徐時儀校注『一切經音義三種校本合刊』


「ぶつける」という意味を表す「棖觸」という語彙につき、こだわって調べていたところ、白須裕之先生から、興味深い事実を指摘していただきました。この「棖觸」は、唐代以前には「掁觸」「摚觸」「樘觸」「撐觸」「撑觸」「㲂觸」「𢾊觸」などとも表記し、隋以前の漢訳仏典に広く見られ、唐代の玄應の『一切經音義』には、その指摘が多い、という事実です。これについては、いずれ網羅的に資料を挙げてみましょう。

この語彙を調べてあらためて思ったのですが、唐の玄應『一切經音義』と、同じく唐の慧琳『一切經音義』の二書は、中国中古のことばを知る上で絶好の資料というべきです。漢訳された仏典は、この時期の中国語を考えるための素晴らしい資料であり、そして、その仏典を語学的に解釈したこの二つの音義書が、資料的にたいへん貴重である、という意味です。

この二つの『一切經音義』、資料としてはよく知られ、利用されてきてもいたのですが、これぞという定本がなく、その出版が待たれていました。そこで登場したのが、この本です。

  • 徐時儀校注『一切經音義三種校本合刊』上海古籍出版社,2008年
  • 王華權、劉景雲編撰『一切經音義三種校本合刊索引』上海古籍出版社,2010年

この本は、前述の玄應・慧琳の『一切經音義』のほか、遼の希麟『續一切經音義』もあわせて校勘・標点を施したものであり、これまでの渇を癒してくれました。

その後、ほどなく同じ校訂者により、次の書物が出版されました。

  • 徐時儀校注『一切經音義三種校本合刊附索引(修訂版)』上海古籍出版社,2012年

この本の出版説明を見たところ、前者が品切れになり、また不備も見つかったので、そのために修訂版を出版したもののようです。内容をざっと比べてみたところ、大差は見出せませんでした(体例の不統一を修正したところはあるようですが)。もし古い版を安価に入手できるようであれば、私はそちらをおすすめします。

いずれにせよ、かなり信頼できる『一切經音義』の校本が世に問われたことは、喜ばしい限りです。

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君子は何を好むのか?


『礼記』緇衣篇に次の一段があります。

子曰:唯君子能好其,小人毒其。故君子之朋友有鄉,其惡有方。是故邇者不惑,而遠者不疑也。『詩』云:「君子好仇」。

このまま読むと、孔子が説いたという大意は、次のようになりましょうか。「君子だけが正しい人間を好むことができ、小人は正しい人間を害する。だから君子が友とする人々には傾向があり、嫌う対象にも類型がある。だから身近な人は君子の好悪の判断に戸惑うことはないし、遠くの人も疑いを抱かない。『詩経』にもこういう、「君子は自分にふさわしい相手を好む」と」。

君子は「正」を好む、というわけですが、これについて後漢の鄭玄は、「正の字は、きっと匹の字の誤りだろう。匹とは、知人友人のこと(正當為匹字之誤也。匹謂知識朋友)」と言います。つまり、君子は自分にふさわしい友を好む、というわけです。しかし鄭玄は用心深い人ですから、「匹」の方が正しいと考えたものの、自分の意見で経書の文字を変更してはおらず、誤字とみなした二つの「正」をそのまま保っています。

陸徳明『経典釈文』では、この部分、「正の字音は匹、下文も同じ。注がその根拠(正音匹,下同。出注)」と言っています。経文がすでに「正」で固定している以上、それを改めるわけにもゆかず、変則的に読みだけは「匹」と読んでしまう、という便法です。決して「正」の字に「匹」という発音があったというわけではありません。

また孔穎達『礼記正義』も、「君子能好其正者,匹,匹偶。言君子能愛好其朋友匹偶」と言って、鄭玄説に従っています。

後世の学者の中には、鄭玄説を信じずに、やはり「正」の字で読むべきではないか、と考えた人もいました。こじつけのように思ったのでしょうか。

ところが、ここ数十年あいつぐ「出土文献」ラッシュの中で、地下から二千数百年前の「緇衣篇」が出土したのです!しかも二種類も!一つは上海博物館に収められる竹書で、もう一つが湖北省の郭店という地から出土した竹書です。

