道蔵輯要本『劉子』


道蔵輯要プロジェクト(道藏輯要研究計畫、Daozang Jiyao Project)は、『道藏輯要』所収の諸書の解題作成を目指す研究計画です。その求めに応じ、いくつかの書物の解題を書きましたので、一書ごとに分載いたします。解題集が出版された際には、あらためてご案内します。

劉子 危7(KX12: 5276-5282; BR5:259-262)

【書名】

劉昼という人物の著した子書であると考えられ(後述)、著者自身がみずからの姓を冠したものであろう。

【撰者】

北斉の劉昼(514-565)の撰と考えられるが、撰者については異説がある。

『隋書』経籍志には、「梁にはあったが、隋にはなかった」書物として、『劉子』十巻を載せるが、これについては詳細が分からない(後述)。『旧唐書』経籍志では、「『劉子』十巻。劉勰撰」とし、『新唐書』芸文志もこれを踏襲する。『劉子』は梁の劉勰(465?-?)の著作であるとする説が、すでに唐代にあったことは確実である。

一方、唐の人である袁孝政が本書に注を付け、その序文に、「劉昼は己の不遇を傷み、天下の凌遅に遭い、江表に播遷し、故に此の書を作る」と述べた。この序文の全文は現在、伝わっていないが、その引用が陳振孫(1183?-1262?)の『直斎書録解題』に見える。それによると、少なくとも袁孝政は同書を劉昼の著作と考えていた。すなわち唐代には、劉勰撰述説と劉昼撰述説とが存在していた。

それ以後も、長く両説が競い合っており、いまだ決定的な解決を見ていない。目録学者の王重民や『劉子集校』の作者である林其錟と陳鳳金は、劉勰撰述説を唱える。一方、目録学者の余嘉錫は劉昼撰述説を唱えている。『北斉書』儒林伝の劉昼伝にも、『梁書』文学伝の劉勰伝にも、『劉子』に関する記述は見えず、両説ともに決め手を欠く状況である。

近年、吉川忠夫氏が『広弘明集』に見える道宣(596-667)の劉昼批判を根拠として、あらためて『劉子』は劉昼の撰であると主張された。筆者も吉川氏の説に同意するが、しかし劉昼の撰と断定するには難点がひとつある。もし劉昼が書いたとすれば、「『劉子』十巻は、梁にはあったが、隋にはなかった」という『隋書』経籍志の記述が説明できないのである。

隋志の「梁にはあった」という記載は、梁の阮孝緒(479-536)が普通四年(523)にまとめた『七録』を参考にして、唐代初期に注記された、と考えられている(姚振宗『隋書経籍志考証』の説)。そうであるとすると、514年に生まれた劉昼の著書が523年に編まれた『七録』に収められた、ということになる。これは明らかに矛盾である。

この隋志の記述には誤りがあるのではないかと筆者は疑っている。隋志のその記事の前後に並ぶ書名を見ても、南北朝時代後期のものではなく、魏晋時代頃のものである。『劉子』十巻が隋の目録に載っており、編集の過程で誤りが生じて現在のような記載になっていると仮定すれば、劉昼撰述説が認められるものと考える。

『北斉書』儒林伝の劉昼伝によると、劉昼、字は孔昭、渤海阜城の人であった。貧しい家の生まれであったが、学問を好み学習を続けた。同郷の儒者、李宝鼎から三礼を、馬敬徳から春秋を授けられ、後に上京してさらに学んだ。河清年間(562-565)、秀才に挙げられたものの、及第せず、失意のまま過ごした。「六合賦」、『高才不遇伝』などの著作があった。大言壮語を好み、世に容れられることはなかったという。

【テクスト】

上記のように、撰者については唐代以来、長い論争があるものの、本書は早くからよく読まれたらしく、伝本が多く伝えられている。

まず、敦煌から出土した写本がいくつか存在する。フランス国家図書館に蔵する二本(P3562およびP3704)、羅振玉旧蔵で現在、東京国立博物館に蔵する一本がそれである。

次に、木版印刷された本としても、黃丕烈の跋文を有する宋版(上海図書館蔵)や、多数の明版など、複数の善本が存在する。

諸本について、注の有無から考えると、上海図書館本以下、唐の袁孝政の注を有するものと、それを有しないものに分けられ、重刊道蔵輯要本は後者に属する。

また巻頭における撰者の表記に注目すると、劉勰の撰と題するもの、劉昼の撰と題するもの、著者名を明記せずにただ袁孝政の注(註)と題するものなどがあるが、重刊道蔵輯要本は「劉昼著」と題している。

