『論語疏』の性格(2)


昨日、『論語』八佾篇の「告朔の餼羊」について、邢昺『論語疏』の解釈の一部が、『毛詩正義』の流用であることを述べました。

そこに取り上げた「生け贄のうち、生きているものを餼という(牲生曰餼)」の後、鄭玄注はさらに「礼では、君主は毎月の朔日に廟において告朔を行い、祭りを行い、それを朝享という(禮,人君每月告朔於廟,有祭,謂之朝享)」と続きます。『論語疏』は、その鄭注を解釈しています。

昨日指摘した『論語疏』の一部は『毛詩正義』の襲用でしたが、以下に示す「禮,人君每月告朔於廟,有祭,謂之朝享」の解釈は、『春秋正義』からの襲用です。『春秋正義』巻十九上,文公六年「閏月,不告月,猶朝于廟」注「諸侯每月必告朔、聽政,因朝宗廟。文公以閏非常月,故闕不告朔,怠慢政事。雖朝于廟,則如勿朝,故曰猶。猶者,可止之辭」正義。

両者を比較すると、前者が後者をそのまま襲ったものであることがお分かりいただけると思います。意味の説明はしません。一致していることを確認していただきさえすれば、それで十分だと思います。なお、一致しない部分は青色で強調してあります。

【論語疏】『周禮』大史「頒告朔于邦國」,鄭玄云:「天子頒朔于諸侯,諸侯藏之祖廟。至朔,朝于廟,告而受行之」。云「子貢欲去告朔之餼羊」,是用生羊告於廟,謂之告朔。人君即以此日聽視此朔之政,謂之視朔。十六年:「公四不視朔」。僖五年傳曰:「公既視朔」,是也。視朔者,聽治此月之政,亦謂之聽朔。「玉藻」云:「天子聽朔于南門之外」,是也。其日,又以禮祭於宗廟,謂之朝廟。『周禮』謂之朝享。「司尊彝」云:「追享朝享」,是也。其歲首為之,則謂之朝正。襄二十九年「正月,公在楚」,傳曰:「釋不朝正於廟」,是也。告朔、視朔、聽朔、朝廟、享、朝正,二禮各有三名,同日而為之也。
【春秋正義】『周禮』大史:「頒告朔于邦國」,鄭玄云:「天子頒朔于諸侯,諸侯藏之祖廟。至朔,朝于廟,告而受行之」。『論語』云「子貢欲去告朔之餼羊」,是用特羊告于廟,謂之告朔。人君即以此日聽視此朔之政,謂之視朔。十六年,「公四不視朔」。僖五年傳曰:「公既視朔」,是也。視朔者,聽治此月之政,亦謂之聽朔。「玉藻」云:「天子聽朔於南門之外」,是也。其日,又以禮祭於宗廟,謂之朝廟。『周禮』謂之朝享。「司尊彝」云:「追享朝享」,是也。其歲首為之,則謂之朝正。襄二十九年「正月,公在楚」,傳曰:「釋不朝正于廟」,是也。告朔、視朔、聽朔;朝廟、朝享、朝正,二禮各有三名,同日而為之也。文公以閏非常月,故闕不告朔。告朔之禮大,朝廟之禮小,文公怠慢政事,既不告朔,雖朝于廟,則如勿朝。故書「猶朝于廟」,言「猶」以譏之。

【論語疏】必於月朔為此朔、聽朔之禮者,杜預春秋釋例』曰:「人君者,設官分職,以為民極,遠細事,以全委任之責;縱諸下,以盡知力之用,揔成敗以效能否,執八柄以明誅賞。故自非機事,皆委焉。誠信足以相感,事實盡而不擁,故受位居職者,思效忠善,日夜自進,而無所顧忌也。天下之細事無數,一日二日萬端,人君之明,有所不照;人君之力,有所不堪,則不得不借問近習,有時而用之。如此則六鄉六遂之長,雖躬履此事,躬造此官,當皆移聽於內官,心於左右。政之粃亂,必由此。聖人知其不可,故簡其節,敬其事,因月朔朝廟遷坐正位,會羣吏而聽大政,考其所行而決其煩疑,非徒議將然也,乃所以考已然,又惡其審聽之亂公也。故顯眾以斷之,是以上下交泰,官人以理,萬民以察,天下以治也」。
【春秋正義】必於月朔為此朔、聽朔之禮者,『釋例』曰:「人君者,設官分職,以為民極,遠細事,以全委任之責;縱諸下,以盡知力之用,揔成敗以效能否,執八柄以明誅賞。故自非機事,皆委焉。誠信足以相感事實盡而不擁,故受位居職者,思効忠善,日夜自進,而無所顧忌也。天下之細事無數,一日二日萬端,人君之明,有所不照;人君之力,有所不堪,則不得不借問近習,有時而用之。如此則六鄉六遂之長,雖躬履此事,躬造此官,當皆移聽於內官,心於左右。政之粃亂,必由此。聖人知其不可,故簡其節,敬其事,因月朔朝遷坐正位,會羣吏而聽大政,考其所行而決其煩疑,非徒議將然也,乃所以考已然,又惡其密聽之亂公也。故顯眾以斷之,是以上下交泰,官人以理,萬民以察,天下以治也。文公謂閏非常月,緣以闕禮。傳因所闕而明言典制,雖朝于廟,則如勿朝,故經稱「猶朝于廟也」。經稱「告月」,傳言「告朔」,明告月必以朔也」。

【論語疏】每月之朔,必朝於廟,因聽政事,事敬而禮成,以故告特羊。然則朝廟、朝正、告朔、視朔,皆同日之事,所從言異耳。是言聽朔、朝廟之義也。
【春秋正義】每月之朔,必朝于廟,因聽政事,事敬而禮成,故告以特羊。然則朝廟、朝正、告朔、視朔,皆同日之事,所從言異耳。是言聽朔、朝廟之義也。

