古書は古画のごとし


日ごろ愛読している「續積讀日記」に、田中慶太郎(1880-1951)『羽陵餘蟫』(文求堂書店、1938年)についての読書記が載せられました。私も読んでみようかという気になり、いま読み進めているところです。

『羽陵餘蟫』は、書物としての中国古典に関心のある方におすすめできる著作であり、日本語で書かれた漢籍解題として、これほど生き生きとしたものも珍しいのではないでしょうか。ひとつ面白いと思ったのが、偽書について述べられた以下のくだりです。

『左傳』の成立については古來種々の見方があり、殊に清の劉逢祿の『左氏春秋考證』の著述以後、康有爲の『新學僞經考』を始め、或は天文の方面より、或は思想の方面より、或は文法語法の方面より、幾多内外人の研究が發表せられている。

筆者程度の常識だけで本を讀んでゐる者には、どれを讀んでも、讀んでゐる間はいづれも道理が有ると思はれるだけで、判定をする能力が無く見當がつかぬ。

假令ばここに閻立本の繪いた肖像畫が有るとする、古畫のことであるから當然補筆が澤山ある。袖の部分はたしかに元人の筆であると見える。裳から靴のあたりは宋人の筆らしい、しかし顔面はたしかに唐人の筆で、且つ閻立本に非ずともそれに近い年代の人の筆に相違無い。古畫にはこんなものはいくらもある。顔面だけを取あげて唐畫とするのも誤りであらうが、袖だけを取あげて元畫とするのも亦誤りであらう。(甲部、「春秋經傳集解三十卷」、pp.53-54)

『春秋左氏伝』という書物の成立については、さまざまな議論があるが、そんなに簡単に決められるのか、というのが、田中慶太郎の疑問です。

前漢時代以前には、そもそも一つの書物を一人の人物が書くという習慣がありませんでしたから、その成立の過程は入り組んでいます。この点、後世の著作とまったく事情が異なります。書物がいったん成立した後の伝承の経緯はさらにさまざまで、削られたり、書き足されたり、整理されたりということが、しばしば行われました。このような過程をもつ中国の「古書」はかならず慎重にあつかうべきものであり、我々が先般、翻訳した余嘉錫『古書通例』(平凡社、東洋文庫、2008年)には、この事情が詳しく多角的に説明されています。

田中氏が唐の画家、閻立本の絵をたとえ話に出して語るのも、まさしく「古書の複雑さ」です。これは実にうまいたとえだと思いました。古書の成書問題に限らず、単純化された議論にはそれなりの爽快さがあるものですが、本来複雑なものを単純明快にスパッと切ると、そのもの自体が持つよさは損なわれてしまいます。そのような単純化に、田中氏はさりげなく注意を促したわけでしょう。

この一点をもってしても、田中氏の見識の高さをうかがうことができるのです。田中氏のいう「常識」は、当時にあってもまた今日にあっても、得難いものであるように思われます。

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