「漢長安城未央宮の禁中」


漢長安城未央宮
『漢長安城未央宮』より

青木俊介氏「漢長安城未央宮の禁中―その領域的考察」(『学習院史学』第45号,2007年)を読みました。

昨日このブログにてご紹介した、米田健志「前漢後期における中朝と尚書―皇帝の日常政務との関連から」(『東洋史研究』64巻2号,2005年)を踏まえつつ、米田氏とは異なる視覚から、青木氏は、漢の長安城の禁中を論じています。

論文の副題からも分かるとおり、禁中が長安城未央宮の中の、どこに位置したか、という問題意識に貫かれています。

文献資料が網羅的に調べられているのみならず、『漢長安城未央宮―1980-1989年考古発掘報告』(中国大百科全書出版社,1996年)をはじめとする考古学の成果もとりこまれています。

禁中とそれ以外を厳密に区別してゆく手法は手堅いもので、たとえば、未央宮前殿は郎中令(光禄勲)によって警備され、禁中は鉤盾によって警備される、という区分が明らかにされています(pp.40-41)。たいへんに明晰です。

本稿では、承明殿・金馬門・温室・石渠閣・天禄閣・黄門・蚕室・後宮などが禁中にあったことが論証され、さらにその上で、上記の発掘報告に基づき、禁中にあった諸施設の場所を比定し、禁中が未央宮前殿の北側の特定の区画に位置したことが明かされます。

私が関心をもっている石渠閣・天禄閣についても詳細です。

未央宮遺跡には、天禄閣・石渠閣の跡と伝えられる高台が存在する。これらはそれぞれ前殿遺跡の北と西北に位置している。かつて天禄閣遺跡からは「天禄閣」の文字瓦当と、天鹿文様の瓦当が出土した。「天鹿」は「天禄」の仮借である。石渠閣遺跡からは、「石渠千秋」の文字瓦当が出土しており、伝承の正しさを示している。(p.56)

「石渠千秋」の瓦当の図版は、伊藤滋『秦漢瓦当文』(日本習字普及協会,1995年)から再録されています。「天禄閣」瓦当と天鹿文様の瓦当の方は、陳直『漢書新証』(第2版,天津人民出版社,1979年)に見えるようですが(この部分、当該論文の注に番号の誤りがあります)、私はその瓦の写真も拓本も、まだ確認できていません。いずれ是非とも自分の目で見たいものです。

以前、『文選』に収める班固「両都賦」の李善注に、『三輔故事』の佚文、二条を引くことに気づきました。

『三輔故事』曰:「石渠閣在大祕殿北,以閣祕書」。
(『文選』巻1「両都賦」序,「内設金馬、石渠之署,外興樂府協律之事」の注)

『三輔故事』曰:「天祿閣在大殿北,以閣祕書」。
(「西都賦」:「又有天祿石渠,典籍之府。命夫惇誨故老,名儒師傅,講論乎六蓺,稽合乎同異」の注)

後者につき、『文選考異』では「何校「大」下添「祕」字,是也。各本皆脱」としており、つまり正しくは前殿が「大祕殿」と呼ばれたと考えています。

また、『後漢書』列伝第30上、班固伝にも「両都賦」を収め、その「又有天祿石渠,典籍之府」に李賢が注を付けて、これも『三輔故事』を引いています。

『三輔故事』曰:「天祿、石渠並閣名,在未央宮北,以閣祕書」。

これら三条は、『三輔故事』の同一の文章をそれぞれ引用したものでしょう。石渠閣・天禄閣の位置は、「大祕殿北」であったのか、「大殿北」であったのか、はたまた「未央宮北」であったのか?そして、「以閣祕書」の一句をどのように読むべきか?これらは、今後、自分の問題として、引き続き考えてみたいと思います。

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“「漢長安城未央宮の禁中」” への 2 件のフィードバック

  1. 漢書新証の第二版を確認しましたが、「天禄閣」関連の図版や拓本などは見付けられませんでした。あるとすれば文だけが掲載されているんだと思います。

  2. Whitestonegさま

    どうもありがとうございます。私も『漢書新証』は見ましたが、図版はありませんでしたね。どちらかで発見されたら、ぜひ教えてください。「天鹿」というのがどのようなものか、気になります。

    学退上

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