理想の本


人間がものを書きます。それを集めて編輯すると、ひとつの「書物」になります。こうして世の中にはたくさんの書物が生まれ、そして読まれます。

電子化以前には、その書物は具体的な物体としての姿をとって存在しました。それを「本」と呼びます。手写された「写本」なり、活字印刷された「活版本」なり、何らかの形状をもって書物の内容を載せています。同じ書物について、本がいくつもあるのが普通で、その本ごとに、形ばかりでなく内容が違ったりします。一筋縄ではゆきません。

これが書物と本との区別です。

せっかく何か読むなら、なるべくよいものが読みたい。それが人情でしょう。そこで「よい書物とは何か?」となると、簡単に答えは出ません。「必読書」「おすすめの書物」を紹介するブックガイド、いわば「書物の書物」がたくさん出版されていますが、そこにも答えはなさそうです。読む人間が一様でない以上、よい書物とそうでない書物の区別も難しいことです。推理小説ファンとビジネス書の読者とが、よい書物を議論しても仕方ありません。

一方、「よい本とは?」という疑問には、一応私なりにも答えられそうです。「よい本」に求められるいくつかの条件を考えてみます。中国古典に関心があるので、それを念頭に置いていますが、どんな「本」についても同じことが言えるよう、努力します。

  • 1-1 作者がはっきりしている場合には、作者の考えを忠実に反映していること。
  • 1-2 作者はすでに不明だが、編輯した人物が分かる場合には、編輯した人の考えを忠実に反映していること。
  • 1-3 作者も編輯した人も不明な場合には、歴史上、高評や正統性を得た本であるか、それに近いこと。
  • 2 後世に生じた誤りや改変がないか、もしくは少ないこと。
  • 3 内容が完備していること。
  • 4 読者にとって有益な注釈や参考資料が附録されていること。
  • 5 美しく読みやすいこと。

私が考える「よい本」とは、以上の条件を満たす本です。そういう本ならば、多少高価であっても買って手もとに置きたいと思うのです。「理想の本」といえましょうか。

古典をめぐる現実としては、歴史的なさまざまな経緯があるため、「理想の本」を得ることはまず不可能でしょう。『詩経』には六篇の欠落があるとされ、また『周礼』は「冬官」一篇を欠いており、いずれも完備した本は存在しません。誤りを含まない古典など、想像すらできません。

せいぜい、整理の行き届いた、目に優しい本を選ぶ程度で満足しています。

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