天地の讎敵


劉禹錫(772-842)「天論」は、韓愈・柳宗元の議論を踏まえて執筆されたものです。先日、次のように書きました。

「天論」自体に見える説明によると、この論は、天が人に下す罰を論じた韓愈(768-824)の一文を発端とし、それに答えた柳宗元(773-819)「天説」をさらに展開させるべく、劉禹錫によって書かれました。『劉禹錫集』(卞孝萱校訂,劉禹錫集整理組點校,中華書局,1990年。中國古典文學基本叢書)巻5、所収。

これら一連の議論の発端となったのは、韓愈の一文であったらしく、これは、柳宗元「天説」に引用された文章から内容が知られます(『柳河東集』)。

しかし、この韓愈の議論には、題名もついておらず、また韓愈の文集にも収められていません。柳宗元の引用による以外、何も手がかりがないのです。謎を含んだ一文と言えましょうか。

そこで韓愈は、激しいことを言っています。物が腐敗すると、そこに虫がわく。元気・陰陽の均衡が崩れると、そこに人間が生ずる。人間は、元気・陰陽を損ない、破壊する存在である。自分たちの都合のよいように自然を破壊して、人工物を作り、とどまるところを知らない。天地万物は、こうしてありのままの姿を失う。人間は「天地之讎」である。虫よりもひどいと言えはしまいか。こんなことを行う人間という存在は、天から罰を与えられて当然ではないか。人間による害を取り除く存在を天は称えるであろうし、害を与える人間を天は罰するであろう、と。そのように論じたのでした。

まるで現代の環境主義者の言葉のようにも聞こえます。人間の存在をこのように邪悪なもの、自然の摂理に反するものとしてとらえ、「天」と「人」とを対置する考え方。この考え方の起源を探ると、『荘子』に帰着するように思われます。

孔子曰「丘,天之戮民也。雖然,吾與汝共之。」……。子貢曰「敢問畸人。」曰「畸人者,畸於人而侔於天。故曰:天之小人,人之君子;人之君子,天之小人也。」(『莊子』大宗師)
孔子がいう、「私は天に罰を与えられた人間だ。そうではあるが、私とお前と、その境遇をともに生きよう」。……。子貢がいう、「畸人―人間の仲間でない人、というのは、どのようなものでしょうか」。孔子がいう、「畸人は、人間の仲間ではなく、天にひとしい。だから、「天にとっての小人は、人にとっての君子である。人にとっての君子は、天にとっての小人である」という言葉があるのだ」、と。

子桑戸・孟子反・子琴張という三人の仲間がいました。道を楽しむ莫逆の友です。子桑戸が亡くなり、孔子は子貢を使いに立てて弔わせますが、子貢が赴いてみると、孟子反・子琴張の二人は、楽器を奏で、歌を歌っていたというのです。驚いて帰ってきた子貢は、「いったい彼らは何者なのですか」、と孔子に問います。それに対し、孔子は「彼らは方外、すなわちこの世界の外側に生きる人々だ。我々は方内、すなわちこの世界の内側に生きる者だ」と言います。上記の引用文は、それに続く問答です。「畸人」は子桑戸・孟子反・子琴張らを指しています。

人為が自然を破壊する、というのは、『荘子』においてしばしば表明される見方で、馬蹄篇などにも見えます。しかし、そうして生きて行かざるをえない人間を「天之戮民」と呼び、そして「人にとっての君子は、天にとっての小人である」と、『荘子』は孔子の口を借りていいます。天がよしとするものと、人がよしとするもの、互いに正反対であることを明言したこの問答は、印象的です。これが韓愈の発想のもとになったのでしょう。

もちろん、『荘子』に見える議論と韓愈の議論とは、同内容ではありません。しかし、人間の存在を「天地之讎」とまでいう韓愈は、人間に対する不信の側面を『荘子』から受け継いでいるように思えるのです。