【論語疏】「玉藻」說天子朝廟之禮云「聽朔於南門之外」,諸侯「皮弁聽朔於太廟」。鄭玄以為明堂在國之陽,南門之外,謂明堂也。諸侯告朔以特羊,則天子以特牛與。天子用特牛告其帝及其神,配以文王、武王。諸侯用特羊,告太祖而已。杜以明堂與祖廟為一,但明堂是祭天之處,天子告朔,雖杜之義,亦應告人帝。朝享即月祭,是也。「祭法」云:「王立七廟:祖廟曰考廟、王考廟、皇考廟、顯考廟。皆月祭之。二祧享嘗乃止。諸侯立五廟:曰考廟、王考廟、皇考廟。皆月祭之。顯考廟、祖考廟,享嘗乃止」。然則天子告朔於明堂,朝享於五廟;諸侯告朔於大廟,朝享自皇考以下三廟耳。皆先告朔,後朝廟。朝廟小於告朔,文公廢其大而行其小,故『春秋』文公六年經云「閏月不告朔,猶朝于廟」。『公羊傳』曰:「猶者,可止之辭也」。
【春秋正義】「玉藻」說天子之禮云「聽朔於南門之外」,諸侯「皮弁聽朔於大廟」。鄭玄以為明堂在國之陽,南門之外,謂明堂也。諸侯告朔以特羊,則天子以特牛與。天子用特牛告其帝及其神,配以文王、武王。諸侯用特羊,告大祖而已。杜以明堂與祖廟為一,但明堂是祭天之處,天子告朔,雖杜之義,亦應告人帝。朝享即月祭,是也。「祭法」云:「王立七廟:曰考廟、王考廟、皇考廟、顯考廟、祖考廟。皆月祭之。二祧享嘗乃止。諸侯立五廟:曰考廟、王考廟、皇考廟。皆月祭之。顯考廟、祖考廟,享嘗乃止」。然則天子告朔於明堂,朝享於五廟;諸侯告朔於大廟,朝享自皇考以下三廟耳。皆先告朔,後朝廟。朝廟小於告朔,文公廢其大而行其小,故云「猶朝于廟」。『公羊傳』曰:「猶者,可止之辭也」。

【論語疏】天子玄冕以視朔,皮弁以日視朝。諸侯皮弁以聽朔,朝服以日視朝。其閏月則聽朔於明堂闔門左扉,立於其中。聽政於路寢門終月,故於文王在門為閏。
【春秋正義】天子玄冕以視朔,皮弁以日視朝。諸侯皮弁以聽朔,朝服以日視朝。其閏有則聽朔於明堂闔門左扉,立於其中。聽政於路寢門終月,故於文王在門為閏。

この内容は、明らかに『春秋左氏伝』を解釈したものです。『論語疏』では文公についての言及を二箇所、省略していますが、そのせいで文脈が不自然になってしまっています。この文章が劉炫『論語述議』に存在したとは、とても考えられません。

かりに現代の感覚で律するならば、剽窃というべき程度まで、『論語疏』は『春秋正義』を襲っており、そのノリとハサミの跡さえうかがうことができるのです。

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『論語疏』の性格(1)


十三経注疏の一つに『論語疏』があります。書物の巻頭には「翰林侍講學士朝請大夫守國子祭酒上柱國賜紫金魚袋臣邢昺等奉勅校定」と題されており、北宋の邢昺(932-1010)が勅を奉じて「校定」したことが知られます。

この『論語疏』には、内容上、『五経正義』と共通する解釈が多く見られます。その一例を紹介しましょう。

魯の朝廷に出仕していた子貢が、月々の朔日に供える羊を省略しようとしたところ、孔子がそれに反対したという有名な話が『論語』八佾篇にあります。「告朔の餼羊」というエピソードです。

子貢が、告朔の礼に用いる供物の羊を廃止しようとした。先生はおっしゃった、「賜(子貢の名)よ、お前は羊をおしむのだな。私は礼の方をおしむよ」と。
子貢欲去告朔之餼羊。子曰:「賜也,爾愛其羊。我愛其禮」。

何晏等が編輯した『論語集解』では、「子貢欲去告朔之餼羊」の部分、鄭玄の注を引いて解釈しています。

生け贄のうち、生きているものを「餼」という。礼では、君主は毎月の朔日に廟において告朔(朔日の報告)を行い、祭りを行い、それを朝享という。魯では文公(在位、前626-609)の時以来、朔日の礼を行わなかった。子貢は告朔の礼が廃止されたのを見たので、供物の羊をやめようと考えたのである。
牲生曰餼。禮,人君每月告朔於廟,有祭,謂之朝享。魯自文公始,不視朔。子貢見其禮廢,故欲去其羊。

邢昺校定の『論語疏』は、注の「牲生曰餼」を次のように疏釈しています。

僖三十三年『左傳』曰:「餼牽竭矣」,餼與牽相對,是牲可牽行,則餼是已殺。殺又非熟,故解者以為「腥曰餼」,謂生肉未煮者也。其實餼亦是生。哀二十四年『左傳』云:「晉師乃還,餼臧石牛」,是以生牛賜之也。及「聘禮」注云:「牲生曰餼」。不與牽相對,故為生也。

大意を説明すると、鄭玄は八佾篇の注では「生きている生け贄を「餼」という」といっているが、それ以外に、加熱していない生け贄の肉を「餼」という説もある。つまり犠牲は殺されて肉になっている。だが『春秋左氏伝』哀公二十四年の記事や『儀礼』聘礼篇の鄭注などを見ると、肉になったものばかりでなく、生きている犠牲もやはり「餼」というのだ、ということです。

