことを指摘した。阮元の「釈矢」は、矢・尸・屎・雉などが「直進する」という意味を含むことを論じ、「釈門」は門・悶・免・勉・敏などが、「狭い間隙をおかして出入りする」という意味を含むことを論じた。

ここに引かれた阮元の例からも分かるとおり、清朝の学者たちは、もはや形声符にこだわらず、「音」の共通性が意味の共通性をもつと考えるようになりました。

注目すべきは、このころになると、もはや形声文字の内部だけにとらわれず、広く「同類の語音だ」と認められるものを綜合して論じるようになったことである。高郵の王念孫『広雅疏証』は、ほとんど全書にわたって、この方法を活用し、古代語の真の意味を追求しようとしている。

さらに藤堂氏は、これを次のようにまとめます。

私は清朝古典研究の最も精彩ある部分はここにあり、また清朝古典学が300年の歴史をへて到達した終点も、まさにここに在ったと考える。それを総括したのは、清末の劉師培『左盦集』巻4にみえる「字義は字音より起こるの説(上中下)」と題する論文であった。

その劉師培の論とは如何?藤堂氏の訓読を再録するならば、以下のようなものです。

古には文字なし、まず語言あり。造字の次(じゅんじょ)は独体のもの先にして、合のもの後(のち)なり。……。古人の事物を観察するや、義象(すがた)をもって区(わか)ち、体質をもって別たず。義象(すがた)を援(ひ)きて名を製(つく)る。故に数物の義象あい同じければ、命名もまた同じ。語言に本づいて文字を製(つく)るに及んで、名物の音をもって字音となす。故に義象(すがた)同じければ、従う所の声(=音符)もまた同じきなり。

劉師培の用いる語は独特かつ難解ですが、おおむねこういうことでしょうか。まず無文字時代に溯って考えると、古人はものを把握する時、かたちや様子を基準に名づけた。四角いもの、丸いもの、白いもの、黄色いもの、長い様子、ゆったりとした様子、などなど。たとえば、四角いもの、四角い様子は、ある通ずることば(すなわち近い音声)によって、表現されること。そういう「義象」、ありさまの把握において、ものごとがとらえられた。そして、たとえば、木の仲間、石の仲間というような「体質」(すなわち偏旁的な分類)は、いまだ認識されていなかった、と。

さて、はじめて漢字を作ろうとした時、まずは、そのものごとの、かたちや様子を描写した「独体」の字(組み合わせられていない単純な構造の文字)が作られた。先の「青」の例でいえば、「すみきった」感じをいうものを、何もかも、「青」といった、というわけです。

その後、「合」の字、すなわち組み合わせて作られた複合的な文字を作る時、先に作られた「独体」の字を音符として用いて、様々な文字が作られた。そこで独体の「青」から派生して、「晴」(澄んだ日)、「清」(澄んだ水)、「精」(きれいにした米)などが、文字として、派生的に次々と作られた、というのです。

以上、藤堂氏のまとめた右文説をあらためてご紹介いたしました。

この説には、一見するとこじつけめいたところがあり、近代人として受け入れがたい面があるかも知れません。

それゆえ日本の漢学者でも、右文説と正面から向き合うような人は多くありません。しかし、藤堂氏は清朝における右文説の進展を「清朝古典研究の最も精彩ある部分はここにあり、また清朝古典学が300年の歴史をへて到達した終点も、まさにここに在った」とまで評しました。

その上、藤堂氏はさらに古文字学やカールグレンの音韻論を消化吸収し、『漢字語源辞典』を完成させ、世に問いました。そうであるとすると、藤堂氏こそ、右文説に修正を加えつつ、それをもっともよく理解し、継承しようとした学者であるといえましょう。右文説を新たに「単語家族」説として鋳なおしたのです。

ただ私としては、前述の沈兼士の論文のことで、やはり“ひっかかる”のです。藤堂氏は『漢字語源辞典』序説において、これに触れることがありませんが、沈氏の論文こそが清朝学術の「精彩」としての右文説の真の総括であると思うのです。ようやく読了しましたので、いずれ、近いうちにご紹介いたします。

