「顔之推小論」


吉川忠夫先生の「顔之推小論」(『東洋史研究』第20巻第4号、昭和37年)を読みました。昭和37年は西暦でいえば1962年に当たりますから、今からちょうど50年前に書かれた論文です。論文の附記に「本稿は修士論文を書きあらためたもの」とあります。吉川先生のご研究の出発点に当たる論文といえましょう。

先日、2012年9月3日から5日にかけて、ミュンスター大学にて、シンポジウム「東アジアにおける法と罪の社会通念」が開催されました。今回ちょうど、顔之推をとりあげたラインハルト・エンメリッヒ教授の発表に対し、コメントを担当することになりましたので、吉川先生のこの論文を読み返してみた次第です。

その「はしがき」に、本稿のねらいを述べて次のようにいいます。

家訓は南北朝時代の南北両社会の文化や風俗や学術について多くのことを教えてくれる材料としてもたしかに貴重である。しかし、それが一つのまとまったかたちをとって示すものは、一亡命貴族の精神の記録であり、そして彼の生活が政治的、社会的諸条件と密接にからみあっていたがゆえに、それら諸条件の検討を背景にすえなければ家訓の理解は困難である。かかる歴史環境の中での之推の行動と内面の変貌過程の追求とが本論の課題である。

現在でも、『顔氏家訓』を当時の社会を知るための「材料」としてのみあつかう学者は、少なくありません。歴史的条件を解きほぐしつつ、『顔氏家訓』と、その著者、顔之推の核心にせまる手法は、手堅いものです。

そして、以下の構成のもと、顔之推の生きた時代とその生活が論じられています。

  1. 江南貴族社会の破局
  2. 顔之推の南朝社会批判
  3. 顔之推と北朝社会
  4. 顔之推における学問
  5. 政治的人間としての顔之推

節ごとの内容を紹介することは避けますが、洞察に富む指摘をいくつか、かいつまんでおきます。

  • 顔之推が南朝貴族に対して「きわめて批判的」であったこと(p.359)。
  • 顔家が建康にあった時も「民庶雑居」の地に暮らしていたこと(p.362)。
  • 北朝に遷って以降、「北人の生活様式に十分なじめないものを感じながらも、また南人の虚飾にみちた生活を嫌悪している」こと(p.363)。
  • 北斉の頃、顔之推は「南朝文化人であるとの理由で北斉の漢人貴族社会からの歓迎をうけたとしても、その中に進んで飛びこむことに躊躇し」たこと(p.376)。
  • また当時、宦官の鄧長顒という人物と後ろ暗い関係を持っていたこと(p.375)。

以上、いずれも鋭い指摘であろうと思います。

また、顔氏の生きた時代を論じては、梁と陳の間には「うめることのできない断層」があること(p.355)、北朝貴族の生活が、南朝貴族に比して「土地により密着したものであった」こと(p.365)、など、時代を知るヒントがさりげなく提示されています。

『顔氏家訓』という書物を前にして、我々は顔之推という人物をどのように理解することができるのか。吉川先生は、顔之推の政治的行動の「ゆがんだ面」(p.377)を指摘しつつも、その思想には次のような新しさが含まれていた、と論じます。

個人の能力よりは家格の高下が一切を決定する貴族社会への批判と同時に、理念としてはもっぱら学問によって官職を獲得しうる科挙官僚社会への展望が開けていたというべきであろう。(p.378)

ひとまずこれを傾聴すべきでしょう。しかしながら、たとえば中唐の知識人である劉禹錫などと比較してみると、顔之推という人物は、実に「南北朝的」な「貴族」であって、中唐の知識人との間には、考えられないほどの懸隔があるように思われます。『顔氏家訓』の教えは、あくまで「貴族の家を如何に継続するのか」に主眼があります。顔之推が、科挙制度導入以降の中国のありかたを見通せていた、とは、にわかに信じられないのです。

