陳寅恪(1890-1969)の人生は波瀾に満ちており、その経歴を追うだけでも一苦労です。そこで陳氏に関連する事項を集めて、年表にしてみました。下記のリンクから御覧ください。
分かりづらいところがありましたら、ご指摘ください。改善いたします。

陳寅恪(1890-1969)については、すでに2種のきわめて詳細な年譜が編まれています。
これらは陳寅恪の人物を知る上で欠かせないものですが、あまりに詳しいものであり、これらにより手早く陳氏の人生を概観するわけにはゆきません。そこで、『中國現代學術經典 陳寅恪卷』(2002年,河北教育出版社)所収「陳寅恪先生學術年表」を参考として、陳氏の経歴をまとめてみました(一部、他の資料を参考に変更を加えました)。年齢は数えとなっています。
中国では陳寅恪について、たくさんの伝記が書かれ、多くの証言がなされていますが、日本では陸鍵東『中国知識人の運命―陳寅恪最後の二十年』( 野原康宏、田口一郎、福田知可志、荒井健訳。平凡社、2001年)以外、ほとんど紹介がなされていません。こうして、一覧しておくのも、あながち無意味ではないでしょう。
家柄から言うと陳寅恪はたいへんな名門に生まれ、若くして日本・ドイツ・スイス・フランス・アメリカなどの海外にて学ぶ機会をも得、大いに恵まれていたというべきでしょう。そこで学んだことを教育に活かし、大いに清華で教育を施したわけです。
1925年から1937年まで、清華の「導師」をつとめ、多くの学生を育成したことは、華やかな事跡でした。ところが1937年7月7日、盧溝橋事件が起こり、清華大学も北京大学も北平(北京)から避難して「南遷」し、雲南省にて西南聯合大学が成立します。陳寅恪も清華大学とともに、北京から逃がれて南遷するのですが、ここから陳氏の不安定がはじまります。
修学期に多くの地で学んだことで、陳氏は大いに知的刺激を受けたはずですが、1937年以降の転変は不必要な不安定であったと思うのです。1945年に完全に失明してしまったのも、この間の苦労が影響したはずです。
しかも終戦後に清華大学が北京に戻り、それにともない、陳氏も一旦は北京に戻るのですが、共産革命直前の1948年の年末、再び「南遷」し、広州の嶺南大学の教授となって、その嶺南大学ものちに中山大学となり、そこで陳氏も過ごします。共産中国における陳氏の生活は、不幸そのもので、1966年からはじまった「文化大革命」はその不幸を決定的にし、陳氏は失意のうちに亡くなりました。
陳寅恪の名を聞くたびに、私の胸中にはそのような陳氏の栄光と不遇とが去来するのです。このように略年表をお示しすることで、陳寅恪を親しく感じていただければ幸いです。
Cask Strengthというブログをお書きになっている、consigliereさまには、日ごろ様々なことを教えていただいておりますが、今日は、ウェブ上で年表を作成できるサービス、Precedenというものを紹介していただきました。簡単に年表を作ることができて、たいへんに便利です。有料版もありますが、しばらく無料版を利用させてもらう予定です。
さっそく、中国近代、及び清末の学者たちの生没年を年表にしてみました。よろしければご利用ください。下記のリンクをクリックして、内容をご覧ください。
今後も、年表化できることを思いつけば、いくつか作成して皆さまにご利用いただきたいと思います。
陳寅恪(1890-1969)と傅斯年(1896-1950)の史学を論じた、アクセル・シュナイダー氏の論文、「道と史の間:中国の近代的アイデンティティを探究した二人の歴史家」を読みました。
Axel Schneider, “Between Dao and History: Two Chinese Historians in Search of a Modern Identity for China”,
History and Theory, Vol. 35, No. 4, Dec., 1996, pp. 54-73
我が国の幕末・明治時代がそうであったように、19世後半から20世紀前半にかけての中国も、近代化の問題に直面しました。それまでのように、自国を中心にものを考えればよいとわけではなくなってしまったのです。その波紋は、政治・制度・軍事はもちろん、教育・文化・生活にいたるまで、社会のすべての面に及びました。