【構成】

重刊道蔵輯要本の本書の巻頭には、まず、撰者を明記しない「劉子序」が冠せられている。この序は、「按『劉子』五巻五十五篇、『北斉書』以為劉昼字孔昭撰」と始まるものであり、その内容は、明の万暦二十年(1592)に刻された、「吉府刻二十家子書」本『劉子』の序、すなわち吉藩潭州道人徳山子「劉子書序」と一致する。重刊道蔵輯要本の序は、吉府刻本からとられたものであろう。

まず、本書の篇目を通行本にしたがって列記する。清神第一、防慾第二、去情第三、韜光第四、崇学第五、専学第六、弁楽第七、履信第八、思順第九、慎独第十、貴農第十一、愛民第十二、従化第十三、法術第十四、賞罰第十五、審名第十六、鄙名第十七、知人第十八、薦賢第十九、因顕第二十、託附第二十一、心隠第二十二、通塞第二十三、遇不遇第二十四、命相第二十五、妄瑕第二十六、適才第二十七、文武第二十八、均任第二十九、慎言第三十、貴言第三十一、傷讒第三十二、慎隟第三十三、誡盈第三十四、明謙第三十五、大質第三十六、弁施第三十七、和性第三十八、殊好第三十九、兵術第四十、閲武第四十一、明權第四十二、貴速第四十三、観量第四十四、随時第四十五、風俗第四十六、利害第四十七、禍福第四十八、貪愛第四十九、類感第五十、正賞第五十一、激通第五十二、惜時第五十三、言苑第五十四、九流第五十五。以上のとおりである。

ところが、重刊道蔵輯要本では、全五十五篇のうち、「清神第一」から「慎独第十」までの十篇のみを載せており、「貴農第十一」以下の本文を欠いている。すなわち、重刊道蔵輯要本『劉子』は完本ではない。

【内容】

以下、篇ごとに本書の内容を紹介する。

  • 清神第一は、生命が形・心・神の三者からなるとし、まず神を修めることにより、養生すべきことを説く。自己の外から起こる欲望により、生を傷つけないようにすべしという。
  • 防慾第二は、人には性と情とがあるが、情は慾によって動く。慾が情を傷つけ、その情が性を傷つけるという構造があるので、慾に目がくらまないよう注意すべきと説く。
  • 去情第三は、是非の判断は情から生まれるとし、情を取り去ることが肝要であると説く。
  • 韜光第四は、自己の美点を誇れば必ず傷つき、それを隠せば生命を全うできるといい、自己の影をくらまし、知恵を隠して生きるべしと説く。
  • 崇学第五は、「人の学ばざれば、すなわち才智、心胸に腐る」といい、学ぶことの必要性を説き、それによって道を得ることができるという。
  • 専学第六は、かたちばかり学ぶのではなく、心を学ぶことに向けてこそ、感覚器官が働くと述べ、「学ぶ者は必ず精勤専心し、もって神に入るべし」という。
  • 弁楽第七は、音楽の長所と短所とを説く。適切に音楽を用いれば、道に至ることもできる一方、そうでなければ生を乱すことになる、という。
  • 履信第八は、信とは行いの基であり、行いは人の本である、と説く。それゆえ、信を重んずべきという。
  • 思順第九は、もって生まれた五性にしたがうならば行いが完成するという。「君子、もしよく忠孝仁義たり、信を履み順を思えば、天よりこれを祐け、吉にして利ならざるなし」と説く。
  • 慎独第十は、『礼記』中庸篇を踏まえ、「善なる者は行いの総、須臾も離るべからざるなり。離るべきは道にあらざるなり」といい、誰も見ていないところにいても、常に正しいことをすべし、と説く。

総じて、第一篇から第四篇までは道家的であり、第五篇から第十篇までは儒家的である。しかし、生を傷つけずによく生きることに主眼があり、論旨は一貫している。

『隋書』経籍志が、『劉子』十巻を子部雑家類に収めて以来、おおむね本書は雑家の書として分類されてきたが、本書は人の修養の重要性を繰り返し説いており、道教徒にもそれなりに重んじられてきたのかもしれない。

また、道蔵輯要本において、なぜ第一篇から第十篇までが抜粋されたのかというと、個人の修養を説くこの十篇が、ひとつのまとまりとしてとらえられ、特に重視されたためとも考えられる。

【参考文献】

  • 王叔岷撰『劉子集証』(中央研究院歴史語言研究所、1961年)。
  • 林其錟・陳鳳金集校『劉子集校』(上海古籍出版社、1985年)。
  • 楊明照校注『劉子校注』(巴蜀書社、1988年)。
  • 傅亞庶撰『劉子校釈』(中華書局、1998年)。
  • 吉川忠夫「読書箚記三題」(『中国思想史研究』23、2000年)
  • 亀田勝見「『劉子』小考」(『宮澤正順博士古稀記念 東洋比較文化論集』青史出版、2004年)。
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