この部分、実は『論語疏』独自の説ではありません。そっくり同じ段落が『毛詩正義』に見えるのです。異なる部分だけ、青色で強調しました。

僖三十三年『左傳』曰:「餼牽竭矣」,餼與牽相對,是牲可牽行,則餼是已殺。殺又非熟,故「腥曰餼」,謂生肉未煮者也。既有饔、餼,遂因解牽,使肉之別名,皆盡於此。此與牽、饔相對,故餼為腥。其實餼亦生。哀二十四年『左傳』云:「晉師乃還,餼臧石牛」,是以生牛賜之也。『論語』及「聘礼」注云「牲生曰餼」,不與牽、相對,故為生也。
(『毛詩正義』巻十五、小雅「瓠葉」序「雖有牲牢饔餼」箋「牛羊豕為牲,繫養者曰牢。熟曰饔,腥曰餼,生曰牽」疏)

明らかに『毛詩』小雅「瓠葉」の鄭箋を説明するために必要なことが述べられています。『毛詩正義』の「故知腥曰餼」を、『論語疏』は「故解者以為腥曰餼」と言いかえていますが、これでは「腥曰餼」と言ったのが誰なのかさえ分かりません。

『五経正義』の内容をつまんで『論語』の解釈として仕立て直したものが『論語疏』である、というのがその実態であると思っております。もちろん『疏』独自の解説もあるのですが、あまりうまい説明ではないように思います。

「『論語疏』は、『五経正義』の内容とよく一致し、『五経正義』の内容は多く隋の劉炫に基づく。ゆえに『論語疏』は劉炫の『論語述議』を直接に参照した可能性がある」という先行研究を読んだことがあります。しかし私には信じられません。『毛詩』を説くのと『論語』を説くのとで、劉炫がまったく同じ解釈を付けたとは、とても思えないからです。『毛詩正義』の内容を『論語疏』が襲用したと考えるのが妥当です。

劉炫『論語述議』(佚書)にこの内容は存在しなかったのではないでしょうか。

髪を洗うべき日について


後漢の王充(27-?)の書いた『論衡』に、洗髪に関する興味深い議論があります。

古代の中国には、日並(ひなみ)を選ぶ習慣があり、この日に何をすべしとか、あるいは反対に、何をすべからず、というような民間の決まりがありました。後漢の時代の人々も、行動を起こす際、そういう日の吉凶を重んじていたようです。

『論衡』譏日篇では、そのような習慣が迷信であるにすぎず、無意味であると論じています。洗髪について、王充は次のように言います。

『沐書』にいう、「子(ね)の日に洗髪すると人に好かれ、卯(う)の日に洗髪すると頭髪が白髪になる」と。

人の好き嫌いというのは、相手の容姿の良し悪しに重きを置き、頭髪の白い黒いは、年齢によるものだ。もし伝説の不美人、嫫母が子の日に髪を洗えば、人に愛されるというのか?もし十五歳の女子が卯の日に洗髪したら、髪が白髪になるというのか?

洗髪というのは、頭部についた垢を落とすことだ。足を洗って足の垢を落とし、手を洗って手の垢を落とし、入浴して身の垢を落とす。どれも体についた垢を落とすわけで、実質、同じことだ。足を洗ったり、手を洗ったり、入浴したりするのに、日を選ぶ習慣はない。それなのに洗髪にだけ日並があるのだ!

体のうちで頭部がもっとも尊いからというわけか?それなら入浴時には顔も洗う。顔だって頭部の一部だろう。

もし髪が尊いというのなら、髪を(洗髪前に)くしけずるのにも日を選ぶべきだろう。くしけずるには木でできた櫛を使い、洗髪には水を使うのだから。水も木も、同様に五行の一つだ。木を使うのを忌まないくせに、水にばかり日を選んでいるわけだ。

水が木よりも尊いというのか?それならば、水を使うのには全部、日を選ぶべきだろう。しかも水が火よりも尊いわけがないので、どうしても尊卑をつけるというのなら、火を使うのに日を選ぶべきだろう。

それに「子の日に洗髪すると人に好かれ、卯の日に洗髪すると頭髪が白髪になる」なんて、そんなわけがあろうか?子(ね)の性質は水で、卯(う)の性質は木だ。水は可愛くないし、木の色は白くない。動物で言えば、子はネズミ、卯はウサギだが、ネズミは別に可愛くないし、ウサギの毛は白くない。子の日に髪を洗えば人に好かれるなんてことがあるのか?卯の日に髪を洗うと白くなるなんてことがあるだろうか?

こういうわけだから、洗髪の日に吉凶はないし、洗髪のために日並を作るなどという説を受け入れるわけにはゆかないのだ。

王充、面白いことをいう人です。ただ、一緒にいたら、あまりの理屈っぽさにうんざりするかもしれません。

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『礼記』鄭玄注の佚文


昨日、『礼記』に見える入浴法を紹介しました。『礼記』の玉藻篇に「櫛用樿櫛,髮晞用象櫛」という一文があり、「洗髪の際にはツゲの櫛を使い、髪を乾した後には象牙の櫛を使う」というのです。

一般に『礼記』の本文は難解であり、後漢の鄭玄による注がなくては、なかなか読めるものではありません。ところがこの部分、現行の『礼記』鄭玄注は「櫛用樿櫛」について何も語っていません。『礼記』の本文並びに鄭注を疏解した孔穎達『礼記正義』は、こう言っています。

櫛用樿櫛者,樿,白理木也。櫛,梳也。沐髮為除垢膩,故用白理澁木以為梳。

「櫛用樿櫛」とあるが、「樿」とは、白理木のこと。「櫛」とは、櫛のこと。洗髪は頭髪の垢や皮脂を取り除くためのものだから、白理の摩擦のある木を用いて櫛とする。

白理木とは何の木なのか、博物学に疎く分かりません(上記の翻訳では仮にツゲとしておきました)。ともかく『礼記正義』によると、「樿」は白理木という樹木で、「櫛」は櫛、ということです。