なお柳宗元はこの韓愈の言を評して、「子誠有激而為是耶」、あなたは激することがあってこの言をなしたのか、といっています。韓愈の平常の心から出されたことばではないのかもしれません。この韓愈の言が彼自身の思想全体とどのように整合性を持ちうるのか、それは別の問題として考える必要がありそうです。

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巻子本『礼記子本疏義』に見える避諱字(続)


先日、「巻子本『礼記子本疏義』に見える避諱字」と題して短文を書きましたが、その後、次の研究を読み、考えを改めました。

山本巖「礼記子本疏義考」(『宇都宮大学教育学部紀要』第37号第1部、1987年)

この論文の中で、『礼記子本疏義』に梁の武帝の諱、「衍」を避けていることを、山本氏はすでに述べられていました。

疏義は、梁の武帝蕭衍の諱も避けている。生不及祖父母節の疏文「劉智以弟為長字」の「長」を孔疏は「衍」に作っている。疏義は、「劉除字、是不附於文、則為未善」とも言っているので、「長字」が「衍字」の謂であることは、明らかである。(注1、28頁)

山本氏はそれ以外に、『礼記子本疏義』において、陳の高祖、陳霸先の「先」字が避けられていることを指摘されています。確かに『礼記子本疏義』では「先」字に代えて「前」字が多く用いられており、この点は、私も気になっており、避諱かどうか、迷っていたのですが、あらためて見直したところ、山本氏の指摘なさったとおり、陳霸先の「先」字を避けたものと考えるべきと考えるにいたりました。

「陳の皇帝の諱は避けていない」とした、羅振玉の説は、山本氏の指摘に従い、訂正されるべきでした。

さて、この写本が梁の武帝の「衍」字を、そして陳の武帝の「先」字を避けている、ということは、何を意味するのでしょうか。この『礼記子本疏義』は、梁の皇侃の疏を本に、その弟子の鄭灼が説を補ったものでした。同書は、大部分を皇侃の疏に拠っているので、皇侃の用字をそのまま鄭灼が襲ったことが、まず推測されます。その上で、鄭灼はさらに陳の時代に入って、「先」を「前」と変更した、そのように一応、考えることができます。

巻子本『礼記子本疏義』が梁の時代の写本である、という説は、撤回せねばなりません。「先」を避けている以上、それは成り立ち得ません。しかし、陳の時代の写本という可能性は、あり得るのではないか、そのように、今も考えております。

巻子本『礼記子本疏義』の声点


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『礼記子本疏義』の「長」字

先ほど、『礼記子本疏義』の影印本の写真を撮影したところ、「長」字の右肩に声点(声調を表す符号)がついていることに気がつきました。

左下が平声、左上が上声、右上が去声、右下が入声です。ということは、この字を去声で発音せよ、という指示です。

『広韻』を見ると、「長」字には、三通りの読み方がありました。

  • 〔下平陽韻〕長,久也,遠也,常也,永也。直良切。
  • 〔上聲養韻〕長,大也。又漢複姓。晉有長兒魯,少事智伯。智伯絕之三年。其後死智伯之難。知丈切。
  • 〔去聲漾韻〕長,多也。直亮切。

去声で読めば、「長字」は余分な文字、という意味となり、「衍字」と同義となります。

この中国写本に声点がついているとは思いませんでしたので、たいへんに驚いております。ほかにも声点が影印本において確認できるかどうか、調べてみたいと思います。

なお、早稲田大学が公開している写真版は精細なものではありますが、この点を確かめることはできません。実物を見せてもらえば、これが確実に声点であることが分かるはずですが、国宝ですし、過去にも出陳されたことは一度しかないと聞きましたので、今後、その望みがかなうとも思えません。朱筆か墨筆かだけでも、知りたいところです(おそらく朱筆であろうと思います、羅振玉の影印本では、朱の部分がことさらくっきりと写っているので)。

点が加えられたのが、中国においてであったか、あるいは我が国においてであったか、これも確かなことがいえません。私の心証では、中国において、この写本を写した人が加えた点であるように思われます。