「各=ひっかかる」


前回、紹介したとおり、藤堂明保氏の『漢字語源辞典』(學燈社,1965年)は「単語家族」という考え方に基づき、漢字の古義を考察したものです。

同書にはあわせて223の「単語家族」が列挙されていますが、「各」の字は、そのうち第101の家族に入っています。

第101の家族:「古・固・各・行・亢・岡・京・庚〔かたい,まっすぐ〕」。古い音はKAG, KAK, KANG。

そして、「各」の字は、次のように説明されています。

各は、「夂あし+口」の会意文字である(この足を引きずる形は、愛や憂の下部に含まれている)。□印はクチではなくて、石のごとき物、またはある地点を示す記号であろう。各の字は、金文や甲骨では、「いたる」(格)という意味に用いられる。しかし原義は、足先が固い石に届いて、「ひっかかる」さまを表わすといってよい。つまずく姿と考えてもよい。のちひっかかることを「支格」という。「某処にイタル」との意味は、そこからの派生義である。ところで、柔らかい物には、ひっかからない。つかえるのは固い物に限る。各の系列は、その点で古の系列と縁が深い。(pp.386-387)

つまり、各とは、石のような何かに足先が「ひっかかる」様子だというわけです。

なお藤堂氏は、さらに次のように注記しています。

各は固くゴロゴロした小石状の物を意味する。小石状の物は固まって別々に存在する。ところで、箇は固い竹であり、個は別々に固く領域を分かって孤立する物である。個別の個(箇)と、各別の各とは、きわめて縁が近い。各が副詞となってオノオノという意味を表わすようになるのはそのためである。なお各〔k-〕―落・洛〔l-〕のように、この諧声系列は、k,lの双方に関係するので、Karlgren氏は各*klak、落*glakという語形を推定している。(p.387)

ここで「各は固くゴロゴロした小石状の物を意味する」というのは、おそらくは各の字の下にある四角形についていうものと思われます。そうであるならば、「個」や「箇」と近いというのは、むしろ、「各」の派生的な意味であろうと考えられます。

藤堂氏は「客」字についても、「ひと所に住んで動かぬ人を主人といい、たまたま訪れて、そこにひっかかって寄留する人を客という。客は格(いたる、つかえる)と同系のコトバであり、各の原義(足がつかえる)をよく保存したコトバである」といっています(p.387)。

さらに「閣」字を説いて、「あけた扉をひっかけて固定させるくい。とじた扉を行きすぎぬよう止める臬をも閣という。北京語の擱(おく)という動詞はその系統を引くことば」ともいっています。

「各」(ひっかかるさま)、「客」(ひっかかって寄留する人)、「閣」(ひっかけて固定させるくい)というように、個別に字について、藤堂氏は「ひっかかる」様子を強調しています。では「ひっかかる」意と、「かたい」を意味する「古」の系列の字とが、どのように意味的につながるのか。前述のように、「柔らかい物には、ひっかからない。つかえるのは固い物に限る」と藤堂氏はいいますが、これでは十分に理解できません。kを声母とし「各」を含む字を、藤堂氏は「ひっかかる」と理解した。ひとまず、その点だけを確認しておきたいと思います。

「各」とは「ひっかかる」さまである。この解釈は、藤堂氏独自のものではなく、明らかに『説文解字』の「各,異辭也。从口夂。夂者,有行而止之,不相聽也」に基づくものでありましょう(上述の通り、「各」の下部を、藤堂氏は口でないと考える違いはあるものの)。

私自身としては、ここであらためて『説文解字』に立ち戻り、許慎の意図を探りたいのですが、それは先のこととさせていただきます。

単語家族の考え方


すべての漢字のうち、その多数を占めるのが、形声字です。形声字は、カテゴリーを示す「意符」と発音を示す「声符」との組み合わせから成る字です。

『説文解字』の説解においては、形声字が「なになにの声」と表記されており、それが形声字であると容易に分かります。

そして、「声符」(「諧声符」とも)は単に発音を表すだけでなく、その語の持つ感覚をも表すことが知られています。それゆえ、同じ「声符」を持つ複数の字は、たがいに共通する感覚をもっています。