その参考になりそうな記載が、『儀礼』喪服伝の賈公彦疏にありました。

鄭云「櫛笄者,以櫛之木為笄」者,此櫛亦非木名。案「玉藻」云:「沐櫛用樿櫛,髮晞用象櫛」,鄭云:「樿,白理木,為櫛。櫛即梳也。以白理木為梳櫛也」。彼樿木與象櫛相對,此櫛笄與象笄相對,故鄭云「櫛笄者,以櫛之木為笄」。(『儀礼』喪服「傳曰:笄有首者,惡笄之有首也。惡笄者,櫛笄也」鄭注「櫛笄者,以櫛之木為笄」疏)

賈公彦によると、「樿,白理木,為櫛」とは、『礼記』玉藻篇の「沐櫛用樿櫛」につけられた鄭玄の注である、ということになります。少なくとも賈氏の見た『礼記』鄭注ではそうなっていたはずです。

鄭注の引用がどこまで続くのかは明瞭でなく、「樿,白理木為櫛」だけなのか、「櫛即梳也」までか、はたまた「以白理木為梳櫛也」までなのか、それは一つの問題ですが、ともかく賈氏が「樿,白理木,為櫛」を『礼記』玉藻篇の鄭注として引用したことに疑いはありません。

『礼記』玉藻篇の「沐櫛用樿櫛」について鄭玄が何も言っていないのに、孔穎達『正義』が「樿,白理木也。櫛,梳也」と解釈した、というのも、やや妙なことです。現行の『礼記』玉藻篇の鄭注には脱文があると考えた方が、より分かりやすいと思います。

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『礼記』に見る、正しい入浴法


『礼記』には、古代の中国人の習俗が記録されています。たとえば彼らは、どのように入浴していたのでしょうか。『礼記』玉藻篇に興味深い記事があります。

日五盥。沐稷而靧粱。櫛用樿櫛,髮晞用象櫛。進禨進羞,工乃升歌。浴用二巾,上絺下綌。出杅,履蒯席,連用湯,履蒲席。衣布晞身,乃屨,進飲。

『礼記正義』によると、これは卿大夫の身分を有する者の入浴法であるとのことです。鄭玄の注と孔穎達の正義に従いつつ、読んでみます。

  • 「日五盥」。毎日五回、手を洗う。
  • 「沐稷而靧粱」。洗髪にはコウリャンのとぎ汁を用い、洗顔にはオオアワのとぎ汁を用いる。なめらかさを与えるために、とぎ汁を使うのである。なお君主の場合は、洗髪・洗顔ともにオオアワのとぎ汁を用いる。
  • 「櫛用樿櫛,髮晞用象櫛」。洗髪の際には、ツゲの櫛を使う。髪を乾した後には、櫛を用いて髪をとかすが、その時は象牙の櫛を使う。洗髪の際は汚れを効果的に落とすためにツゲを使うが、髪をとかすには、きしまないように象牙を使う。
  • 「進禨進羞,工乃升歌」。洗髪が終わると、英気を養うために酒と肴が供され、楽人が堂に上がり、音楽が演奏される。髪を洗うと「気」が足りなくなるので、それを補うためという。
  • 「浴用二巾,上絺下綌」。入浴には二枚のタオルを用いる。一方は細い葛の糸で織ったもの、もう一方は粗い葛の糸で織ったもの。これで体を擦って垢を落とす。
  • 「出杅,履蒯席,連用湯,履蒲席」。入浴が終わり、湯船から出ると、アブラガヤで作ったマットに足をこすりつけて足の垢を落とし、足を湯につけてその垢を取り去り、さらにガマの葉で織ったマットで足を乾かす。
  • 「衣布晞身,乃屨,進飲」。布のバスローブを着て体を乾かし、くつを履く。そして酒が進められる。

現在の我々の入浴に近いところもあり、身近に感じられもします。しかしその一方で、「気が失われるから」という理由で、入浴のたびに酒を飲んだり音楽を聴いたりするところなど、まったく様子が異なります。

もちろんこれは、家に専属の楽人を抱えるような高貴な人々の習慣ではありますが、まるで古代人の生活の一面を垣間見るようではありませんか。

「古今詞義不同辨析例」


昨日、『古代漢語』(修訂本,商務印書館,1999年)の「古今詞義不同辨析例」(同書上冊の99-122ページ)を紹介しました。古代漢語と現代漢語とで、ことばの意味が変化している例を取り上げて説明したものです。