巻子本『礼記子本疏義』に見える避諱字


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『礼記子本疏義』の「長字」

鄭灼『礼記子本疏義』は、早稲田大学が所蔵し、早稲田大学学術情報検索システム、WINEでも、全文の画像を見ることができます。また以前には、影印本が羅振玉(1866-1940)の手によって出版され、それが用いられていました。

(陳)鄭灼撰『六朝寫本禮記子本疏義』,羅振玉,1916年。

この影印本には、羅氏の跋文が付けられており、この写本が写された時期について、次のように述べています。

此卷用紙,質鬆而薄色竊黃,與唐代麻紙滑澤堅厚而色褐或深黃者大異。予見西陲所出六朝人書,卷軸皆然。又以書體斷之,出六朝人手無疑。卷中不避陳、隋、唐諸帝諱。灼卒於陳,而在梁已宦西省,其家貧寫書,殆當梁世,必不在宦成之後。則此卷者,或即灼所手書耶。
この巻子に用いられている紙は、質はもろくて薄く、色は薄い黄色であり、唐代の麻紙が滑らかでしっとりとして堅牢で、色は褐色あるいは濃い黄色であるのと、大いに異なる。私は西の辺境から発見された六朝の人の書物を見たが、いずれの巻子も(この『子本疏義』と)同じであった。また、書体から判断しても、六朝の人の手に成ること、疑いない。この巻子においては、陳、隋、唐の皇帝の諱が避けられていない。鄭灼は陳の時代に亡くなりはしたが、梁の時代にすでに西省の役人をしていたのであるから、(その伝記に)「家が貧しく、自分で書物を写した」というのは、おそらく梁の時代のことであり、官が進む前のことであったに違いない。そうであるなら、この巻子は、ことによると鄭灼みずからの自筆かもしれない。

羅氏も触れた避諱について、ひとつ面白いことに気がつきました。『礼記子本疏義』の次の段落です。

劉智、蔡謨皆同王義,而以“弟”為長字

これは、『礼記』喪服小記の「生不及祖父母諸父昆弟」という一句を解釈し、王粛、劉知、蔡謨の解釈を挙げた部分です。『礼記正義』では、同じ内容を次のようにいいます。

劉知、蔡謨等,解“生”義與王同,而以“弟”為衍字(北京大学出版社版、p.972)

劉智(劉知)、蔡謨は、「生不及祖父母諸父昆弟」の「弟」を衍字、すなわち誤って足された字と考えた、というわけです。それを『礼記子本疏義』では「長字」、『礼記正義』では「衍字」と表現しています。『礼記正義』は『礼記子本疏義』の内容を襲ったことが、先行研究により分かっていますから、この部分は「長」から「衍」へと、唐代に書き改められたことになります。

『子本疏義』が「衍」字を用いなかったのは、梁の武帝、蕭衍の諱を避けたために違いありません。この『子本疏義』の内容は、梁代に作られたものであり、陳代に作られたものでないこと、疑いありません。

もちろん、内容が書かれた時代と、写本が写された時代とは、分けて考えるべきであり、『子本疏義』の内容が梁代に作られたからといって、この巻子が梁代の写本である、ということにはなりません。しかし、この写本が確かに古い形を留めており、「陳、隋、唐の時代に変更が加えられた証拠はない」、と認めるべき、一つの証拠にはなるでしょう。

一般には、この写本は唐代のものとみなされているようです。しかし、南朝において写された可能性が十分に考えられるように思います。

先行研究にきちんと当たっていないので、この「長」の字に気づいた先人がいるかどうか、未確認ですが、一応、ここに記しておきます。もし、ご存知の方がいらっしゃいましたら、ご教示願います。

鄭灼の伝記


昨日、『礼記子本疏義』という文献が我が国に古くから伝えられていることを申しました。中国では後に滅びてしまった書物ですから、ただ一巻が現存するのみとはいえ、大変に貴重なものです。