『説文解字』に見える、「声符」を共有する字のグループを網羅的に抽出した学者がいます。清の朱駿声(1788-1858)です。彼の著作、『説文解字通訓定声』は、『説文解字』収録字を発音に基づいて18のグループに分け、さらにそれぞれのグループを「声符」ごとに整理したものです。声符の持つ意味を探ろうとする時に、たいへん有効な道具となります。

前回のエントリ、「閣の字義」では、「閣」字に含まれる声符「各」に注目しました。いま、『説文解字通訓定声』を見ると、その「豫部弟九」に、「各」を声符に持つ字、37字を並べています。以下にそれらを掲げます(括弧の中は、『説文解字』の篇数、部。及び大徐本に見える反切です)。

  1. 各 異辭也。从口夂。夂者,有行而止之,不相聽也。(2篇,口部。古洛切)
  2. 茖 艸也。从艸各聲。(1篇,艸部。古額切)
  3. 路 道也。从足从各。(2篇,足部。洛故切)
  4. 詻  論訟也。《傳》曰:「詻詻孔子容」。从言各聲。(3篇,言部。五陌切)
  5. 𩊚 生革可以爲縷束也。从革各聲。(3篇,革部。盧各切)
  6. 䀩 眄也。从目各聲。(4篇,目部。盧各切)
  7. 雒 鵋䳢也。从隹各聲。(4篇,隹部。盧各切)
  8. 鵅 烏鸔也。从鳥各聲。(4篇,鳥部。盧各切)
  9. 骼 禽獸之骨曰骼。从骨各聲。(4篇,骨部。古覈切)
  10. 胳 亦下也。从肉各聲。(4篇,肉部。古洛切)
  11. 𠲱 枝𠲱也。从丯各聲。(4篇,丯部。古百切)
  12. 觡 骨角之名也。从角各聲。(4篇,角部。古百切)
  13. 笿 桮笿也。从竹各聲。(5篇,竹部。盧各切)
  14. 格 木長皃。从木各聲。(6篇,木部。古百切)
  15. 賂 遺也。从貝各聲。(6篇,貝部。洛故切)
  16. 客 寄也。从宀各聲。(7篇,宀部。苦格切)
  17. 頟 顙也。从頁各聲。(9篇,頁部。五陌切)
  18. 貉 北方豸穜。从豸各聲。孔子曰:「貉之爲言惡也」。(9篇,豸部。莫白切)
  19. 駱 馬白色黑鬣尾也。从馬各聲。(10篇,馬部。盧各切)
  20. 䶅 䶅鼠,出胡地。皮可作裘。从鼠各聲。(10篇,鼠部。下各切)
  21. 洛 水。出左馮翊歸德北夷界中,東南入渭。从水各聲。(11篇,水部。盧各切)
  22. 𩂣 雨𩂣也。从雨各聲。(11篇,雨部。盧各切)
  23. 鮥 叔鮪也。从魚各聲。(11篇,魚部。盧各切)
  24. 閣 所以止扉也。从門各聲。(12篇,門部。古洛切)
  25. 挌 擊也。从手各聲。(12篇,手部。古覈切)
  26. 絡 絮也。一曰麻未漚也。从糸各聲。(13篇,糸部。盧各切)
  27. 垎 水乾也。一曰堅也。从土各聲。(13篇,土部。胡格切)
  28. 略 經略土地也。从田各聲。(13篇,田部。烏約切。段注作离約切)
  29. 鉻 𩮜也。从金各聲。(14篇,金部。盧各切)
  30. 輅 車軨前橫木也。从車各聲。(14篇,車部。洛故切)
  31. 璐 玉也。从玉路聲。(1篇,玉部。洛故切)
  32. 鷺 白鷺也。从鳥路聲。(4篇,鳥部。洛故切)
  33. 簬 箘簬也。从竹路聲。《夏書》曰:「惟箘簬楛」。簵,古文簬从輅。(5篇,竹部。洛故切)
  34. 潞 冀州浸也。上黨有潞縣。从水路聲。(11篇,水部。洛故切)
  35. 露 潤澤也。从雨路聲。(11篇,雨部。洛故切)
  36. 愙 敬也。从心客聲。《春秋傳》曰:「以陳備三愙」。(10篇,心部。苦各切)
  37. 落 凡艸曰零,木曰落。从艸洛聲。(1篇,艸部。盧各切)