このような激動期にあって、学問もまた変わらざるをえず、史学もその例外ではありませんでした。この時期に史学がどう変容したのか、シュナイダー氏は二人の代表的な歴史家、陳寅恪と傅斯年をとりあげて論じます。
中国では伝統的に、道(上古に行われた理想の道)と史とが相互に関わりあい、史は道に従うものと見なされた、とシュナイダー氏は考えます。史学とは一種の道の体現であり、道の観念なくして歴史叙述は成り立たないと、確かに多くの中国の士大夫は考えたのでしょうし、それは彼らに特徴的な思考であったと言えるかも知れません(この部分、ベンジャミン・シュウォルツ氏の議論を参照しているとのこと)。
陳氏と傅氏は、ともに歴史家として「新史学」の構築を目指したのですが、そこで両氏が道(伝統的な規範)に対して如何に向き合ったのか、というのがシュナイダー氏の問題意識であり、両者の対比がなされており、それを私なりにまとめ直してみます。
このように、陳氏と傅氏の歴史観・世界観は相当に異なるものの、シュナイダー氏は両者の共通点も指摘します。歴史を叙述する際、両者とも、歴史事実を組み合わせて筋書きを作る手法をとらず、史料を提示しそれに短いコメントを加えるスタイルを取ったことなど。これは見逃しがちな点です。おそらく清朝考証学の影響を受けたスタイルでしょう。
私自身は傅斯年の著作をまだよく読んでおらず、説の当否を言うことはできませんが、陳寅恪についての分析は適確であると感じました。「道と史」という二本の軸の設定は、この論文の論旨の中では十分に有効ですが、その構造が中国史の根幹をなすものとまでは断言できないようにも思われます。それについては、関連の議論を読んで一度じっくり考えてみたいものです。
陳寅恪を論じた欧米の研究は少ないので、このシュナイダー氏の論考には大いに目を見張りました。
田中慶太郎(1880-1951)『羽陵餘蟫』(文求堂書店、1938年)に、唐の李鼎祚『周易集解』の条があり、次にようにいいます。
支那では是書の影宋寫本は稀に傳はつてゐるが宋刊本は無い。ところが昨年神田教授が歐州旅行中、獨逸國で宋刊本を發見せられた。『書誌學』昭和十二年二月號に詳細なる同教授の論文が載せられてある。(p.10)
この宋刊『周易集解』、神田喜一郎(1897‐1984)が1936年、ドイツのベルリンにあった、プロイセン州立図書館(Preußische Staatsbibliothek)で見出したものです。
同館は現在、ベルリン州立図書館(Staatsbibliothek zu Berlin)と名を変えていますが、実はこの図書館に、その『周易集解』は存在していません。戦争に巻き込まれ、長らく行方知れずになっていたそうです。
それが近年、京都大学の高田時雄教授により再発見されました。2009年11月に中国国家図書館が開催した古文献学国際学術研討会にて、「宋刊本『周易集解』的再發現」として発表された内容です。
私はその間の事情を知らずにいたのですが、高田氏の発表を聞いた中国国家図書館の李致忠氏が「唐李鼎祚『周易集解』略考」(『文献』2010年第4期)という論文を書かれ、かえってそれによって状況を理解しました。
それによると、高田氏は2007年2月、その本の巻八・九(一冊)と巻十(一冊)、合わせて二冊を、ポーランドのクラクフにあるヤギェウォ大学のヤギェウォ図書館(Biblioteka Jagiellońska)において再発見なさったとのことです(神田氏が見た時には十巻とも揃っていたとのこと)。第二次世界大戦中の1941年以降、プロイセン州立図書館からは多くの図書が疎開させられたとのことで、この本も転変を経てクラクフに行き着いたものらしく、その経緯は高田氏が詳しく発表なさったはずです。
李氏によると、この本は南宋の嘉定五年(1212)に鮮于申が刻したもの。毛晋(1599‐1659)の旧蔵品で、後に清朝の皇帝の有に帰し円明園にあったものとのこと。ひと目、拝みたいものと思い、ミュンスター大学のミヒャエル・ヘッケルマン氏に頼んで、ヤギェウォ図書館に問い合わせてもらったところ、何とすでに電子化されて公開されてることが分かりました。
まったく驚くべき時代になったものです。ポーランドに蔵されている、毛晋の蔵書印が麗々しく捺された紛うことなき宋刊本を、じっくりとオンラインで鑑賞できるのです。