以下、そこに挙げられている39の例を簡単に紹介します。

  1. 【愛】 古代では、愛する意、おしむ意、両義があったが、現代では前者のみ。
  2. 【謗】 上古では、その人のいないところで批判する意。後に誹謗中傷する意が生じ、現代では後者のみ。
  3. 【幣】 上古では、貨幣の意はなく、人に贈る礼物をいった。漢代以降、貨幣の意が生じた。
  4. 【斃】 古くは、たおれる意で、死ぬこととは限らなかった。魏晋以後、死ぬ意となった。
  5. 【兵】 上古では、主に兵器の意で、兵士・戦士の意はなかった。兵器から派生して、軍隊・軍事・戦争などの意が生じた。
  6. 【池】 上古では、主に壕の意。現代では「金城湯池」の成語に残る程度。
  7. 【除】 古代では、宮殿の階段の意と(現代では用いない)、除去する意(現代でも用いる)の二義。後者から派生して、古いものを取り去って新しいものを与える意(「除舊生新」)が生じたが、現代では「除夕」「除歳」に残る程度。
  8. 【黨】 古代では、集落、利害集団など。後者の意では貶義が多い。また荷担する意があった。
  9. 【貳】 現代では「二」と同音同義だが、古代では区別があった。もとは、第二・輔佐の意。また先秦には、ふたたびの意、二君に仕える、二心の意などもあった。
  10. 【訪】 現代では訪問の意だが、古代では他人に意見を求める意。中古以後、訪問の意が生じた。
  11. 【憤】 古代では、気がふさぐ意であり、怒る意ではない。漢代以降、不満がたまって感情を露わにする意が生じ、「怒」と近くなった。
  12. 【糞】 古代では、掃除する、かたづける意。そこから、作物のために除草して畝をつくって肥料をやる意が生じた。また、清掃により取り除かれた塵のことも「糞」といった。「糞土」はそれである。そこからさらに糞便の意が生じた。
  13. 【羹】 上古では、スープに入った肉料理のこと。唐宋以降の、とろみのあるスープ、ポタージュのことではない。スープでなく、具材に重点があった。
  14. 【購】 古代では、懸賞をかける意。ものを買うことではなかった。宋代に、高額にて買い取る意が生じたが、それでも単に買うことではなかった。
  15. 【館】 上古では、宿泊施設の意、また客として宿泊する意。漢代以降、壮大な宮殿を指すようになる。さらに宋代以降、学校を指すようになった。
  16. 【國】 先秦では、封建された諸侯の封地のこと。また、首都の意もあったが、現代では失われた。
  17. 【恨】 古代では、遺憾、残念の意。不満をも意味したが、それでも「怨」より程度が軽かった。現代では「恨之入骨」などというように、「恨」の方がうらみが深い。
  18. 【給】 上古では、第一に形容詞、食物が豊かに足りていること。第二に動詞、ものをささげること。与えるという意は少なかった。gei3と読まず、ji3と発音する。
  19. 【憐】 古代では、愛する、好む意。あわれむ意は、漢代以降に生じた。唐宋時代に常用される「可憐」は、かわいそうな・かわいらしい・うらまやしい・残念な・妙な、等等、さまざまな気分を表現するので、文脈に注意する必要がある。
  20. 【臉】 中古以後に生まれた語であるが、もともとは顔のうち頬骨のあたりのみを指した。現代の「臉」、すなわち顔を古代では「面」といった。
  21. 【賂】 古代では、礼物のこと、またプレゼントすること。現代では賄賂の意だが、古代ではそれを「賕」といった。
  22. 【勤】 古代では、体を疲れさせて労働する意。現代では、熱心、真面目である意が主。
  23. 【窮】 現代では「窮」と「貧」とは近いが、古代では区別があった。貧しいことを「貧」といい、生活が行き詰まる・仕官できないことを「窮」といった。「貧」は「豊」と対に、「窮」は「達」と対になる。
  24. 【去】 現代では、どこそこへ行く意。古代では反対に、どこそこを離れる意。反対になっている(日本語は古義を保っています)。古代では、ある空間や時間からの距離を示す意でも用いられた。「去武丁未久也」(『孟子』公孫丑上)など。
  25. 【勸】 古代では、奨励する意。現代では主に、説得する意で用いるが、この義は漢代以来のもの。
  26. 【乳】 古代では、子どもを生む意。また、乳を与えている時期の雌。「乳虎」などがその例。もちろん、母乳の意もあり、その義においては現代でも変わっていない。
  27. 【色】 古代では、かおいろ・表情の意。『楚辞』の「顔色憔悴」は、眉間にあらわれた表情の意であり、現代で色彩を意味するのとは異なる。女性の美しさの意は、古今を通じて変わっていない。
  28. 【售】 現代では、売る意だが、古代では、売れる意。「不售」は、ものが売れない、の意。「售之」は、売れるようにすること、つまり、買い取る意になる。
  29. 【樹】 上古では、植物を植える意として常用された。樹木の意の名詞としても用いられたが、漢代以降、広く用いられるようになった(現代における主な義)。抽象的なものを樹立する意もある。現代でも「樹立」などの語として生きている。
  30. 【睡】 古代では、座ったまま居眠りをすること。夜、就寝することは「寐」といい、やや後には「瞑」「眠」といった。唐宋以後の口語において、「睡」が常用されるようになった。ただし、唐宋時期の「睡覺」(shui4jue2と発音する)は、現代とは違って、目覚める意。
  31. 【塘】 現代では主に池の意だが、上古では、土手、堤防の意。「塘下」は、土手の下の意であり、池の底の意ではない。
  32. 【涕】 現代では主に鼻水の意だが、古代では涙の意。鼻水は「泗」「洟」と呼ばれた。また、上古には「涙」の語はなかった。
  33. 【誣】 現代では、特に事件を捏造して濡れ衣を着せる意だが、古代では、でまかせ・でたらめを言って人をだます意。「誣上」といえば、君主をあざむく意。
  34. 【寫】 古代では、書き写す意ではなかった。人やものの姿を鋳たり、刻んだりする意で常用された。後に、絵画に描く意。「寫生」などの語にその意が残っている。漢魏以降、書き写す意が生じた。「寫」は「瀉」の本字であり、注ぐ意。
  35. 【臭】 現代では、くさいという意の形容詞であるが、上古では、においという意の名詞。よいにおいにも悪いにおいにも、ともに用いられた。漢代以降、特に悪いにおいに用いられるようになった。中古以降は、名詞の「臭」をxiu4と読み、形容詞の「臭」をchou4と読む習わし。また上古には、動詞として、においをかぐ意もあった。
  36. 【淫】 上古の早い段階では、水がしみこむ意。また、ものが度を超す意で常用された。後に性的関係が度を超して正しくない意が生じ、現代ではもっぱらこの意で用いられている。
  37. 【獄】 現代では監獄の意だが、漢代以前は、裁判を司る役人、または裁判の意。漢代以前には、牢獄は「囹圄」といった。
  38. 【逐】 現代では主に追い払う意だが、上古では、ものや人を追いかけて捕まえる意。戦争の場面では追撃する意。「逐齊師」(『春秋左氏伝』荘公十年)と言えば、斉の軍隊を追撃して打ち負かす意であり、追い払う意ではない。
  39. 【走】 現代では移動する・歩く意だが、古代では、走る意。現代で走ることを意味する「跑」は、古くは逃げる意であった。なお、古代においても、「走」もまたしばしば逃げる意で用いられた。また、「走」には下働きの人間という意もあり、そこから派生して、自分自身をいう謙譲語としても用いられた。