これらの37字は、いずれも「各」を声符として持っており、何らかの共通性があると、一応、考えることができます。

しかしこれだけでは、それらの字が共有する基本的な意味は明らかになりません。そこで有効なのが、近代になってから発達した、「単語家族」の研究です。

「単語家族」とは、伝統的な「声符」研究を基礎としつつ、さらに音韻論に基づいて漢字の古音を研究することにより、字音ならびに意味の共通する複数の字を「家族」として認める考え方です。その代表的な成果は、藤堂明保氏の『漢字語源辞典』(學燈社,1965年)であろうと思います。

「単語家族」の考え方は、伝統的な「声符」研究と重なる面も大きいのですが、同一ではありません。詳しい内容は、前掲書の「序説」をご覧いただくとして、「声符」との関連において、次の2点だけ、ここで指摘しておきたいと思います。

  • 同じ声符を持たない字でも、字音に共通性があれば、「単語家族」を構成する。
  • 同じ声符を持つ字でも、声母(語頭の子音)が異なれば、分けて別の「単語家族」と考える。

「各」字を声符として持つ字は、『漢字語源辞典』を見ると、次の二つのグループに分かれています。

  • 第94の家族:「両・量・梁・略・路〔ふたつ対(つい)をなす〕」。古い音はLANG, LAK。
  • 第101の家族:「古・固・各・行・亢・岡・京・庚〔かたい,まっすぐ〕」。古い音はKAG, KAK, KANG。

このふたつの家族は、大分類上、同じく「V 魚部・陽部」のグループに属しており、互いに近い関係にありますが、藤堂氏によれば、ふたつに分けて考えられる、というわけです。

なお、『漢字語源辞典』は、すべての字について「家族分け」を行っているわけではなく、この辞典を調べればただちに漢字の原義が分かるというものではありません。しかしながら、「字音が語義を表している」という考え方自体は、ゆるぎないものであるように、私には思われます。

閣の字義


前漢時代の禁中にあった天禄・石渠は、いずれも「閣」と命名されましたが、なぜその名で呼ばれたのか?気にかかっておりました。『文選』李善注に引く『三輔故事』に、次のようにあるのが、ヒントになりました。

『三輔故事』曰:「石渠閣在大祕殿北,以閣祕書」。
(『文選』巻1「両都賦」序,「内設金馬、石渠之署,外興樂府協律之事」の注)

『三輔故事』曰:「天祿閣在大殿北,以閣祕書」。
(「西都賦」:「又有天祿石渠,典籍之府。命夫惇誨故老,名儒師傅,講論乎六蓺,稽合乎同異」の注)

ここで「閣」は動詞として用いられたと考えられます。『説文解字』12篇上には、「閣」を釈して次のようにいいます。

閣,所㠯止扉者。从門,各聲。
閣とは、扉を止めるためのものである。門に従い、各の声。

『説文』によると、「閣」とは、外に向かって両開きになる扉が、内側に開かないようにするためのシキミである、ということのようです。

この字について、段玉裁はかなり長い注を書いていますが、その中に、興味深い記述を見いだしました。

閣,本訓直橜,所以扞格者,引申之横者。可以庋物亦曰閣。如「內則」所云天子諸侯大夫士之閣,漢時天祿、石渠閣,皆所以閣書籍,皆是也。閣字之義如此。故凡止而不行,皆得謂之閣。(経韵楼本,12篇上11葉)
閣は、もともと「縦型のシキミ」(直橜)と訓じ、それは(扉を)止めるためのものであったが、横型のシキミにも引申(意味が拡大して用いられるようになること)された。ものをしまうところもまた、「閣」といった。たとえば、『礼記』内則にいう天子・諸侯・大夫・士の閣や、漢代の天禄閣・石渠閣がいずれも書籍を「閣」する場所であったのなどが、みなそれにあたる。「閣」字の義は、以上の通りである。それゆえ、(ものを)おしとどめて動かないようにするものは、みな「閣」といえた。

