清朝の右文説


先ごろ、藤堂明保氏(1915-1985)の「単語家族」の考え方をご紹介しましたが、もとをたどれば、それは藤堂氏の完全な独創ではありません。直接的にはベルンハルド・カールグレン(Bernhard Karlgren, 1889-1978)の”Word Families in Chinese” (B.M.F.E.A, vol.5, 1933)をもとにしていますし、さらに溯って伝統的な中国古典研究の文脈に沿っていうならば、「右文説」という漢字の見方を大いに参考にしているのです。

この右文説について解説したいと思い、その総括である、沈兼士(1887-1947) 「右文説在訓詁學上之沿革及其推闡」(『慶祝蔡元培先生六十五歳論文集』國立中央研究院,1933年。後に『沈兼士學術論文集』中華書局,1986年に収める)を読みかえしておりましたが、思いのほか手間取っておりました。

しかし思いおこせば、藤堂氏の著書『漢字語源辞典』の中に、右文説についての適切な解説が含まれていました。右文説は宋代に溯るものですが、清朝の学者がこれを展開させたことこそ重要なので、ここでは、清朝の学者たちの成果を述べた部分について、藤堂氏の解説を引いておきたいと思います(學燈社,1965年,「序説」II-2)。

そもそも「右文説」とは何か?藤堂氏は次のように説明します。

形声文字は、多くは右側に音符となる部分を含んでいる。従って、青・晴・清・精という系列を例に取れば、その基本義は右側の音符「青」で代表されるといってよい。この主張を「右文説」という。

右文説とは、発音を表示する「右文」すなわち形声符が、同時に「基本義」をも表す、という学説である、というわけです。この右文説に対する清朝の学者の貢献を、藤堂氏は次のように述べます。

清朝の安徽・揚州の学派は、こうした(右文説の)考えを積極的に推進するに力があったが、そのうち程瑤田「果臝転語記」と、阮元「釈矢」「釈門」の三篇の論文は、今日からみても、かなり精彩のあるものである。

それら三つの論文について、藤堂氏は次の注釈を加えています。

程瑤田は{k-l-}という語形を表すさまざまな動植物や物の名が、概して「丸くコロコロした」特色をもつことを指摘した。阮元の「釈矢」は、矢・尸・屎・雉などが「直進する」という意味を含むことを論じ、「釈門」は門・悶・免・勉・敏などが、「狭い間隙をおかして出入りする」という意味を含むことを論じた。

ここに引かれた阮元の例からも分かるとおり、清朝の学者たちは、もはや形声符にこだわらず、「音」の共通性が意味の共通性をもつと考えるようになりました。

注目すべきは、このころになると、もはや形声文字の内部だけにとらわれず、広く「同類の語音だ」と認められるものを綜合して論じるようになったことである。高郵の王念孫『広雅疏証』は、ほとんど全書にわたって、この方法を活用し、古代語の真の意味を追求しようとしている。

さらに藤堂氏は、これを次のようにまとめます。

私は清朝古典研究の最も精彩ある部分はここにあり、また清朝古典学が300年の歴史をへて到達した終点も、まさにここに在ったと考える。それを総括したのは、清末の劉師培『左盦集』巻4にみえる「字義は字音より起こるの説(上中下)」と題する論文であった。

その劉師培の論とは如何?藤堂氏の訓読を再録するならば、以下のようなものです。

古には文字なし、まず語言あり。造字の次(じゅんじょ)は独体のもの先にして、合のもの後(のち)なり。……。古人の事物を観察するや、義象(すがた)をもって区(わか)ち、体質をもって別たず。義象(すがた)を援(ひ)きて名を製(つく)る。故に数物の義象あい同じければ、命名もまた同じ。語言に本づいて文字を製(つく)るに及んで、名物の音をもって字音となす。故に義象(すがた)同じければ、従う所の声(=音符)もまた同じきなり。

劉師培の用いる語は独特かつ難解ですが、おおむねこういうことでしょうか。まず無文字時代に溯って考えると、古人はものを把握する時、かたちや様子を基準に名づけた。四角いもの、丸いもの、白いもの、黄色いもの、長い様子、ゆったりとした様子、などなど。たとえば、四角いもの、四角い様子は、ある通ずることば(すなわち近い音声)によって、表現されること。そういう「義象」、ありさまの把握において、ものごとがとらえられた。そして、たとえば、木の仲間、石の仲間というような「体質」(すなわち偏旁的な分類)は、いまだ認識されていなかった、と。