人間がものを書きます。それを集めて編輯すると、ひとつの「書物」になります。こうして世の中にはたくさんの書物が生まれ、そして読まれます。
電子化以前には、その書物は具体的な物体としての姿をとって存在しました。それを「本」と呼びます。手写された「写本」なり、活字印刷された「活版本」なり、何らかの形状をもって書物の内容を載せています。同じ書物について、本がいくつもあるのが普通で、その本ごとに、形ばかりでなく内容が違ったりします。一筋縄ではゆきません。
これが書物と本との区別です。
せっかく何か読むなら、なるべくよいものが読みたい。それが人情でしょう。そこで「よい書物とは何か?」となると、簡単に答えは出ません。「必読書」「おすすめの書物」を紹介するブックガイド、いわば「書物の書物」がたくさん出版されていますが、そこにも答えはなさそうです。読む人間が一様でない以上、よい書物とそうでない書物の区別も難しいことです。推理小説ファンとビジネス書の読者とが、よい書物を議論しても仕方ありません。
一方、「よい本とは?」という疑問には、一応私なりにも答えられそうです。「よい本」に求められるいくつかの条件を考えてみます。中国古典に関心があるので、それを念頭に置いていますが、どんな「本」についても同じことが言えるよう、努力します。
私が考える「よい本」とは、以上の条件を満たす本です。そういう本ならば、多少高価であっても買って手もとに置きたいと思うのです。「理想の本」といえましょうか。
古典をめぐる現実としては、歴史的なさまざまな経緯があるため、「理想の本」を得ることはまず不可能でしょう。『詩経』には六篇の欠落があるとされ、また『周礼』は「冬官」一篇を欠いており、いずれも完備した本は存在しません。誤りを含まない古典など、想像すらできません。
せいぜい、整理の行き届いた、目に優しい本を選ぶ程度で満足しています。
宮内庁書陵部に北宋版『通典』一部を収蔵しますが、島田翰(1879-1915)は同書を北宋版ではなく、「高麗にて北宋版を覆刻した版」と考えました。もともとこの考え方は、『経籍訪古志』に小島学古(名は尚質、号は宝素。学古はあざな。1797-1849)の説として見え、島田氏がこれをふくらませて「高麗覆北宋版」説を強化したものです。
この「高麗覆北宋版」説に関する再検証が、尾崎康氏「通典の諸版本について」(『斯道文庫論集』14号、1977年)に見えます。
そもそも小島学古の説というのは、お茶の水図書館現蔵『説文正字』、(おそらく宮内庁現蔵の)『御注孝経』、宮内庁現蔵『文中子』(『中説』)、国会図書館現蔵『姓解』、そして宮内庁現蔵『通典』の五書を挙げ、これらにいずれも「高麗國十四葉辛巳歲/藏書大宋建中靖國/元年大遼乾統元年」(双郭長方印、6.6 x 3.6 cm)という印がある事実を根拠として、「紙質、墨色など北宋版とやや異り、朝鮮国で開雕したものか」と推定したものです(尾崎氏論文、p.274)。
この印の存在は、上記の五書が高麗王の旧蔵品であり、韓半島を経由して我が国に入ったことを示すものです。しかし島田翰は、これだけでは「高麗版」の根拠としては、弱いと思ったのではないでしょうか。そこで島田氏は、自分の見た『荀子』と『列子』にも同じ印があると言って証拠の数を増やし、それらの書物がすべて「高麗覆北宋版」である、と主張したのです。
とりわけ面白いのは、自分の見た『列子』の版心には、高麗の府名を含む「南原府摹印」なる文字があったと、島田氏が書いたことです。以下、尾崎氏の論文を引用します。
『列子』も、『古文旧書考』に八巻二冊、川越新井君より収得した高麗覆北宋本として著録され、張湛注の八行二十一字本、宋諱を避けず、両印(引用者注:上記の高麗国十四葉印および「経筵」印)を捺し、巻一第一葉の版心に高麗府名の「南原府摹印」と、また刻工に徐開、趙政の名があるという。
島田翰の指摘のように趙政は『通典』の刻工にもおり、紙質、字様、刀法、体式ともに高麗の覆宋本の様式で、前掲の『孝経』、『姓解』、『通典』、『説文正字』、『中説』、それに次の『傷寒論』もみな高麗覆宋本であるとするが、この本(引用者注:高麗本『列子』)の存在を伝えるものは他にない。
