道蔵輯要本『南華真経注疏』


道蔵輯要プロジェクト(道藏輯要研究計畫、Daozang Jiyao Project)は、『道藏輯要』所収の諸書の解題作成を目指す研究計画です。その求めに応じ、いくつかの書物の解題を書きましたので、一書ごとに分載いたします。解題集が出版された際には、あらためてご案内します。

南華真経注疏 牛1-8(KX9:3515-3989; BR4:1-209)

【書名】

本書は、先秦時代の道家の書、『荘子』の注釈である。西晋の郭象が注した「注」と、唐初の道士、成玄英がそれを再解釈した「疏」の部分からなる。おそらく、郭象の『荘子』注(『荘子』本文に注を付したもの)と、成玄英の『荘子疏』を、後に取り合わせて一書としたものであろう。取り合わせられた時代は、唐代から宋代の間である。北宋の張君房は、郭象注と成玄英疏とをあらためて校訂したという(陳景元『南華真経章句余事』)。

『南華真経』という呼称にも、問題がある。重刊道蔵輯要本の書名は『南華真経注疏』であるが、もともと成玄英の疏は『荘子疏』と名づけられていたが、その後、唐代のうちに現在の書名に改称されたものであろうと考えられる。

唐の玄宗の天宝元年(742)二月、詔勅が発せられ、それにより、荘子は南華真人と呼ばれ、その著『荘子』は『南華真経』と呼ばれることとなった(『旧唐書』礼儀志四)。すなわちそれ以前には、『荘子』が『南華真経』と呼ばれることはなかった。『隋書』経籍志に、梁曠『南華論』二十五巻なる書が見えるから、唐代以前に荘子を南華と呼ぶことがあったと分かるものの、『南華真経』の呼び名は天宝元年以降のものである。成玄英自身も、注釈の中で南華真人および『南華真経』の名を使っていない。

【撰者】

注は晋の郭象(?-312?)の注。疏は唐の道士、成玄英(7世紀前半ころ活躍)の撰。

郭象の伝は、『晋書』に見える。それによると、郭象、字は子玄、若くから才能あふれ、老荘を好み清言に長じていた。太尉の王衍は、「象のことばを聴くと、まるで滝から水が落ちるようで、注がれて尽きることがない」と評した。州郡から召されても、応じなかった。静かに暮らし、文章を楽しみとしていた。後に、司徒の副官として召された、黄門侍郎の官に至った。東海王の司馬越が引き立てて、太傅主簿とし、信任されたが、権勢を振るい、影響を行使するようになり、かねてからの評判は失われた。永嘉年間の末に病死し、『碑論』十二篇を著した。

それ以外に、『晋書』本伝は、郭象の『荘子』注のことを伝えるが、すでに存在した向秀の『荘子』注を剽窃した、とする。しかしこれについて、現存の『荘子』注を郭象のものと認めるべきとする説が、現在では有力である。

疏を書いた成玄英は、正史には伝が立てられていないが、『新唐書』芸文志に、簡略な記事が記されている。すなわち、それによると、成玄英、字は子実、陝州(現在の河南省三門峡市)の人、東海(現在の江蘇省連雲港市)に隠居していたが、貞観五年(631)、召されて長安に至った。永徽年間(650-655)、郁州(現在の江蘇省連雲港市)に流された。『荘子疏』が完成すると、道王の李元慶(高祖の第十六子)は、賈鼎という人物を派遣してその大義を学ばせ、嵩高山の李利渉がこれに序を書いたという。

また成玄英による本書の序に、「唐西華法師成玄英撰」と記されているので、長安にいた頃、彼は西華観という道観に住したことが知られる。さらに、道宣(596-667)の『続高僧伝』に成英、成世英として、同『集古今仏道論衡』には成英として見え、これらの記事から、その時期の成玄英の活動をうかがうことができる。

【テクスト】

早くも『旧唐書』経籍志、丙部子録、道家類に「『荘子疏』十二巻。成玄英撰」と見え、『新唐書』芸文志も同内容である。『宋史』芸文志、子類、道家類では「成玄英『荘子疏』十巻」とし、巻数が異なる。

本書には、『南華真経注疏』と題する南宋時代の版本が存在し、古く日本に伝えられ金澤文庫に収められた。十巻(ただし、欠巻がある)。現在、静嘉堂文庫美術館に蔵し、国の重要文化財に指定されている。この本は、黎庶昌が光緒十年(1884)に出版した『古逸叢書』の一冊として覆刻されており、現在では中国でもよく知られる。郭象注本『荘子』と成玄英の疏とをまとめて編輯したものである。

南宋版を除くと、正統道蔵に収める三十五巻本の『南華真経注疏』(0743 洞神部 27-21639 507-519)が重要である。この本も、郭象注本『荘子』と成玄英の疏とをまとめたものである。道蔵に収められていながら、長い間、学者に知られておらず、四庫全書が編纂された十八世紀後半において、道蔵に本書が含まれることが知られていなかったので、四庫全書に収録されなかった。十九世紀末、郭慶藩(1844-1896)が『荘子集釈』を著した際にも、古逸叢書本のみに基づいており、道蔵本が参照されていない。