さて、はじめて漢字を作ろうとした時、まずは、そのものごとの、かたちや様子を描写した「独体」の字(組み合わせられていない単純な構造の文字)が作られた。先の「青」の例でいえば、「すみきった」感じをいうものを、何もかも、「青」といった、というわけです。

その後、「合」の字、すなわち組み合わせて作られた複合的な文字を作る時、先に作られた「独体」の字を音符として用いて、様々な文字が作られた。そこで独体の「青」から派生して、「晴」(澄んだ日)、「清」(澄んだ水)、「精」(きれいにした米)などが、文字として、派生的に次々と作られた、というのです。

以上、藤堂氏のまとめた右文説をあらためてご紹介いたしました。

この説には、一見するとこじつけめいたところがあり、近代人として受け入れがたい面があるかも知れません。

それゆえ日本の漢学者でも、右文説と正面から向き合うような人は多くありません。しかし、藤堂氏は清朝における右文説の進展を「清朝古典研究の最も精彩ある部分はここにあり、また清朝古典学が300年の歴史をへて到達した終点も、まさにここに在った」とまで評しました。

その上、藤堂氏はさらに古文字学やカールグレンの音韻論を消化吸収し、『漢字語源辞典』を完成させ、世に問いました。そうであるとすると、藤堂氏こそ、右文説に修正を加えつつ、それをもっともよく理解し、継承しようとした学者であるといえましょう。右文説を新たに「単語家族」説として鋳なおしたのです。

ただ私としては、前述の沈兼士の論文のことで、やはり“ひっかかる”のです。藤堂氏は『漢字語源辞典』序説において、これに触れることがありませんが、沈氏の論文こそが清朝学術の「精彩」としての右文説の真の総括であると思うのです。ようやく読了しましたので、いずれ、近いうちにご紹介いたします。

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“清朝の右文説” への 2 件のフィードバック

  1. 古勝 隆一先生
                           2015年12月1日
    ◎「右文説在訓詁學上之沿革及其推闡」・「藤堂氏は『漢字語源辞典』序説において、これに触れることがありません」。

    もう40年も前に戸川芳郎先生の「書評・藤堂明保著『漢字語源辞典』」[『国語学』第67集(昭和41年12月30日発行)]をコピーした記憶があり、引っ張り出してみた所、

    ・・・さらに清代学術、ことに皖派や揚州学派の古韻研究の進展につれて起こった新音義説-程瑶田・阮元たちの諸論文、王念孫『広雅疏証』から劉師培「字義起於字音説」に至る成果が残されている(詳しくは、沈兼士《右文説在訓詁学上之沿革及其推闡》史語研集刊外編第一集「慶祝蔡元培先生六十五歳論文集」下、1935.1.を参照)。

    と記されており、括弧内の但し書きによって、沈氏の業績を藤堂先生が決して無視されていたのではないように思いました。
    またこれも戸川先生からの当時のご教示により、斉佩瑢(1911-1961)著『訓詁学概論』を読んだのですが、これにも、

    沈氏研究語文之學久而且精、其學雖源於章氏、然方法眼光並有革新、頗能當仁不讓、青出於藍、曾作右文説在訓詁學上之沿革及其推闡一文、掲載中央研究院語史研究所研究所集刊外編(蔡先生六十五歳慶祝論文集、民二十二)、長約六萬餘言、共分九節:(一)引論、(二)聲訓與右文、(三)右文説之略史一、(四)右文説之略史二、(五)右文説之略史三(六)諸家學説之批評與右文説之一般公式、(七)應用右文以比較字義、(八)應用右文以探尋語根、(九)附錄。

    と沈氏を高く評価する記述がありました。第九節・音訓(上)。
    先生のブログからさまざまな事を思い出すことが出来ました。心よりお礼申し上げます。藤田吉秋

  2. 藤田様

    戸川先生のご書評と、斉佩瑢の著作とをご紹介くださいまして、まことにありがとうございます。わたくしが戸川先生に教わった頃には、藤堂先生のお話をなさることはあまりありませんでしたが、もちろん、沈兼士と斉佩瑢のことはよく言及なさっていらっしゃいました。懐かしく思い出しながら、書きましたが、バランスを欠いていたかもしれませんね。

    ご連絡、ありがとうございます。

    学退覆

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