「南原府摹印」の五字は、事実であれば「確是宋建中靖国以前、高麗依宋初刻本而所繙雕」ということにもなろうが、それにしても興味をひく虚言ではある。(p.276)
それ以外にも、島田翰は『播芳続集』にも「経筵」印があると主張しますが、その印自体、確認できません。尾崎氏はねばり強く考証を重ね、内閣文庫蔵本の同書に、印の切りとりらしい跡を見いだされ、島田氏が「切りとって経筵印のものとみせかけたのではないか」と推測されています(p.304)。島田翰の主張の根拠は、かなり複雑に構成されており、検証も容易でないことが知られます。
北宋版『通典』の本文価値が高いという事実の指摘をはじめとし、尾崎氏の論文には実に多様な知見が盛り込まれていますが、ここで詳しく紹介することはできません。その後、尾崎氏のご尽力により、宮内庁蔵の北宋版『通典』が影印され(汲古書院、1980年)、学界を大いに裨益した佳話だけは、ここに書き留めておきたいと思います。
明治大正期の漢学者、島田翰(あざなは彦楨、1879-1915)は、大才を抱きながらも虚言を弄する、一風変わった学者です。その著『古文旧書攷』(民友社、1905年)には卓見と虚言が混在しており、なかなかあつかいに悩ませられます。
宮内庁蔵の北宋版『通典』についても、同書を高麗における覆刻と見る、妙な説を唱えています。田中慶太郎(1880-1951)は島田翰の友人であったのですが、これについて、「好んで異を立てたもの」とその非を指摘しつつも、島田氏には同情すべき点があるとして、次のように言います。
當時は明治初中年間の好事者は已に凋落し、新しき版本學者の擡頭しなかつた過渡時代であつた。……。彥楨がその學問文章鑑識を以てして、斯界を空うする態度を取つたのも、寧ろ恕すべきであると思ふ。 (『羽陵餘蟫』文求堂書店、1938年、乙部、「通典二百卷」pp.167-168)
これが「恕すべき」理由なのかどうか、首をかしげたくなりますが、ともかく、島田氏に対する田中氏の同情を読み取ることはできます。さらに続けて『通典』に関する仁井田陞(1904-1966)の論文を紹介する中で、あらためて島田氏およびその師である竹添進一郎(1842-1917、号は井井)に説き及んでいます。
仁井田陞氏の「通典刻本私考」〔『東洋學報』二十二ノ四〕は的確有用なる考證である。最も快心事は仁井田氏が静嘉堂文庫所藏の竹添井井翁手校『通典』を紹介し、翁の治學方法の正當にして見識あることを表現せられたことである。井井翁が愛弟子たる島田彥楨を深く心にかけて居られた真情熱意には、其間に在つた筆者も今なほ新たなる如き感銘が在り、豪放不羈なる彥楨も井井師に對しては心から推服して居つた純情を思慕する者である。 (同上、pp.168-169)
竹添井井と島田翰との間にあった師弟愛について、どうしても語っておきたかったのでしょう。その場に居合わせた時代の証人として。いささか脇道に逸れたこの記述に、亡き友をしのぶ田中慶太郎の人柄を見る思いがします。
ただし島田氏に対する田中氏の評価は、決して甘いばかりではないようです。『論語義疏』について、島田氏は、邢昺疏を背面に注記した珍しい本を見た、と主張しますが、これについて田中氏は次のように言って、にべもありません。
『古文舊書攷』には新井某氏の許で見た義疏の古寫本には邢疏が背記されて居つた、後人が背記の邢疏を皇疏へ竄入したのであるとのことを記してゐる。さうあつても然るべきことではあるが、筆者はこの皇疏だけの古寫本を見たことが無いから何とも言へない。 (同上書、甲部、「論語義疏十卷」p.73)
我が国に伝わる梁の皇侃『論語義疏』にはどういうわけか、北宋の邢昺の疏が必ず併記されているのですが、島田氏の言うとおりであるとすると、古い形としては紙背に注記されていた邢昺の疏が、いつからか正面に転記されるようになった、ということになります。そうだとすると面白いのですが、何しろ、その本は島田氏以外に誰も見た者がないのです。「見たことが無いから何とも言へない」とした田中慶太郎のこの記述、持平の論というべきでしょう。
田中慶太郎(1880-1951)の『羽陵餘蟫』(文求堂書店、1938年)に、朱子『儀礼経伝通解』を説明して、次のようにいいます。
東方文化学院東京研究所所蔵に宋刊七行本の完本がある。
これと同版の零本第十七中庸一冊が近時市上に出で某富豪の手に歸した。昌平學校の舊藏で市橋獻本の一である。