同書は『礼記』の義疏であり、梁の皇侃(488-545)の説を主とし、その弟子、鄭灼(514-581)が説を補ったもののようです。『日本国見在書目録』に「『礼記子本疏義』百巻、梁国子助教皇侃撰」と著録されるものと同じ書物のはずですが、いたるところに「灼案」の語が見えるので、鄭灼の撰と考えるのがより妥当であろうと思います。

その鄭灼の伝記が、『陳書』儒林伝、鄭灼伝に見えますので、訳出しておきます。

鄭灼は、あざなは茂昭、東陽信安(今の浙江省)の人であった。祖父の鄭惠は、梁の衡陽太守をつとめた。父の鄭季徽は、通直散騎侍郎、建安令をつとめた。

灼は幼いころから聡明で、儒学を志し,若いころに皇侃の教えを受けた。梁の中大通五年(533)、官途について奉朝請となった。員外散騎侍郎、給事中、安東臨川王府記室参軍を歴任し、平西邵陵王府記室に転じた。簡文帝が皇太子であったころ(531-549)、常日頃、灼の学問を愛し,灼を引き立てて西省義学士とした。承聖年間(552-555)、通直散騎侍郎に任命され、国子博士を兼ねた。しばらくして威戎將軍となり、中書通事舎人を兼ねた。

(陳の)高祖、世祖の時代(557-566)、安東臨川、鎮北鄱陽二王府諮議参軍を経て、中散大夫に遷り、その職を持したまま国 子博士を兼ねた。これを拝する前に、太建十三年(581)に亡くなった。年、六十八歳。

灼は学問に打ち込む人であり、とりわけ三礼に明るかった。若いころ、このような夢を見た。道で皇侃に出会ったところ、侃が灼に「鄭君、口を開けたまえ」という。すると侃は灼の口の中につばを吐いた。この夢を見た後、 礼学の義理の理解がますます進んだという。灼は家が貧しく、義疏を書き写しては日に夜を継ぐほどであり、筆がすり減ってしまうと、削りなおして使った。灼は常日頃、蔬食しており、授業のときにいつも心臓のところが熱くなって苦しんだが、 瓜の季節などには、寝転んで瓜を食べて心臓を鎮め、また起き上がっては経書の誦読を続けた。かくのごとく熱心であった。

皇侃から直接教えを受けるのみならず、口につばを吐いて入れられる夢を見て、それにより礼の学問が進んだという鄭灼。何とも生々しい話です。その皇侃と鄭灼との合作である『礼記子本疏義』が、わずか一巻ばかりとはいえ、我が日本に伝えられているのも、実に縁の深い話であろうと思うのです。

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北京大学出版社標点本『礼記正義』巻三十二の校誤


1999年、李学勤氏を主編とする「十三經注疏」の標点本が、北京大学出版社から刊行されました。まず簡体字版が刊行され、翌年に繁体字版が出版されました。私は簡体字版を利用しており、重宝しております。

古典籍を読む時に、どのような本を選んで読むのか、というのは、人により考えの大きく異なるところですが、私は、比較的満足できる整理のなされた本があるならば、なるべくそれを選ぶのがよいと思っております。手際よく整理された本に基づいてこそ、最もはやく、多く読むことができる、そのように考えるからです。

北京大学出版社版の「十三經注疏」も、なかなか便利な本であると思っておりますが、『礼記正義』については、少々、首を傾げるところが出てきました。この頃、『礼記子本疏義』という写本を読んでみたのが契機です。これは、梁の皇侃の説を本として、その弟子の鄭灼という学者がさらに補った、『礼記』の義疏であり、その残巻一巻(巻59)が早稲田大学に蔵せられており、国宝にも指定されています。『礼記』の喪服小記の解釈に当たる部分で、『礼記正義』と照らし合わせることにより、さまざまなことが分かります。