そのほかに和刻本一種が存在する。すなわち、万治四年(1661)、中野宗左衛門刊本の『南華真経注疏解経』三十三巻である。 この和刻本は、「和刻本諸子大成」第十一輯(汲古書院、1976年)にも収められている。

【構成】

現行の荘子は、すべて郭象が整理した三十三篇本に由来するものであり、その三十三篇本は内篇・外篇・雑篇に大分されている。本書もそれに従っているので、そのうちわけを記しておく。

内篇は、逍遥遊第一、斉物論第二、養生主第三、人間世第四、徳充符第五、大宗師第六、応帝王第七の諸篇からなる。

外篇は、駢拇第八、馬蹄第九、胠篋第十、在宥第十一、天地第十二、天道第十三、天運第十四、刻意第十五、繕性第十六、秋水第十七、至楽第十八、達生第十九、山水第二十、田子方第二十一、知北遊第二十二の諸篇からなる。

雑篇は、庚桑楚第二十三、徐無鬼第二十四、則陽第二十五、外物第二十六、寓言第二十七、譲王第二十八、盗跖第二十九、説剣第三十、漁父第三十一、列禦寇第三十二、天下第三十三の諸篇からなる。

重刊道蔵輯要本の本書は、まず巻頭に郭象「南華真経注序」および成玄英「南華真経疏序」を冠し、その本文は八巻からなる。本文の構成は以下のとおりである。

  • 第一巻には、内篇の逍遥遊第一から養生主第三までを収める。
  • 第二巻には、内篇の人間世第四から応帝王第七までを収める。
  • 第三巻には、外篇の駢拇第八から天地第十二までを収める。
  • 第四巻には、外篇の天道第十三から刻意第十五までを収める。
  • 第五巻には、外篇の繕性第十六から達生第十九までを収める。
  • 第六巻には、外篇の山水第二十から知北遊第二十二までを収める。
  • 第七巻には、雑篇の庚桑楚第二十三から外物第二十六までを収める。
  • 第八巻には、雑篇の寓言第二十七から天下第三十三までを収める。

重刊道蔵輯要本の篇巻の構成は、以上の通りであるが、さらに、各篇における『荘子』本文、郭象注、成玄英疏の体裁についても触れておく。まず、『荘子』本文を短く示し、次に改行して、行の冒頭に「注」と明記して、『荘子』本文を解釈する郭象注を示し、さらに改行し、行の冒頭に「疏」と明記して、成玄英疏を示している。

【内容】

本書の内容は、『荘子』本文の内容、郭象注の内容、成玄英疏の内容に分かれるが、ここでは、『荘子』本文を解説することはせず、注釈の内容を解説する。郭象注については最小限の記述にとどめ、成玄英疏について紙幅をさきたい。

郭象注は、西晋時代に著された最も有力な『荘子』の注釈である。まず郭象は、当時、五十二篇本であった『荘子』の一部を削除し、三十三篇に改変した。陸徳明『経典釈文』には、「『漢書』芸文志に『莊子』は五十二篇といい、司馬彪や孟氏が注釈した本がそれに当たる。奇矯なことばが多く、『山海経』に似ていたり、『占夢書』に似ていたりするところがあり、注釈者が自分の判断で取捨選択している。内篇に関しては、諸家ともに同じであるが、それ以外は、外篇はあっても雑篇がないものなどが存在した。郭象の注のみが、ひとり荘子の主旨に合致しており、世に重んじられている」という。南朝末期において、『荘子』郭象注が如何に重んじられたかを伝える、貴重な証言である。

郭象のとらえた荘子の主旨とは、聖人による理想的な世の現出を考える、一種の政治思想である。すなわち、聖人が是非の判断を停止し、何物にもとらわれず世に順応することにより、万物の生を妨げず、それにより万物それぞれが自得し、安寧が得られる。それを伝えるために『荘子』という書物は書かれた、とする。郭象によれば、歴史的事実としての王などの事跡は、個別的な足跡である「迹」にすぎず、その背後には、それらさまざまな「迹」を生み出す「所以迹」(それによってさまざまな「迹」が生まれる力)がある。それゆえ、個別の出来事に拘泥して価値判断を働かせることは、人々をさかしらにし、不幸にするものとされ、厳しく批判される。郭象は、『荘子』に見える固有名詞を実在のものとしてとらえたり、その考証を行ったりすることにも批判的である。

では成玄英の場合、如何なる注釈を施したのか。郭象注に基づいて『荘子』を再解釈した成玄英は、基本的には、郭象が作った枠組みの中で『荘子』を説く。すなわち「道を体した聖人」が世に出現して、是非をふくめたあらゆる判断を停止して、「自然」に順応することで世を教化し、「重玄至道の郷」「道徳の郷」などと呼ばれる本源に回帰することを理想とする。枠組み自体も、また個別の『荘子』本文の解釈も、成玄英はほとんど郭象を逸脱しないが、成玄英の独自性も乏しくはないので、以下にそれらを指摘する。