郭店『緇衣』(部分)
郭店『緇衣』(部分)

それらの竹簡には一体、どう書いてあったのでしょうか?それを以下に示します(機械上の問題があるため、表記にはいい加減な部分があります。印刷された書物を確認して下さい)。

  • 子曰:惟君子能好其,少人豈能好其?古君子之友也有𣈅,其惡也有方。此以邇者不惑,而遠者不疑。『寺』員:「君子好仇」。(『上海博物館蔵戦国楚竹書(一)』上海古籍出版社,2001年,pp.196-197)
  • 子曰:惟君子能好其,少人豈能好其?古君子之友也有向,其惡有方。此以邇者不惑,而遠者不疑。『寺』員:「君子好逑」。(『郭店楚墓竹簡』文物出版社,1998年,p.131)

つまり、上博簡は「君子能好其匹」と作り、郭店簡は「君子能好其駜」と作ります。『郭店楚墓竹簡』の注釈によると、この「駜」は「匹」の通仮字。まさに鄭玄の言うとおり、「正」ではなかった、ということになります。

鄭玄の学問の精確さが知られる一例です。

『経典釈文』では、『易』姤卦の王弼注「正乃功成也」について、「正は、匹に作る本もある(正亦作匹)」と言います。隷書以後の文字では、「正」と「匹」とが容易に混同されていたことが知られます(兪樾『礼記鄭読考』に説が見えます)。

『礼記』緇衣篇の「唯君子能好其正」についていうと、鄭玄以前の段階で「正」と誤って伝えられていたものを、鄭玄が指摘したのでしょう。

最近、晁福林氏「《禮記・緇衣》文本的一樁歷史公案」(《山西大學學報(哲學社會科學版)》36-1, 2013年1月)という論文を読みました。教えられることも多い論文でしたが、「匹」が「正」に変わった理由は、単に形が近いために生じた誤字でなく、戦国時代における思想史の展開によるものだという晁氏の結論には、残念ながら同意できませんでした。

ただ、どのような経緯で「正」の字が「匹」に取って代わったのか、それは確かに気になるところではあります。その時期については、虞万里氏『上博館蔵楚竹書《緇衣》綜合研究』(武漢大学出版社,2010年,p.161)は「正、匹相混似應定在文、景或武帝以後」と言い、前漢の文帝期以後と推測されています。

魏晋南北朝時代の石刻に見える漢字


数年前から、井波陵一教授をリーダーとして、京都大学人文科学研究所に蔵する拓本を読んでいます。私もその末席に連なっており、魏晋南北朝時代の石刻の拓本に親しむ機会を得てきました。

それら石刻に刻まれた漢字は、基本的に現在我々が読み書きするそれと大きく違いはしませんが、後世のように強い規範意識がはたらいていたわけでもないらしく、同じ文字についても、実にさまざまに書かれています。今では、筆画の微小な違いを味わうのも、楽しみのひとつとなっています。

南北朝時代の石刻に見える異体字を調べる工具書としては『碑別字新編』(秦公輯、文物出版社、1985年)があり、私も重宝しています。またネット上には、「拓本文字データベース」という便利な道具もあります。ボックスに文字を入れるだけで、さまざまな異体字が調べられます。

しかし同じ字であるのに、形がばらばらで、決まった「正しい」書き方がないというのは、後世の基準で律すれば、かなり無秩序で、いい加減なことにも見えます。「魏晋南北朝の石刻に見える字はいい加減だ」という見方が、研究者にもあります。

毛遠明氏「魏晉南北朝漢字的特徵及規律」(《山西大學學報(哲學社會科學版)》35-6, 2012年11月)は、そのような見方に対するひとつの反論です。この時代の石刻資料に見える漢字には、理性的に書かれた字と、非理性的に書かれた字があるが、理性的な字、まともな根拠のある字の方が多い、というのが、毛氏の考え方です。