対照するまでもなく分かる誤りもありますが、対照してはじめて気がつく誤りもありました。以下の通り、標点本の誤りを数条指摘いたします。まず北京大学出版社本の標点を示し(表記は繁体字に変更しています)、次に私が正しいと考える標点を示します。標点については青色で、誤字・脱字については赤色で強調しています。

  1. (誤)「“男子免而婦人髽”者,吉時首飾既異,今遭齊衰之喪,首飾亦別,當襲斂之節,男子著免,婦人著,故云“男子免而婦人髽免”者,鄭注《士喪禮》云:“以布廣一寸,自項中而前,交於額上,却繞紒也,如著幓頭矣」。(p.956。台湾芸文本p.589-2)
    (校)「“男子免而婦人髽”者,吉時首飾既異,今遭齊衰之喪,首飾亦別,當襲斂之節,男子著免,婦人著,故云“男子免而婦人髽。”免者,鄭注《士喪禮》云:“以布廣一寸,自項中而前,交於額上,却繞紒也,如著幓頭矣」。
  2. (誤)「婦人之髽,則有三,別其麻髽之形,與括髮如一」。(p.956。台湾芸文本p.589-2)
    (校)「婦人之髽,則有三別,其麻髽之形,與括髮如一」。
  3. (誤)「又鄭注士喪禮云:“始死將斬衰者,雞斯是也”」。(p.957。台湾芸文本p.590-1)
    (校)「又鄭注士喪禮云:“始死將斬衰者,雞斯”,是也」。
  4. (誤)「男子婦人畢去屨無絇」。(p.957。台湾芸文本p.590-1)
    (校)「男子婦人,皆吉屨無絇」。
  5. (誤)「其斬衰,男子括髮齊衰。男子免,皆謂喪之大事斂殯之時」。(p.958。台湾芸文本p.590-2)
    (校)「其斬衰,男子括髮;齊衰,男子免,皆謂喪之大事斂殯之時」。
  6. (誤)「事事得,如父卒為母,故三年」。(p.959。台湾芸文本p.590-2)
    (校)「事事得,如父卒為母,故三年」。
  7. (誤)「今大夫弔士,雖是緦麻之親,必亦先稽顙而後拜,故皇氏載此稽顙,謂“先拜而後稽顙”,若平等相弔,小功以下,皆不先拜後稽顙;若大夫來弔,雖緦麻,必為之先拜而後稽顙,今刪定」。(p.960。台湾芸文本p.591-1)
    (校)「今大夫弔士,雖是緦麻之親,必亦先稽顙而後拜,故皇氏載此稽顙,謂“先拜而後稽顙,若平等相弔,小功以下,皆不先拜後稽顙;若大夫來弔,雖緦麻,必為之先拜而後稽顙”,今刪定」。
  8. (誤)「故略其相親之也」。(p.961。台湾芸文本p.591-2)
    (校)「故略其相親之也」。
  9. (誤)「既義須繼,言不繼祖自足」。(p.965。台湾芸文本p.593-1)
    (校)「既義須繼,言不繼祖自足」。
  10. (誤)「云“此二者當從祖祔食。己不祭祖,無所食之也者」。(p.966。台湾芸文本p.593-2)(校)「云“此二者,當從祖祔食,己不祭祖,無所食之也者」。
  11. (誤)「庾氏云:“此殤與無後者所祭之時,非唯一度四時,隨宗子之家而祭也」。(p.966。台湾芸文本p.593-2)
    (校)「庾氏云:“此殤與無後者所祭之時,非唯一度,四時隨宗子之家而祭也」。