時代とともにことばの意味も変化します。ここに挙げられているのは、見やすいものが多いわけですが、これ以外にも、日々の読書においては時代による変化に敏感でありたいものです。

現代漢語と古代漢語


昨日、『古代漢語』(修訂本,商務印書館,1999年)を紹介し、同書の中に「詞義分析舉例」というセクションがあり、重要な語彙を説明している、と指摘いたしました。

「詞義分析舉例」の第一として「古今詞義不同辨析例」(同書上冊の99-122ページ)が載せられています。これは、古代漢語と現代漢語とで、ことばの意味が変化している例を取り上げて説明したもので、大いに興味を引かれました。

かねがね私は、古代漢語を学ぶには現代漢語の学習が必須であると主張しているのですが、現代漢語を基礎として古代漢語を学ぶためにも、両者の差に敏感であるべきと心得ております。現代漢語(中国語)を学びさえすれば、古代漢語(文言文)が読める、というほど、簡単ではありません。

『古代漢語』では「古今詞義不同辨析例」として、39の例を挙げています。

「愛」「謗」「幣」「斃」「兵」「池」「除」「黨」「貳」「訪」「憤」「糞」「羹」「購」「館」「國」「恨」「給」「憐」「臉」「賂」「勤」「窮」「去」「勸」「乳」「色」「售」「樹」「睡」「塘」「涕」「誣」「寫」「臭」「淫」「獄」「逐」「走」

ざっと見渡して、現代漢語と古代漢語の差、お分かりになりますか?たとえば「走」は、現代漢語では移動する、歩く意となっており、走る意が失われています。これなどは、分かりやすい例でしょう。しかし中にはよく話を聞いてみないと分からないものもあります。

「学退筆談」では、次回、これら39の例を簡単に紹介したいと思います。よろしくお付き合いください。

商務版『古代漢語』


商務版『古代漢語』
商務版『古代漢語』

先日、『王力古漢語字典』(中華書局,2000年)を紹介しましたが、その編者は、王力、唐作藩、郭錫良、曹先擢、何九盈、蔣紹愚、張雙棣の諸氏でした。

いずれも北京大学中文系の先生方ですが、そういえば、メンバーが商務印書館版の『古代漢語』の編者とずいぶんと重なっていることに気がつきました。

『古代漢語』(修訂本),
郭錫良、唐作藩、何九盈、蔣紹愚、田瑞娟編著,
商務印書館,1999年。

全篇を通読したわけではないものの、この商務印書館版の『古代漢語』は、教科書としてかなりよくできていると思っています。

典型的な文章を取り上げて語釈を加えているだけでなく、「古代漢語常識」というセクションを設けて学習法や常識を紹介したり、「詞義分析舉例」と称して、重要な語彙を解説したりと、なかなか充実しています。上下2冊、葉数にして1123ページというのも、多いといえば多いのですが、読みこなせないほどの分量というわけでもなさそうです。

まず1981年に北京出版社から刊行され、ついで1996年に天津教育出版社から修訂本が世に問われた、とのこと。商務版に冠された郭錫良氏の「改版説明」によると、天津教育出版社版では多くの誤字を出してしまったため、あらためて上記の商務版が出版された、という事情のようです。

『古代漢語』郭錫良等編,北京出版社,1981年。
『古代漢語』(修訂本),郭錫良等編,天津教育出版社, 1996年。

この商務印書館版『古代漢語』は、真の修訂版、といえそうです。

ところで、『古代漢語』というと、王力主編のものがまず念頭に浮かびます。

『古代漢語』(修訂本)王力主編,第1-4冊,中華書局,1980年。

私は学界事情に疎く、王力主編『古代漢語』と、郭錫良等編『古代漢語』の関係を知りません。王力と本書との関係について、郭錫良氏「修訂本序」に次のように書かれています。

最後に説明すべきは、王力先生は我々の師であり、先生は本書初版(特に上冊)の編輯・執筆に少なからぬ時間と精力とを費やしてくださり、林燾先生もかつてこの計画に参加してくださったことである。彼らは本書初版の校訂者であり、ここで我々は深い懐念と謝意を表したい。

このように王力とのつながりが強調されているわけですが、ただ、王力主編と郭錫良等編、なぜ二種の教科書『古代漢語』が存在するのかについては、何も語っていません。わけがあるのでしょう。博雅の読者のご教示を待ちたいところです。

道蔵輯要本『天隠子』


道蔵輯要プロジェクト(道藏輯要研究計畫、Daozang Jiyao Project)は、『道藏輯要』所収の諸書の解題作成を目指す研究計画です。その求めに応じ、いくつかの書物の解題を書きましたので、一書ごとに分載いたします。解題集が出版された際には、あらためてご案内します。

天隠子 危7(KX12:5291-5292; BR5:265-269)

【書名】

本書に附されている司馬承禎の序によると、彼が入手した本にすでにこのように題されていたものらしい。なお、書中にも天隠子の言葉が見える。

【撰者】

本書の撰者は未詳である。唐の司馬承禎(647-735)の序文が附されていることから、それ以前の成書であることが分かる。伝本の中には、司馬承禎の撰とするものが多いが、疑わしい。晁公武(1105-1180)の『郡斎読書志』に、「天隠子は子微(司馬承禎)である」とする王古の説が見え、陳振孫(1183?-1262?)も『直斎書録解題』にて、「この論は司馬承禎の著作である「坐忘論」と表裏する関係にあるので、天隠というのは仮託ではないか」と疑っている。しかし、これらはいずれも憶測の域を出るものではなく、司馬承禎「天隠子序」に「天隠子は、吾、その何許の人なるかを知らず」といっている以上、作者未詳とせざるをえない。道蔵輯要本には撰者を書かない。

