「前漢後期における中朝と尚書」


米田健志氏の「前漢後期における中朝と尚書―皇帝の日常政務との関連から」(『東洋史研究』64巻2号,2005年)を読みました。

タイトルに見える「中朝」というのは、「外朝」の対になる概念です。「前漢半ばの昭帝時代に、皇帝の側近集団として中朝が出現し、それ以前からある尚書とともに、中央政府における重要性を増し、時を経た唐代に至って政府の中枢たる三省へと成長してゆく萌芽となった」とのことです(p.2)。

「中朝」は、官制から言えば、皇帝を支える側近官の集合です。米田氏は『漢書』巻77、劉輔伝の顔師古注に引く孟康の説を手がかりとして、大司馬・将軍・侍中・中常侍・散騎・諸吏・諸曹・給事中の官を「中朝」官と認め、考証を行っています。

いわゆる「中」とは禁中のことであり、「禁中とは、省中とも呼ばれる宮中の一区画のことであり、「侍御する者」以外は入ることを許されなかった空間である」とのこと(p.4)。皇帝の私的な領域といってよいでしょう。

しかし皇帝というものの性質上、禁中は私的であるのみならず、同時に、政治の意思を決定する場でもありました。「禁中もまた皇帝にとって私的空間であると同時に、政務を行う場所だったのである」(p.12)。一般の官吏が立ち入ることのできない、政治の場。実に興味深い空間です。

米田氏の論文では、上記の「中朝」官と、尚書と呼ばれる官との関係も、丹念に追われています。そこでは、「尚書が禁中において職務にあたっていたこと」を示す資料が挙げられています(p.8)。

藤田高夫氏「前漢後半期の外戚と官僚機構」(『東洋史研究』48巻4号,1990年)に従い、「個々の中朝官の間には、何らの統属関係も無かった」(p.7)という確認も重要です。明確な制度設計により作られた体制ではなく、皇帝の必要に応じて、近侍が認められていったもののごとくです。

先行研究の中には、(宦官である)中書令の指揮下にある「中朝」と、丞相や御史大夫の率いる「外朝」との対立の図式を立てるものもありますが、これでは、中朝すなわち宦官と短絡してしまい、問題を見誤ることにもなりかねません。米田氏はその図式を避けつつ、禁中における政治の実態に迫っています。

劉向の校書が行われた天禄閣も、この禁中にありました。つまり劉向・劉歆たちは、一般の官僚が立ち入ることのできない、皇帝の私的空間にて校書を行っていたわけです。その関心から読みはじめたのですが、皇帝とその周囲について、これまで曖昧であったさまざまなことが、この論文を読んだおかげで明瞭になりました。制度がどのように生まれ、そして展開してゆくか、というダイナミズムも感じられました。

ただ『漢書』百官公卿表の該当部分にも黄門が見えることですし、せっかくならば宦官についても論及があれば、私のような”門外”漢には、いっそう分かりやすかったように思います。

【補記】
京都大学学術情報リポジトリ”KURENAI“にて、以前の『東洋史研究』が読めるようになり、たいへん助かっています。ありがたいことです。本論文も、これによってご覧ください。

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