  12. (誤)「“從服”者,按服術有六,其一是“徒從”者,徒,空也,與彼非親屬,空從此而服彼。徒中有四」。(p.967。台湾芸文本p.594-1)
    (校)「“從服”者,按服術有六,其一是“徒從”者,徒,空也,與彼非親屬,空從此而服。彼徒中有四」。案ずるに『礼記子本疏義』には「徒,空也。與彼非親屬,空從此而服也。彼從中有四」とあります。「彼從」の方がよいように思いますが、『礼記正義』の諸本に「從」と作るものはなさそうです。
  13. (誤)「“屬從”者,所從雖沒也,服此,明屬從也」。(p.967。台湾芸文本p.594-1)
    (校)「“屬從者,所從雖沒也服”,此明屬從也」。
  14. (誤)「特云“謂若自為己之母黨”者」。(p.967。台湾芸文本p.594-1)
    (校)「特云“謂若自為己之母黨”者」。
  15. (誤)「其士既職卑,本無降」。(p.968。台湾芸文本p.595-1)
    (校)「其士既職卑,本無降」。
  16. (誤)「故鄭注《士虞記》“尸服,卒者之服,士玄端”是也」。(p.969。台湾芸文本p.595-1)
    (校)「故鄭注《士虞記》“尸服,卒者之服”:“士,玄端”是也」。
  17. (誤)「按《尚書序》云“成王既黜殷,命殺武庚,命微子啟代殷後,是擇其賢者,不立封紂子”是也」。(p.969。台湾芸文本p.595-1)
    (校)「按《尚書序》云“成王既黜殷,命殺武庚,命微子啟代殷後”,是擇其賢者,不立封紂子,是也」。
  18. (誤)「言親終一期,天道變」。(p.970。台湾芸文本p.595-2)
    (校)「言親終一期,天道變」。
  19. (誤)「“知再祭,練、祥”者,下云:“主人之喪有三年者,則必為之再祭。朋友虞祔而已。”再祭非虞、祔」。(p.971。台湾芸文本p.596-1)
    (校)「知“再祭,練、祥”者,下云:“主人之喪有三年者,則必為之再祭。朋友虞祔而已。”再祭非虞、祔」。
  20. (誤)「皇氏云:“死者有三年之親,大功主者為之練、祥。若死者有期親,則大功主者為之至練。若死者但有大功,則大功主者至期,小功、緦麻至祔。若又無期,則各依服月數而止。”故《雜記》云:“凡主兄弟之喪,雖疏亦虞之。”謂無三年及期者也」。(p.971。台湾芸文本p.596-1)
    (校)「皇氏云:“死者有三年之親,大功主者為之練、祥。若死者有期親,則大功主者為之至練。若死者但有大功,則大功主者至期,小功、緦麻至祔。若又無期,則各依服月數而止。故《雜記》云:“凡主兄弟之喪,雖疏亦虞之。”謂無三年及期者也。”
  21. (誤)「而“父稅喪已則否”者」。(p.972。台湾芸文本p.596-1)
    (校)「“而父稅喪已則否”者」。
  22. (誤)「若此親死」。(p.972。台湾芸文本p.596-2)
    (校)「若此親死」。
  23. (誤)「若君未除,則從服之」。(p.972。台湾芸文本p.596-2)
    (校)「若君未除,則從服之」。
  24. (誤)「比反而君親喪」。(p.973。台湾芸文本p.596-2)
    (校)「比反而君親喪」。