なお、本書に注釈が含まれている部分がわずかながらあり、これを司馬承禎が書いた可能性はあろう。

【テクスト】

『新唐書』芸文志には本書の名が見えないものの、宋の晁公武『郡斎読書志』、陳振孫『直斎書録解題』とも、「『天隠子』一巻」として著録する。

道蔵・道蔵輯要本以外に、明代の『説郛』に収める本文があり、また明代の周子義が刊行した諸子書の叢書である『子彙』や、清末の光緒元年(1875)に崇文書局から刊行された『百子全書』(『子書百家』ともいう)にも収められている。また日本では江戸時代、明和六年(1769)、木村兼葭堂が校した和刻本が大坂で浅野弥兵衛刊本として出された。諸本の本文に、大きな差異は存在しない。

司馬承禎「天隠子序」に「著書は八篇」と明記されているので、現行本は完本と考えられる。

【構成】

巻頭には、司馬承禎「天隠子序」が冠せられている。

一巻、八章からなる。その第一は神仙、第二は易簡、第三は漸門、第四は斎戒、第五は安処、第六は存想、第七は坐忘、第八は神解である。それぞれの章はたいへんに短いが、全体の議論はよく整えられており、論旨は明瞭である。

四庫全書では、「わずか二三紙の分量しかなく、一巻とするには足りない」という理由から、成書の時代が近いらしい『玄真子』の附録としている。

【内容】

本書の内容を、章ごとに見てゆきたい。

  • 第一の神仙篇では、人は「虚気」を受けて生まれ、修行を怠らなければ、身体が「神宅」となる、と説く。「我が虚気を修め、世俗の淪折する所と為る勿れ。我が自然を遂げ、邪見の凝滞する所と為る勿れ」と説く。
  • 第二の易簡篇では、『易』繋辞伝上に「乾は易を以て知り、坤は簡を以て能くす」と見える、「易簡」なる概念を説く。天隠子のことばとして、「易簡とは、神仙の徳なり」といい、神仙の道を学ぶには、まず方法が自然で易しいことを知るべきであり、奇妙な方法を好めば迷妄に陥る、と説く。
  • 第三の漸門篇では、『易』に漸卦があり、『老子』に「衆妙の門」を説く通り、修行において、頓悟を果たすことは不可能であり、一歩一歩進む以外にないことをいう。そのために「漸門」なる修行の階梯が設けられており、それが「斎戒」「安処」「存想」「坐忘」「神解」の五つの方法である、という。斎戒とは、身を清め心を虚しくすること。安処とは、静室にこもること。存想とは、心をまとめて本来の性質に立ち戻ること。坐忘とは、身体や自我を忘れ去ること。神解とは、すべての存在が神に通じること、という。これらの関門を一つ一つくぐり抜けることにより、神仙となることができると説く。
  • 第四の斎戒篇では、斎戒といってもただ菜食したり身を清めたりするだけでなく、食事を節制して体の中を調え、按摩によって体の外をのびやかにすることだ、と説く。そのための具体的な方法も説かれている。
  • 第五の安処篇では、修行者が過ごす部屋のしつらえ、窓の設け方などを説く。
  • 第六の存想篇では、自己の精神を保持し、自己の身体を想うことを説く。それは、自分の目と心とを見つめることだという。ここまで来れば、「道を学ぶの功は半ばなり」という。
  • 第七の坐忘篇では、坐忘とは、前述の存想によって得、また存想によって忘れることだ、という。「道を行いてその行いを見ず、坐の義にあらずや。見ること有りてその見を行わず、忘の義にあらずや」といい、いながらにして認識の働きを停止することで、坐忘を実践するという。
  • 第八の神解篇では、斎戒から坐忘までの四つの段階の修行を終えることで、神解が完成するという。すなわち、斎戒によって信解が、安処によって閑解が、存想によって慧解が、坐忘によって定解が得られ、その四つの門が神に通じることが、神解なのだ、と説く。生死・動静・邪真などの対立も、この神解によって解消することができ、以上、五つの「漸門」により、神仙の道へと至るのだ、と総括する。

なお内容的に言って、本書の司馬承禎『坐忘論』との間に関係があるか否か、議論が重ねられている。早くも宋代、曽慥『道枢』巻二、坐忘篇中に、まず『天隠子』を引用し、さらにそれに対する司馬承禎の「吾はすなわち是と異なり」という論評を載せている。これが確かな資料であるとすると、司馬承禎も、『天隠子』と自身の坐忘に関する見方の差異を認識していた、ということになろう。

【参考文献】

  • 彭運生「論『天隠子』与司馬承禎『坐忘論』的関係」(『中国哲学研究』1998年第4期)
  • 坂出祥伸「『漢武帝内伝』『天隠子』両和刻本について : 大神貫道と木村蒹葭堂」(『汲古』 61、 2012年)。
  • Livia Kohn, “The Teaching of T’ien-yin-tzu”, Journal of Chinese Religions, 15 (1987). (『天隠子』全文の英訳を含む)

道蔵輯要本『玄真子』


道蔵輯要プロジェクト(道藏輯要研究計畫、Daozang Jiyao Project)は、『道藏輯要』所収の諸書の解題作成を目指す研究計画です。その求めに応じ、いくつかの書物の解題を書きましたので、一書ごとに分載いたします。解題集が出版された際には、あらためてご案内します。

玄真子 危7(KX12:5291-5292; BR5:265-269)

【書名】

唐の張志和の号である玄真子を、著者自らが書名としたものであろう。

【撰者】

唐の張志和の撰。張志和は、『新唐書』隠逸伝に立伝されており、それによると、字は子同、婺州金華の人。初め、名を亀齢といった。父の張游朝という人物で、『荘子』『列子』に詳しく、それらに関する著書があった。肅宗(在位756-762)の時代、張志和は、十六歳の時に科挙の明経科に及第し、翰林院待詔となり、左金吾衛録事参軍の官を与えられ、志和の名を肅宗から賜った。その後、ある事件にまきこまれて南浦の尉に左遷されたが、恩赦を受けた。しかし、その後は仕官せず、みずから煙波釣徒・玄真子と称し、『玄真子』を著した。それ以外に、『太易』十五篇の著があり、この書物は三百六十五の卦を備える占いの書物であったらしい。また陸羽や顔真卿とも交流があったと、『新唐書』は伝える。それ以外にも、山水画を善くしたという。当時、よく知られた隠者であったらしい。