魏晋南北朝時代は、漢代の隷書から規範的な唐代の楷書に向けて漢字が変化・定着してゆく過渡期に当たり、その展開が複雑であるのですが、複雑ではあるが、必ずしも無秩序とはいえない、というわけです。

石刻に見える「表」字の例
石刻に見える「表」字の例

たとえば、楷書で書かれている石刻の中に、たまに篆書の要素が現れていたりすることにも指摘がありました。決してでたらめに書かれたものではありません、先祖返りのようなものでしょうか。「表」の篆文は「衣」の間に「毛」を書く形ですが、まさにそのような形が石刻に見えます。この形の「表」は、先日の研究班で見かけたばかりでしたので、面白く感じられました。

上部を「山」に作る「歳」
上部を「山」に作る「歳」

また「止」の要素を「山」と書く例、反対に「山」の要素を「止」と書く例、「口」の要素を「ム」と書く例、「ム」の要素を「口」と書く例なども挙げられています。これらは、帰納的にもっとたくさん用例を引き出せると思います。時間があれば、『碑別字新編』を用いて挙例してみたいものです。

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『説文解字注』影印本、謎の改悪


段注経均楼本03b-28a
早稲田大学蔵、段注経均楼本

段玉裁(1735-1815)の『説文解字注』、嘉慶二十年(1815)の原刻本を手元に置くわけにもゆきませんので、皆さん、普段は影印本をお使いのことと思います。私も台湾芸文印書館版・上海古籍出版社版など、いくつかの影印本を愛用しています。

ここに困ったことがあります。影印本ごとに、内容が違う場合があるのです。影印本は、底本の写真によっているので、原則的に内容は違わないはずですが、修正を加えられた時にはそのかぎりではありません。

今日、仲間と段注の読書会をしたところ、第三篇下「殺」字(その第四の「古文」)の段注の内容に問題があることに気がつきました。ここに写真をお示ししたのは、早稲田大学が公開している原刻本の写真ですが、その第三篇下、二十八葉表の第八行目に「當云從殳從杀」とあります。ところが、影印本によっては、なぜかこの「云」が「去」になっているものがあるのです。

同じ『説文解字注』の影印本を見て議論しているつもりでも、話がかみ合わないので、そのことが発覚しました。

瑣細な事ではありますが、これはちょっとしたミステリーといえましょうか。一概に、台湾版はもとのままで、上海版が改悪してあるというわけでもありません。皆さんもぜひ、ご愛用の『説文解字注』にあたって確かめてみてください。

校勘の難しさ


昨日、皇侃が「棖」を「ぶつける・ぶつかる」意と考えた、と書きました。該当の本文につき、もう少し詳しく見ておきたいと思います。まず武内義雄博士が大正時代に校刊された本によって〔甲〕としてお示し、次にその底本である龍谷大学蔵、文明年間写本を〔乙〕としてお示しします。さらに、武内氏の校勘記も併記しておきます。

〔甲〕門左右兩橽邊,各竪一木,名之為棖。棖以車過,恐觸門也。
〔乙〕門左右兩橽邊,各竪一木,名之為棖。棖以車過,恐觸門也。
〔校勘記〕文明本「觸」上有「棖」字,恐衍。今依他本削正。

「校勘記」が指摘するとおり、龍谷本は「恐棖觸門也」と作っているのですが、武内氏はこの「棖」を衍字と見なし削除しています。

この「恐棖觸門也」の部分、龍谷本では「棖」の右傍に「亻无」と注記を付けています。「亻」は「他本」の略記、龍谷本が参照したもう一つの写本には存在しなかった、ということで、武内氏はこの「他本」に依拠して一字を削った、というわけです。

なお、京都大学蔵の清家文庫本には「棖」字があり、天理大学天理図書館蔵の清熙園本にはありません。

意味的に考えると、「棖」字があってしかるべきで、そうでなければ、皇侃の意図がはっきりとしません。その点、武内氏の校勘は当たっておらず、校勘の難しさをあらためて感じさせられます。