まだ作業の途中ですが、備忘のために書いておきました。この記事は、随時、内容を追補する予定です。

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「顔之推小論」


吉川忠夫先生の「顔之推小論」(『東洋史研究』第20巻第4号、昭和37年)を読みました。昭和37年は西暦でいえば1962年に当たりますから、今からちょうど50年前に書かれた論文です。論文の附記に「本稿は修士論文を書きあらためたもの」とあります。吉川先生のご研究の出発点に当たる論文といえましょう。

先日、2012年9月3日から5日にかけて、ミュンスター大学にて、シンポジウム「東アジアにおける法と罪の社会通念」が開催されました。今回ちょうど、顔之推をとりあげたラインハルト・エンメリッヒ教授の発表に対し、コメントを担当することになりましたので、吉川先生のこの論文を読み返してみた次第です。

その「はしがき」に、本稿のねらいを述べて次のようにいいます。

家訓は南北朝時代の南北両社会の文化や風俗や学術について多くのことを教えてくれる材料としてもたしかに貴重である。しかし、それが一つのまとまったかたちをとって示すものは、一亡命貴族の精神の記録であり、そして彼の生活が政治的、社会的諸条件と密接にからみあっていたがゆえに、それら諸条件の検討を背景にすえなければ家訓の理解は困難である。かかる歴史環境の中での之推の行動と内面の変貌過程の追求とが本論の課題である。

現在でも、『顔氏家訓』を当時の社会を知るための「材料」としてのみあつかう学者は、少なくありません。歴史的条件を解きほぐしつつ、『顔氏家訓』と、その著者、顔之推の核心にせまる手法は、手堅いものです。

そして、以下の構成のもと、顔之推の生きた時代とその生活が論じられています。

  1. 江南貴族社会の破局
  2. 顔之推の南朝社会批判
  3. 顔之推と北朝社会
  4. 顔之推における学問
  5. 政治的人間としての顔之推

節ごとの内容を紹介することは避けますが、洞察に富む指摘をいくつか、かいつまんでおきます。

  • 顔之推が南朝貴族に対して「きわめて批判的」であったこと(p.359)。
  • 顔家が建康にあった時も「民庶雑居」の地に暮らしていたこと(p.362)。
  • 北朝に遷って以降、「北人の生活様式に十分なじめないものを感じながらも、また南人の虚飾にみちた生活を嫌悪している」こと(p.363)。
  • 北斉の頃、顔之推は「南朝文化人であるとの理由で北斉の漢人貴族社会からの歓迎をうけたとしても、その中に進んで飛びこむことに躊躇し」たこと(p.376)。
  • また当時、宦官の鄧長顒という人物と後ろ暗い関係を持っていたこと(p.375)。

以上、いずれも鋭い指摘であろうと思います。

また、顔氏の生きた時代を論じては、梁と陳の間には「うめることのできない断層」があること(p.355)、北朝貴族の生活が、南朝貴族に比して「土地により密着したものであった」こと(p.365)、など、時代を知るヒントがさりげなく提示されています。

『顔氏家訓』という書物を前にして、我々は顔之推という人物をどのように理解することができるのか。吉川先生は、顔之推の政治的行動の「ゆがんだ面」(p.377)を指摘しつつも、その思想には次のような新しさが含まれていた、と論じます。

個人の能力よりは家格の高下が一切を決定する貴族社会への批判と同時に、理念としてはもっぱら学問によって官職を獲得しうる科挙官僚社会への展望が開けていたというべきであろう。(p.378)

ひとまずこれを傾聴すべきでしょう。しかしながら、たとえば中唐の知識人である劉禹錫などと比較してみると、顔之推という人物は、実に「南北朝的」な「貴族」であって、中唐の知識人との間には、考えられないほどの懸隔があるように思われます。『顔氏家訓』の教えは、あくまで「貴族の家を如何に継続するのか」に主眼があります。顔之推が、科挙制度導入以降の中国のありかたを見通せていた、とは、にわかに信じられないのです。

顔之推は、実に複雑な時代を生き、かなりねじれた一生を送りました。その彼を南北朝時代の末に生きた「代表的貴族」「代表的知識人」と位置づけることには、一定の留保が必要に違いありません。それでもなお、唐代の側からふりかえって観察すると、顔之推の「南北朝的」かつ「貴族的」な性質が、かえって鮮烈に印象づけられるように思うのです。

私はこれまで、『顔氏家訓』という書物を二度ほど通読しましたが、正直に申して、整然とした顔之推の像は、いまだ私の脳裏に結ばれていません。その一つの理由は、吉川先生が注意をうながされた、「材料」として『顔氏家訓』を見るというような弊に、私自身も陥っていたことであるのかもしれません。遠くない将来、あらためて同書を通読し、自分なりの顔之推像を得たいと考えております。