第一に、成玄英は道士であり、道教の観点から『荘子』を解釈している。老子を「老君」と呼んで尊崇して「大聖」と位置づけており、老子に関する記述を寓言と見る郭象を批判している。また、『荘子』が道教経典『西昇経』を引用したと主張するなど、道教の立場から『荘子』を解釈している。この点、道教と無縁の郭象とは大いに異なる。

第二に、当時の道教研究の進展を受けて、三論宗の仏教から大いに術語を取り入れ、それによって『荘子』を解釈している。すなわち、「四句百非」「境智」「空」などの仏教語を駆使して『荘子』を読み解いているのである。

第三に、上記の第一点、第二点とも関わるが、南北朝時代における『老子』研究の深化、および上記の三論宗の教理の受容にともなって生まれた「重玄」という概念を用いて『荘子』を解釈した。「重玄」は、成玄英が洗練して自身の思想の核心とした概念であり、『老子』第一章の「玄のまた玄」を根拠とするが、単に、神秘のさらにある神秘を指すのみならず、あらゆる対立を超えたその先にある道のあり方をも含意する。郭象も二項対立を超克すべきことは説いたが、否定の先をさらに際限なく否定してゆく理論は持たなかった。この点、確かに成玄英の独自性がある。

第四に、聖人による機を見た教化を重視する。「機に逗じて化を行う」などというのがそれである。郭象による聖人論は、聖人の無為がどのように万物にはたらくのか、不明瞭であったが、成玄英の場合には、聖人による教化が強調されている。

第五に、『荘子』に見える固有名詞や具体的な事象について、上述の通り、郭象は意図的に無視したが、成玄英は、司馬彪など他の『荘子』注釈者の成果などをもとに、詳しい考証を行っている。この点は、『経典釈文』と成玄英疏を対比することにより、明らかになる。

以上の通り、『荘子』の強力な解釈であった郭象注を基礎としてはいるものの、成玄英は道士として、唐代という新たな時代にふさわしい『荘子』解釈を作り上げたのである。

【参考文献】

  • 郭慶藩輯、王孝魚整理『荘子集釈』(中華書局、1961年)。
  • 曹礎基、黄蘭発点校『南華真経注疏』(中華書局、1998年)。
  • 砂山稔『隋唐道教思想史研究』(平河出版社、1990年)。
  • 関正郎『荘子の思想とその解釈―郭象・成玄英』(三省堂、1999年)。
  • 周雅清『成玄英思想研究』(新文豐出版、2003年)
  • 羅中枢『重玄之思―成玄英的重玄方法和認識論研究』(巴蜀書社、2010年)。
  • 崔珍皙『成玄英《庄子疏》研究』(巴蜀書社、2010年)。
  • Shiyi Yu, Reading the Chuang-tzu in the T’ang dynasty : the commentary of Chʻeng Hsüan-ying (fl. 631-652),  New York : Peter Lang, 2000.
  • Isabelle Robinet, “Nanhua zhenjing zhushu”, Schipper and Verellen ed., The Taoist Canon, The University of Chicago Press, 2004, 294-296.
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「道蔵輯要本『南華真経注疏』」への2件のフィードバック

  1. どうもご無沙汰しております。
    先日、五島美術館の「時代の美第2部鎌倉室町編」に行ってきたのですが、金沢文庫本「南華真経注疏」が出ていました。これは写本だったかな。静嘉堂のを写したんでしょうか。
    『徒然草』に「文は、文選のあはれなる巻々、白氏文集、老子のことば、南華の篇。」というのがあり、兼好もこれで読んだのかなと思って見てきました。

  2. 中川さま

    こちらこそ、ご無沙汰しております。コメントお寄せくださいまして、まことにありがとうございます。

    大東急記念文庫本の『南華真経注疏』の零葉二張、鎌倉写本とのことですね。私は実見しておりません、ご覧になったとのこと、羨ましいかぎりです。阿部隆一氏「金沢文庫旧蔵鎌倉鈔本「南華真経注疏」考」(「かがみ」13、1969年。のち『阿部隆一遺稿集』2、1985年、所収)によると、この写本の祖本は知られていないものの、同写本の「原本は道蔵本と祖を同じくする精善の本たることは明瞭である」とのことです。個人的には宋代の版本を祖とするものかとも思いますが、阿部氏は断定を避けておられます。

    静嘉堂文庫現蔵の宋版も、もとは金沢文庫にあったそうですから、金沢文庫には刊本、写本、少なくとも二部の『南華真経注疏』があったということなのでしょうね。成玄英の疏は、分かりにくくないので、当時よく読まれたのかもしれません。

    阿部氏は、鎌倉写本の僚巻(といってもわずか二行の切れですが)をも紹介していますから、もしかすると、今後、同じような切れが見出されるかもしれません。

    今回の解題でも、この鎌倉写本のことを書こうかとも思ったのですが、あまりに繁瑣になるかと考え、言及しませんでした。ちょうどご指摘いただいたので、よい機会と思い、阿部隆一氏の論文を紹介いたしました。

    重ねてお礼申し上げます。今後ともよろしくお願いします。

    学退上

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