許慎の「各」理解


許慎は「各」を、「口」と「夂(zhǐ、漢音はチ)」とを合したものと考えます。「口」はものを言う口のことで、「夂」とは両足の足並みがそろわずに、前に進まない様子。そのようにとらえます。

各,異䛐也。䛐者,意內而言外。从口夂。夂者,有行而止之,不相聽意。
各とは、「詞」を異にすること。「詞」とは、意が内にあり言が外に現れること。口と夂とに従う。「夂」とは、進もうというのを引きとめ、互いの思いを聞かない、ということ。(『説文解字』二篇上。『説文解字注』2篇上、26葉右)

足と口とを一緒に示されても、なかなか一つの状景を思い浮かべられませんが、「思うこと、言うことに関して、足がもつれるように、食い違うこと」、そのような解釈を許慎は与えました。

「各,異䛐也。䛐者,意內而言外」は分かりやすくありませんが、段玉裁は「人が別々に「意」をもち、それぞれ「言」を口にする、ということ」と釈しています。

「夂者,有行而止之,不相聽意」というのが問題です。『説文解字』夂部の、「夂」字の説解と矛盾があるからです。これについて、段玉裁は次のように説きます。

夂部曰:「從後至也。象人㒳脛後有致之者」。致之止之,義相反而相成也。
夂部には「(夂は)後ろからやって来る形に従う。人の両足のはぎで、後ろ足が前足に追いつく様子を表す」とある。「追いつく(致)」と「引きとめる(止)」)とは、義が反対でありながら、補いあって意味をなす。

「夂」は「後ろ足が前足に追いつく様子」も示すし、同時に「両足の足並みがそろわない様子」も示す。両者をあわせて、「夂」の意味が完成する、というわけです。「義が反対でありながら、補いあって意味をなす」とは、一見すると思いつきの説明のようですが、実は訓詁学でいう「反訓」の考え方を用いたもので、いかがわしい説ではありません。もちろん、「夂」字、「各」字についてそれが当たっているかどうかは、別問題ですが。

前回お話しした通り、「各」の下部を口そのものととらえる古文字学者は、すでにほとんどないようです。そういう意味で、この場合、許慎の説を信じることは危険であるかもしれませんし、私もそこに固執するつもりはさらさらありません。

しかしながら、「夂」が両足の足並みのそろわないさまを表す、という一点は、正しいように思われます。「単語家族」説を唱えた藤堂明保氏は、「各」は「「ひっかかる」さまを表わす」といいました。これは決して偶然ではありません。「右文説」の考え方をもとに、「各」を声符に持つ字を集めてみても、それが決定的に誤っているとは思われないのです。

【補注】

読者のお求めがあったので、「䛐」字の説解と、段注の要所を訳します。「意」(思い)、「言」(発話されたもの)、「詞」(形と音を備えたことば)、その三者の関係を説明した、たいへんに重要な一条です。なお、日本語の訳文においては、「䛐」を「詞」と表記しました。

まず、説解に次のようにあります。

䛐,意內而言外也。从司言。
詞とは、意が内にあり言が外にあること。「司」「言」に従う。(『説文解字』九篇上、言部。『説文解字注』9篇上、29葉左)

「意內而言外也」について、段玉裁は次のようにいいます。

有是意於內,因有是言於外,謂之䛐。此語爲全書之凡例。……。意卽意內,䛐卽言外。言意而䛐見,言䛐而意見。意者,文字之義也。言者,文字之聲也。䛐者,文字形聲之合也。凡許之說字義,皆意內也。凡許之說形、說聲,皆言外也。有義而後有聲,有聲而後有形,造字之本也。形在而聲在焉,形聲在而義在焉,六藝之學也。
「意」が内にあって、そこで「言」が外に現れ、これを「詞」という。「詞とは、意が内にあり言が外にあること」とは、『説文解字』全体の凡例である。……。「意」は「意が内にある」に当たり、「詞」が「言が外にある」に当たる。(表現しようとする気持ちである)「意」を口にすると(ことばとしての)「詞」が現れ、「詞」を口にすると「意」が現れる。「意」とは、文字の義である。「言」とは、文字の音である。「詞」とは、文字の形と音とが合したものである。いったい、許慎が字の義を説く時は、いずれも「意が内にある」。いったい、許慎が字の形と音とを説く時には、「言が外にある」(その点に意識がある)。文字が作られた原理は、まず義があって後に音が生まれ、音が生まれて後に形が生まれる。(反対に)六書の学は、形が存在してそこに音が存在し、音が存在して義がそこに存在する(と考える)。

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“許慎の「各」理解” への 2 件のフィードバック

  1. 古勝 隆一先生
                            2012年8月8日
    前略。
    ◎「造字之本」、「六藝之學」。
    「䛐」字『段注』の

    有義而後有聲,有聲而後有形,造字之本也。
    形在而聲在焉,形聲在而義在焉,六藝之學也。

    これは、『広雅疏証』段玉裁序の

    聖人之制字、有義而後有音、有音而後有形。
    學者之考字、因形以得其音、因音以得其義。

    以上に当たるのではないでしょうか。「字形によって字音を探り、最後はその字の義を知るのが六書の学である」と考えました。
    藤田 吉秋

  2. 藤田さま

    コメントくださいまして、ありがとうございます。ご指摘のとおり、広雅疏証序のことばと一致し、しかもそちらの方が分かりやすいようです。

    私も大体、同じ方向で理解していたつもりでした。訳は確かに悪かったかもしれませんので、もう少し考えさせてください。

    以上、お礼まで。

    学退上

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