顔之推は、実に複雑な時代を生き、かなりねじれた一生を送りました。その彼を南北朝時代の末に生きた「代表的貴族」「代表的知識人」と位置づけることには、一定の留保が必要に違いありません。それでもなお、唐代の側からふりかえって観察すると、顔之推の「南北朝的」かつ「貴族的」な性質が、かえって鮮烈に印象づけられるように思うのです。

私はこれまで、『顔氏家訓』という書物を二度ほど通読しましたが、正直に申して、整然とした顔之推の像は、いまだ私の脳裏に結ばれていません。その一つの理由は、吉川先生が注意をうながされた、「材料」として『顔氏家訓』を見るというような弊に、私自身も陥っていたことであるのかもしれません。遠くない将来、あらためて同書を通読し、自分なりの顔之推像を得たいと考えております。

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「「顔之推小論」」への6件のフィードバック

  1. 古勝 隆一先生
                            2012年9月10日
    前略。
    ◎「顔之推という人物は、実に『南北朝的』な『貴族』であって、中唐の知識人との間には、考えられないほどの懸隔がある」。

    『顔氏家訓』止足第13に、「先祖靖侯、戒子姪曰、『汝家書生門戶、世無富貴。自今仕宦不可過二千石。婚姻勿貪勢家』。吾終身服膺、以爲名言也」とあり、吉川忠夫先生はこの一節を「顔師古の『漢書』注」P.262(『東方学報』第51冊・1979)に引いていられます。

    http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/66563/1/jic051_223.pdf

    私は、30年も前に、「東西南北の人とよぶのこそいかにもふさわしい一生をおくった顔之推にとって、たよるべきものは『書生門戸』なる自覺以外になにひとつとしてなかったであろう。かれには故郷もなければ、田産もなかった」という一節を読んだ時、吉川先生も「書生門戸」という自負がおありなのか、と思ったものでした。
    「書生門戸」であることを誇りとし、婚姻に「世家(王利器先生は「勢」を妄改とする)」を求めない顔氏の記した『家訓』を「あくまで『貴族の家を如何に継続するのか』に主眼があ」る、とされるのは如何でしょうか。
    藤田 吉秋

  2. 藤田さま、コメントくださいまして、ありがとうございます。

    「汝家書生門戶、世無富貴。自今仕宦不可過二千石。婚姻勿貪勢家」という、顔含の教えと、それを守ろうとする顔之推の態度にこそ、貴族的な性格が見て取れると思っております。「世無富貴」というのは、貴族の中での上層にのぼらず、現状を維持することをよしとするのであろう、と解釈します。「書生門戸」というのも、当時としては、貴族でなければ維持できない生き方であったのではないでしょうか。

    引用なさっている王利器氏の注釈ですが、同書を読んだ時、その豊かな知識に圧倒されました。この注釈は、確かに『顔氏家訓』研究の水準を大きく引き上げたと思います。もう一度、通読してみたいと思っております。

    学退上

  3. 古勝 隆一先生
                            2012年9月10日
    拝復。
    「書生門戸」は「当時としては、貴族でなければ維持できない生き方」とはその通りと存じますが、勉学第8「齊有宦者内參田鵬鸞、本蠻人也」では、好学の宦者・田鵬鸞を「猶能以學成忠」と讃え、続く同「鄴平之後、見徙入關」では、「朝無祿位、家無積財。當肆筋力、以申供養。每被課篤、勤勞經史、未知爲子、可得安乎」と言う長子・思魯に対して、「子當以養爲心、父當以學爲教。使汝棄學徇財、豐吾衣食、食之安得甘。衣之安得暖。若務先王之道、紹家世之業、藜羹縕褐、我自欲之」と諭しています。こういう所が所謂の貴族とは違うように思いました。
    また、韓愈の「人之能爲人、由腹有詩書」、「人不通古今、馬牛而襟裾」(「符讀書城南」)などは、『家訓』のどこに置いても少しの違和感も有りません。
    藤田 吉秋