「ものをしまう容器」の例として、段玉裁は『礼記』内則を挙げているので、それを確認します。

羹食,自諸侯以下至於庶人,無等。大夫無秩膳,大夫七十而有閣。天子之閣,左達五,右達五。公、侯、伯於房中五,大夫於閣三,士於坫一。
あつものと主食については、諸侯から庶人まで、等級分けはない。大夫にはこれと決まった献立はなく、大夫は七十歳になると「閣」(木製の板で作られた収納容器で、調理された品をしまう)をしつらえる。天子の閣は、左側の「達」(「夾室」とも。正室からやや離れた部屋)に五つ、右側の「達」に五つ設置する。公・侯・伯は「房」(正室の隣の部屋)に五つ設置し、大夫は(「達」に)閣を三つ設置する。士は(閣を作らず)「坫」(部屋の隅に作った土製の台)一つを設置する。

『礼記正義』を参照して以上のように解釈しましたが、内則の場合の「閣」とは、食物をしまう収納容器のようです。なお『礼記』によると士は「閣」を持たないので、段玉裁が士にも「閣」があるというのは不審です。

「閣」は、なぜ「ものをしまう」意を持つのか。『説文解字』2篇上において、「各」は「異辭也。从口夂。夂者,有行而止之,不相聽也」と釈されており、もの同士の対立関係をいうらしく思われます。「各」を声符とする「閣」も、「扉に対抗してそれを押しとどめるもの」の意で、さらに「外物から内なるものを守る」意を持ち、その容器をもいうようになったと理解できます。

してみると、「閣祕書」という『三輔故事』の造句は、「秘書をしまう」、あるいは「秘書を保管する施設をしつらえる」意になります。前者ならば収蔵の行為に重点があり、後者ならば建築の行為に重点があることになりましょう。

「天禄・石渠はなぜ閣と命名されたか?」私自身は、これでかなりよく納得できました。

「漢長安城未央宮の禁中」


漢長安城未央宮
『漢長安城未央宮』より

青木俊介氏「漢長安城未央宮の禁中―その領域的考察」(『学習院史学』第45号,2007年)を読みました。

昨日このブログにてご紹介した、米田健志「前漢後期における中朝と尚書―皇帝の日常政務との関連から」(『東洋史研究』64巻2号,2005年)を踏まえつつ、米田氏とは異なる視覚から、青木氏は、漢の長安城の禁中を論じています。

論文の副題からも分かるとおり、禁中が長安城未央宮の中の、どこに位置したか、という問題意識に貫かれています。

文献資料が網羅的に調べられているのみならず、『漢長安城未央宮―1980-1989年考古発掘報告』(中国大百科全書出版社,1996年)をはじめとする考古学の成果もとりこまれています。

禁中とそれ以外を厳密に区別してゆく手法は手堅いもので、たとえば、未央宮前殿は郎中令(光禄勲)によって警備され、禁中は鉤盾によって警備される、という区分が明らかにされています(pp.40-41)。たいへんに明晰です。

本稿では、承明殿・金馬門・温室・石渠閣・天禄閣・黄門・蚕室・後宮などが禁中にあったことが論証され、さらにその上で、上記の発掘報告に基づき、禁中にあった諸施設の場所を比定し、禁中が未央宮前殿の北側の特定の区画に位置したことが明かされます。

私が関心をもっている石渠閣・天禄閣についても詳細です。

未央宮遺跡には、天禄閣・石渠閣の跡と伝えられる高台が存在する。これらはそれぞれ前殿遺跡の北と西北に位置している。かつて天禄閣遺跡からは「天禄閣」の文字瓦当と、天鹿文様の瓦当が出土した。「天鹿」は「天禄」の仮借である。石渠閣遺跡からは、「石渠千秋」の文字瓦当が出土しており、伝承の正しさを示している。(p.56)

「石渠千秋」の瓦当の図版は、伊藤滋『秦漢瓦当文』(日本習字普及協会,1995年)から再録されています。「天禄閣」瓦当と天鹿文様の瓦当の方は、陳直『漢書新証』(第2版,天津人民出版社,1979年)に見えるようですが(この部分、当該論文の注に番号の誤りがあります)、私はその瓦の写真も拓本も、まだ確認できていません。いずれ是非とも自分の目で見たいものです。