『新唐書』以外に、顔真卿が「浪跡先生玄真子張志和碑」を書いており(『顔魯公文集』巻九)、その内容は『新唐書』と基本的に一致するが、異なる部分もある。また、『歴代名画記』巻十、『唐才子伝』巻三にも張志和の伝を載せている。

【テクスト】

本書は、早くも『新唐書』芸文志に著録されているが、ただしその記載に混乱がある。すなわち、丙部子録道家類に「(張志和)『玄真子』十二巻。韋詣、内解を作る」と見えるにも関わらず、同類の神仙家の分類に「張志和『玄真子』二巻」と重出しており、しかも巻数に齟齬がある。顔真卿「浪跡先生玄真子張志和碑」にも同書を十二巻としているので、十二巻本があったことは事実であろう。

陳振孫(1183?-1262?)の『直斎書録解題』は、本書を録して、「『玄真子』外篇、三巻。唐の隠士、金華の張志和撰」といい、「『新唐書』には十二巻とするが、現行本は三巻しかないので、一部だけなのだろう。外篇というからには、内篇もあったに違いない」という。南宋の頃には、三巻本が伝わっており、しかも「外篇」と書かれていたことが分かる。なお現存諸本のうち、道蔵本が「外篇」と明記するものの、そのように明記しない本が多い。

本書は四庫全書にも収録されており、その本は、道蔵輯要本と同じ構成を持っている。『四庫提要』には、「伝わっているのは三篇だけで、第一は碧虚、第二は鸑鷟、第三は濤之霊で、あわせて一巻となっている。陳振孫のいうのとも異なるが、ことによると、南宋時代の本は一篇を一巻としていたのかもしれない」という。陳振孫はただ三巻というのみで、その篇目をいわないので、現行本と南宋時代の本とがどのような関係にあるのかは、確言できない。

刊本としては、道藏本、道蔵輯要本以外に、明代の周子義が刊行した諸子書の叢書、『子彙』にも収められており、その内容は、現行本と同じである。また、清末の光緒元年(1875)に崇文書局から刊行された『百子全書』(『子書百家』ともいう)にも収められている。

【構成】

「碧虚」「鸑鷟」「濤之霊」の三篇からなる。実録らしく思われる文章はごく少なく、複数の寓話から成り立っている。それぞれの篇の篇名は、篇の書き出しの二文字か三文字をとったものであり、古雅な命名法である。

「碧虚」篇は、短い序に続いて、黄郊(地)の神である祇卑、紫微(天)の神である神尊、碧虚の神である霊荒の三者の問答から始まり、さらに碧虚と紅霞の問答がそれに続き、その紅霞が造化という神を探す旅に出る様子を描く。

「鸑鷟」篇は、一連なりの寓話ではなく、五つの寓話を並べたものである。第一に、鸑鷟、狻麑、中華子の問答。第二に、太廖、無辺の問答。第三に九大に関する寓話。第四に鵜という怪鳥を射落とす寓話。以上の数話が収められている。

「濤之霊」篇も、いくつかの寓話からなる。第一に、濤の霊である江胥、漢の神である河姑、それに至元という神による問答。第二に、呉生という画家と玄真子の対話であり、これは実録らしく思われる。第三に、蓮の葉にたまった水の譬喩。第四に、日月や死生に関する議論。第五に、有無に関する議論。第六に、影と光の問答。第七に、黙と寂の問答である。

【内容】

全体として、一貫した構成をもっているわけでなく、複数の寓話や議論を集めたものである。大部分、複数の神に仮託した寓話の形式を取っているため、『荘子』『列子』に似ると評せられ、「その主旨は道家の虚無玄妙の説に帰着する」といわれる(『道蔵提要』)。

本書のうち、「碧虚」篇の内容はかなりまとまったものである。「構成」の項に記したとおり、碧虚の神と紅霞の神との問答が含まれているが、紅霞が碧虚に向かって、「それ造化の端、自然の元、その体は若何(夫造化之端、自然之元、其体若何)」と問いかけ、碧虚が「空洞の歌」を歌って、「自ること無くして然り、自然の元なり。造る無くして化す、造化の端なり(無自而然、自然之元。無造而化、造化之端)」とそれに答えている。それを受けて、紅霞は造化に会うための旅に出かけるが、東西南北をめぐっても、なかなか造化に出会うことが出来ない。行く先を見失っていたところ、神と易という名の二人の子どもに遭遇し、造化と会うための手がかりを得て、造化に謁見する。造化に会って大いに満足した紅霞は「至道の無有を知る(知至道之無有也)」という境地に至ったという。その造化は神として描かれているものの、張志和にとっては、中心となる概念であったように思われる。

「濤之霊」篇の第二の章は、呉生なる画家と玄真子の会話であり、ここにのみ、作者の張志和が表立って登場している。呉生は、「鬼」の絵の名人として紹介され、「あなたが造化の質問をしたのに感じ入り、私も造化の答えをせざるをえない」と玄真子に答えている。ここでも、『荘子』に由来する造化という概念が重んじられ、さらにそれが絵画の実践をささえるものとして表明されている。

それぞれの寓話や問答の背景は、十分に理解しがたいが、唐代における老荘思想の展開を示す一書として、資料的な価値の高いものと考えられる。

【参考文献】

  • 何建明「『玄真子』造化観探析」(『中国道教』1994年第2期)。
  • 陳耀東『張志和研究』(新華出版社、2007年)。