  4. 藤田さま、
    拝復、
     田鵬鸞の故事は、「蠻夷童丱,猶能以學成忠」の「猶」に主眼があるように思います。「蠻夷童丱」ですらこの通りなのだから、貴族はなおさら、という気分ではないのでしょうか。
     私も、顔氏の一族、顔之推が、いろいろな意味で標準的な貴族であるとは思っておりませんが、「ある種の貴族の典型」であろう、と愚考いたします。「書生門戸」とは、独特な家学を核心として、これを盾として貴族であり続けようとする、自己認識であろうと思うのです。顔之推の孫、顔師古の『漢書』注などは、このような家学なしに成立し得なかったのではありませんか。最近、顔師古『匡謬正俗』を読み、『顔氏家訓』とそっくりな説が見えることに気がつき、ますます顔氏の学が、お家芸としての貴族の学問である、と思いをいたした次第です。
     ご指摘の通り、韓愈の「符讀書城南」は、我が子に対し勉学の意義を説く点において、『顔氏家訓』と共通します。しかし韓愈は、勉強しなければ「一為馬前卒,鞭背生蟲蛆」となり、勉強すれば「一為公與相,潭潭府中居」となる、といいます。かなり露骨な利禄の求め方であるように感ぜられます。私には、六朝貴族に似つかわしい言葉とは思えません。唐代の武則天期以降、科挙が本格的に導入されて、「学び」の対象も姿勢も、大きく変わらざるを得なかったという印象を持っております。
     現在のところ、以上の通り考えているところで、これから思索を深めて行きたいと存じております。またご教示いただければさいわいです。
    学退上

  5. 古勝 隆一先生
                            2012年9月11日
    拝復。
    ◎「『匡謬正俗』、『顔氏家訓』とそっくりな説」・「お家芸としての貴族の学問」。
    吉川先生の「顔師古の『漢書』注」・「家学としての師古注」には、『顔氏家訓』と師古注とが対比されていました。ところで、『匡謬正俗』の書名ですが、『家訓』の『四庫提要』に、「晁公武『讀書志』云、『之推、本梁人。所著凡二十篇。述立身治家之法、辨正時俗之謬、以訓世人』」と書かれていました。やはり、『家訓』の主眼と言えば、この「述立身治家之法、辨正時俗之謬」ではないか、と。

    ◎「かなり露骨な利禄の求め方」。
    深く読まれる方ほどこういう解釈をされるように思います。一般の人に読んで聞かせると感心されます。

    ◎「王利器氏の注釈」。
    先生お薦めの『顔氏家訓集解』増補本、中華書局(新編諸子集成第1輯)、どこが「増補」かと思いましたら、止足第13の「婚姻勿貪勢家」に陳直氏の『顔氏家訓注補正』が引かれていました。必ずしも重要な引用とは思えませんが、人の美を掠わずということでしょうか。また、その「桓温求婚、以其盛滿不許」に就いて、森三樹三郎・宇都宮清吉訳『世説新語・顔氏家訓』平凡社(中国古典文学大系)P.425の注は、「含は当時の大勢力家桓温からの婚約の申込みを拒絶した」とするのみですが、吉川先生の「顔之推小論」P.380には、「顔含は彼の外弟である琅邪の王舒が子の允之のために女を求めたとき、また妻の従甥である桓温が小女を求めたとき、いずれもその婚姻を拒絶したことが李闡の『右光禄大夫西平靖侯顔府君碑』(『全晋文』133)にみえる」と丁寧に説かれていました。よい勉強になりました。

    一介の読者に過ぎぬ私の愚問にお答え下さることに心より感謝申し上げます。
    藤田 吉秋

  6. 藤田さま、
    拝復、
    晁公武が『顔氏家訓』を評して「述立身治家之法,辨正時俗之謬,以訓世人」といっているのですね。私は「治家之法」の側面のみを過大視しているのかもしれません。
    いつも丁寧にお読みくださり、ご批正くださいますこと、心より感謝いたしております。このようにご意見を頂戴する事が、なによりの励みとなっております。今後ともご教示を惜しまれぬよう、お願い申し上げます。
    学退上

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