市橋長昭獻本三十種は圖書寮尊藏の外、内閣文庫・帝國圖書館に分藏せられてゐるが、この中庸だけは、幕末昌平學校舊藏時代に、民間へ逸出したものであるかと思はれる。珠聯璧合の時節もあらう。 (『羽陵餘蟫』甲部、「儀禮經傳通解」pp.42-43)
文中に見える、市橋氏とは、近江仁正寺藩の藩主、市橋長昭(1773-1814)。昌平坂学問所(昌平黌・昌平学校とも。現在の湯島聖堂)に、三十種の宋版元版を献上したそうです。
そして「某富豪」というのは、安田財閥の祖、安田善次郎(1838-1921)。多く漢籍善本を集めた人物でした。先年、その安田氏の曾孫にあたる安田弘氏が、蔵書11種を東京大学東洋文化研究所に寄贈されましたが、その中に、まさにこの『儀礼経伝通解』巻第十七が見えたのです。なお、文中の東方文化学院東京研究所の蔵書は、現在、東京大学東洋文化研究所に引き継がれております。
安田弘氏の寄贈本について、橋本秀美氏が「安田弘先生捐贈正平本『論語』等十一種」と題して、ウェブ上に記事を書いておられます。そこから、市橋長昭献本の『儀礼経伝通解』巻第十七について引用しておきます。
南宋刊本。東洋文化研究所は全巻揃いの宋本を所蔵しているが、行格はそれと全く一致するものの、同版ではない。江戸時代に市橋氏が孔廟に献上した宋元本三十種の一つで、昌平坂学問所の印がある、由緒あるもの。他の二十九種は、内閣文庫等に現存している。
市橋氏献本のうち、唯一の流出分、『儀礼経伝通解』が、ようやく広く世に知られるようになったわけです。
『儀礼経伝通解』の完本を以前から有してきた東洋文化研究所が、さらに同書の市橋献本、巻17を蔵するにいたったのは、まったく歴史の偶然でしょう。
そして同じく版式を一にする『儀礼経伝通解』の南宋版でありながら、同版ではないことが分かりました。こうして田中氏の時よりも、認識が一歩、進んだのです。彼の言った「珠聯璧合の時節」とは、実は、このことを予言したものであったのかも知れません。
田中慶太郎(1880-1951)『羽陵餘蟫』に、郁達夫(1896-1945)の小説が紹介されていました。
郁達夫作の短篇小説『采石磯』は、安徽提督學政朱竹君の幕客として、黄仲則・洪稚存の兩人が竹君の知遇を得て居つた時に、當時考據の大家として盛名隆隆たる戴東原先生が京師から紀曉嵐等諸要人の推薦狀を携へて、長江南岸太平府の學政衙門に朱竹君を訪ね、竹君が大に戴氏を厚遇したのはよかつたが、戴氏が黄仲則の詩を「華而不實」と言つたとか言はぬとかで、黄仲則が大大的犯脾氣して、滿腹の牢騒は發して一篇の名詩となり、それが大江の南北に風誦されるといふ一寸風變りな小説である。
邦文譯もあるから考證考證で肩の凝つた時には讀んで見るのも一興であらう。
但し此小説は戴氏に取つては御迷惑千萬なことであつて、おそらく戴東原先生を胡適博士にたとへ、黄仲則を郁氏自身にたとへたものの樣にも思はれる。 (『羽陵餘蟫』甲部、「禮記正義六十三卷」p.48)
年末から一月いっぱい、苦しんで論文を書いており、先日やっと解放されました。考証、考証で、かなり肩が凝ってしまったので、この『采石磯』を読んでみました。田中氏のいうとおり、まことに「風變りな小説」であり、無理に登場させられた「戴氏に取つては御迷惑千萬なこと」に違いありません。
朱竹君は朱筠(1729-1781)、黄仲則は黄景仁(1749-1783)、洪稚存は洪亮吉(1746-1809)、戴東原は戴震(1724-1777)です。一読して、歴史事実に即したものとはとても思えませんし、戴震が登場するといっても、主人公の黄仲則は戴震に会いもせず、戴氏の言を又聞きして憤っている始末です。何か腑に落ちません。
田中慶太郎と郁達夫。田中氏の方が十数歳、年長ですが、同時代人と言えます。「おそらく戴東原先生を胡適博士にたとへ、黄仲則を郁氏自身にたとへたものの樣にも思はれる」というのも、我々には想像もつかぬことですが、それこそ、おそらく何らかの根拠があることなのでしょう。
なお、小説中で戴震に言わせた「華而不實」という成語は、見ばえはしても中身がない、という意で、『春秋左氏伝』文公五年に基づくもの。甯嬴という人物が陽処父を評して「華而不實,怨之所聚也」と言ったそうです。『国語』晋語五にも似た話が見えています。