以前、『文選』に収める班固「両都賦」の李善注に、『三輔故事』の佚文、二条を引くことに気づきました。

『三輔故事』曰:「石渠閣在大祕殿北,以閣祕書」。
(『文選』巻1「両都賦」序,「内設金馬、石渠之署,外興樂府協律之事」の注)

『三輔故事』曰:「天祿閣在大殿北,以閣祕書」。
(「西都賦」:「又有天祿石渠,典籍之府。命夫惇誨故老,名儒師傅,講論乎六蓺,稽合乎同異」の注)

後者につき、『文選考異』では「何校「大」下添「祕」字,是也。各本皆脱」としており、つまり正しくは前殿が「大祕殿」と呼ばれたと考えています。

また、『後漢書』列伝第30上、班固伝にも「両都賦」を収め、その「又有天祿石渠,典籍之府」に李賢が注を付けて、これも『三輔故事』を引いています。

『三輔故事』曰:「天祿、石渠並閣名,在未央宮北,以閣祕書」。

これら三条は、『三輔故事』の同一の文章をそれぞれ引用したものでしょう。石渠閣・天禄閣の位置は、「大祕殿北」であったのか、「大殿北」であったのか、はたまた「未央宮北」であったのか?そして、「以閣祕書」の一句をどのように読むべきか?これらは、今後、自分の問題として、引き続き考えてみたいと思います。

「前漢後期における中朝と尚書」


米田健志氏の「前漢後期における中朝と尚書―皇帝の日常政務との関連から」(『東洋史研究』64巻2号,2005年)を読みました。

タイトルに見える「中朝」というのは、「外朝」の対になる概念です。「前漢半ばの昭帝時代に、皇帝の側近集団として中朝が出現し、それ以前からある尚書とともに、中央政府における重要性を増し、時を経た唐代に至って政府の中枢たる三省へと成長してゆく萌芽となった」とのことです(p.2)。

「中朝」は、官制から言えば、皇帝を支える側近官の集合です。米田氏は『漢書』巻77、劉輔伝の顔師古注に引く孟康の説を手がかりとして、大司馬・将軍・侍中・中常侍・散騎・諸吏・諸曹・給事中の官を「中朝」官と認め、考証を行っています。

いわゆる「中」とは禁中のことであり、「禁中とは、省中とも呼ばれる宮中の一区画のことであり、「侍御する者」以外は入ることを許されなかった空間である」とのこと(p.4)。皇帝の私的な領域といってよいでしょう。

しかし皇帝というものの性質上、禁中は私的であるのみならず、同時に、政治の意思を決定する場でもありました。「禁中もまた皇帝にとって私的空間であると同時に、政務を行う場所だったのである」(p.12)。一般の官吏が立ち入ることのできない、政治の場。実に興味深い空間です。

米田氏の論文では、上記の「中朝」官と、尚書と呼ばれる官との関係も、丹念に追われています。そこでは、「尚書が禁中において職務にあたっていたこと」を示す資料が挙げられています(p.8)。

藤田高夫氏「前漢後半期の外戚と官僚機構」(『東洋史研究』48巻4号,1990年)に従い、「個々の中朝官の間には、何らの統属関係も無かった」(p.7)という確認も重要です。明確な制度設計により作られた体制ではなく、皇帝の必要に応じて、近侍が認められていったもののごとくです。

先行研究の中には、(宦官である)中書令の指揮下にある「中朝」と、丞相や御史大夫の率いる「外朝」との対立の図式を立てるものもありますが、これでは、中朝すなわち宦官と短絡してしまい、問題を見誤ることにもなりかねません。米田氏はその図式を避けつつ、禁中における政治の実態に迫っています。

劉向の校書が行われた天禄閣も、この禁中にありました。つまり劉向・劉歆たちは、一般の官僚が立ち入ることのできない、皇帝の私的空間にて校書を行っていたわけです。その関心から読みはじめたのですが、皇帝とその周囲について、これまで曖昧であったさまざまなことが、この論文を読んだおかげで明瞭になりました。制度がどのように生まれ、そして展開してゆくか、というダイナミズムも感じられました。

ただ『漢書』百官公卿表の該当部分にも黄門が見えることですし、せっかくならば宦官についても論及があれば、私のような”門外”漢には、いっそう分かりやすかったように思います。

「前漢後期における中朝と尚書」 の続きを読む