陳寅恪略年譜


1951年夏
1951年夏

陳寅恪(1890-1969)については、すでに2種のきわめて詳細な年譜が編まれています。

  • 蔣天樞撰『陳寅恪先生編年事輯』 上海古籍出版社,1997年,増訂本
  • 卞僧慧纂,卞學洛整理『陳寅恪先生年譜長編(初稿)』 中華書局,2010年,清華大學國學研究院四大導師年譜長編系列

これらは陳寅恪の人物を知る上で欠かせないものですが、あまりに詳しいものであり、これらにより手早く陳氏の人生を概観するわけにはゆきません。そこで、『中國現代學術經典 陳寅恪卷』(2002年,河北教育出版社)所収「陳寅恪先生學術年表」を参考として、陳氏の経歴をまとめてみました(一部、他の資料を参考に変更を加えました)。年齢は数えとなっています。

中国では陳寅恪について、たくさんの伝記が書かれ、多くの証言がなされていますが、日本では陸鍵東中国知識人の運命―陳寅恪最後の二十年』( 野原康宏、田口一郎、福田知可志、荒井健訳。平凡社、2001年)以外、ほとんど紹介がなされていません。こうして、一覧しておくのも、あながち無意味ではないでしょう。

  • 1890年 1歳 旧暦5月17日、湖南省長沙市にて出生。父は陳三立、母は兪氏。
  • 1895年 6歳 二兄の隆恪とともに家塾で学ぶ。祖父の陳宝箴が湖南巡撫となる。
  • 1898年 9歳 戊戌政変が発生、祖父と父が失脚。南昌に移る。
  • 1902年 13歳 長兄の陳衡恪とともに日本に留学、1905年に帰国。
  • 1907年 18歳 上海復旦公学に入学。
  • 1909年 20歳 復旦公学を卒業、ドイツのベルリン大学に留学。
  • 1913年 24歳 フランスのパリ大学に留学。翌年、上海に戻る。
  • 1919年 30歳 アメリカのハーバード大学に留学、サンスクリット・ギリシャ語を学ぶ。
  • 1921年 32歳 ドイツのベルリン大学に留学、サンスクリット・パーリ・チベット語を学ぶ。
  • 1925年 36歳 清華に国学研究院が設置され、「導師」として招聘されたが、一年の休暇。
  • 1926年 37歳 国学研究院導師に着任。
  • 1927年 38歳 王国維が自殺。
  • 1928年 39歳 唐篔と結婚。清華園学校から清華大学へと改称。
  • 1929年 40歳 梁啓超が逝去。
  • 1930年 41歳 中央研究院が成立し、歴史語言研究所の理事、研究員となる。
  • 1937年 48歳 盧溝橋事件が発生。父が逝去。一家で南遷し、香港を経て昆明に至る。
  • 1938年 49歳 西南聯合大学で教える。
  • 1940年 51歳 英国の王立協会の会員に選出され、オックスフォード大学の教授に招聘されるが、戦争の影響で渡欧できず香港に居留。
  • 1941年 52歳 太平洋戦争が勃発、香港に留まる。
  • 1942年 53歳 桂林にわたり、広西大学で教える。
  • 1943年 54歳 成都にゆき、燕京大学で教える。
  • 1945年 56歳 両目とも失明。王立協会の要請に応じ渡英、目の治療を受けるも不成功。
  • 1947年 58歳 清華大学が再建し、教職に復帰。
  • 1948年 59歳 年末、北京を逃れ南京・上海へ。
  • 1949年 60歳 広州に移り、嶺南大学の教授となる。
  • 1953年 64歳 嶺南大学が再編され、中山大学となる。
  • 1954年 65歳 中国科学院歴史第二所の所長となるよう要請されるも、拒否。
  • 1958年 69歳 新聞などで公に批判を受けるようになる。大学での講義を停止。
  • 1962年 73歳 入浴時に転倒し、右足を折る。
  • 1966年 77歳 文革が始まる。
  • 1969年 80歳 10月7日(旧暦の8月26日)、逝去。

家柄から言うと陳寅恪はたいへんな名門に生まれ、若くして日本・ドイツ・スイス・フランス・アメリカなどの海外にて学ぶ機会をも得、大いに恵まれていたというべきでしょう。そこで学んだことを教育に活かし、大いに清華で教育を施したわけです。

1925年から1937年まで、清華の「導師」をつとめ、多くの学生を育成したことは、華やかな事跡でした。ところが1937年7月7日、盧溝橋事件が起こり、清華大学も北京大学も北平(北京)から避難して「南遷」し、雲南省にて西南聯合大学が成立します。陳寅恪も清華大学とともに、北京から逃がれて南遷するのですが、ここから陳氏の不安定がはじまります。

修学期に多くの地で学んだことで、陳氏は大いに知的刺激を受けたはずですが、1937年以降の転変は不必要な不安定であったと思うのです。1945年に完全に失明してしまったのも、この間の苦労が影響したはずです。

しかも終戦後に清華大学が北京に戻り、それにともない、陳氏も一旦は北京に戻るのですが、共産革命直前の1948年の年末、再び「南遷」し、広州の嶺南大学の教授となって、その嶺南大学ものちに中山大学となり、そこで陳氏も過ごします。共産中国における陳氏の生活は、不幸そのもので、1966年からはじまった「文化大革命」はその不幸を決定的にし、陳氏は失意のうちに亡くなりました。

陳寅恪の名を聞くたびに、私の胸中にはそのような陳氏の栄光と不遇とが去来するのです。このように略年表をお示しすることで、陳寅恪を親しく感じていただければ幸いです。

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