さて、この「棖觸」なる語、『漢語大詞典』にも載せられており、第一義が「觸犯,觸動」、第二義が「感觸」となっています。第一義には資料が3條、『新唐書』、李純甫「虞舜卿送橙酒」詩、そして茅盾『子夜』が挙げられています。『新唐書』の例のみ挙げておきましょう。

廬墓左,鹿犯所植松柏,无量號訴曰: 「山林不乏,忍犯吾塋樹邪?」自是羣鹿馴擾,不復棖觸,无量為終身不御其肉。(『新唐書』卷二百,儒學傳下,褚无量傳)

『新唐書』のいう「棖觸」は、物を傷つける、犯す、という感じでしょうか。いずれにせよ、皇侃のことばから遠いわけではありません。つまり、この語の初例は皇侃の時代にまでさかのぼることができそうです。

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門柱にぶつかる


龍谷大学蔵『論語義疏』
龍谷大学蔵『論語義疏』

この四月以来、京都大学の授業で皇侃『論語義疏』を読んでおり、なかなか面白い発見があります。今日読んだ部分の『論語』郷党篇の義疏には、次の一文がありました。

門左右兩橽邊,各竪一木,名之為棖。棖以御車過,恐棖觸門也。(「立不中門」義疏。龍谷大学蔵、文明年間写本によります

門の左右の蝶つがいのわきにそれぞれ一本ずつ柱を立て、それを「棖」と呼ぶ。「棖」は車が通過するのを制御し、門に接触しないように設けたもの。

常識的にいえば「棖」というのは門の両側の柱です。どの辞書にも、そのように書いてあります。それを皇侃が車がぶつからないように云々と解説しているのが、不可解でした。どう考えても理解できません。

困ったので、訓詁の書である郝懿行(1757-1825)『爾雅義疏』を見てみました。すると次のことが分かりました。中国が南北に分断されていた南北朝時代のこと、南の人たち(「南人」)は、物に物をぶつける意味で「棖」といっていたそうなのです。

そのせいで、どうやら「南人」である皇侃は、経書の中で門柱を意味する「棖」ということばについても、物に物をぶつけることを連想したようです。英語でbumpと言えば、物をぶつけることですが、皇侃は「棖」と聞いて、bumperのような物を思い浮かべたのでしょう。そして、門柱にぶつかるものといえば、車が頭に浮かんできたのでしょう(古代では門を車が通ることがありました)。

『論語』皇侃疏云:「門左右兩橽邊,各豎一木,名之為棖。棖以禦車過恐觸門也」。然則棖訓為觸。『文選』「祭古冢文」注:「南人以物觸物為棖」,是其義也。(『爾雅義疏』巻中之

ここに引用された『文選』とその李善注とを当たっておきます。

『文選』巻六十,謝惠連「祭古冢文」:「刻木為人,長三尺,可有二十餘頭,初開見,悉是人形,以物撥之,應手灰滅」。注:「南人以物觸物為也」。

この「祭古冢文」なる作品は、謝惠連(407-433)という詩人が、ある古墓を通り過ぎたときのことを描写したもので、そこで彼は二十数体の木彫りの古い人形を見たのですが、それを物でコツンとたたいてみたところ、その途端にくずれてしまった、という話です。その一文に対する李善注に、「南の人は、物を物にあてることを棖という」とします。この場合の「棖」、一種の方言というわけです。

「棖以御車過,恐棖觸門也」という「棖」の解釈は奇説というべきで、『論語義疏』以外の文献には見えぬようです。皇侃に、言葉遊びのような説が多いことは、すでに喬秀岩氏『義疏学衰亡史論』(2001年、白峰社)、193頁にも指摘がありますが、この「棖」の例も面白いと思います。「棖」と聞いて、皇侃はその門柱に車がぶつかる様子を連想しただけでしょう。本当に車がぶつからないように柱が設置されていたというわけではありませんし、礼学上の根拠があるわけでもなさそうです。

こうして、皇侃が言いたいことが分かり、心の底からすっきりとしました。これも郝懿行のおかげ、そして李善のおかげです。