校勘の難しさ


昨日、皇侃が「棖」を「ぶつける・ぶつかる」意と考えた、と書きました。該当の本文につき、もう少し詳しく見ておきたいと思います。まず武内義雄博士が大正時代に校刊された本によって〔甲〕としてお示し、次にその底本である龍谷大学蔵、文明年間写本を〔乙〕としてお示しします。さらに、武内氏の校勘記も併記しておきます。

〔甲〕門左右兩橽邊,各竪一木,名之為棖。棖以車過,恐觸門也。
〔乙〕門左右兩橽邊,各竪一木,名之為棖。棖以車過,恐觸門也。
〔校勘記〕文明本「觸」上有「棖」字,恐衍。今依他本削正。

「校勘記」が指摘するとおり、龍谷本は「恐棖觸門也」と作っているのですが、武内氏はこの「棖」を衍字と見なし削除しています。

この「恐棖觸門也」の部分、龍谷本では「棖」の右傍に「亻无」と注記を付けています。「亻」は「他本」の略記、龍谷本が参照したもう一つの写本には存在しなかった、ということで、武内氏はこの「他本」に依拠して一字を削った、というわけです。

なお、京都大学蔵の清家文庫本には「棖」字があり、天理大学天理図書館蔵の清熙園本にはありません。

意味的に考えると、「棖」字があってしかるべきで、そうでなければ、皇侃の意図がはっきりとしません。その点、武内氏の校勘は当たっておらず、校勘の難しさをあらためて感じさせられます。

さて、この「棖觸」なる語、『漢語大詞典』にも載せられており、第一義が「觸犯,觸動」、第二義が「感觸」となっています。第一義には資料が3條、『新唐書』、李純甫「虞舜卿送橙酒」詩、そして茅盾『子夜』が挙げられています。『新唐書』の例のみ挙げておきましょう。

廬墓左,鹿犯所植松柏,无量號訴曰: 「山林不乏,忍犯吾塋樹邪?」自是羣鹿馴擾,不復棖觸,无量為終身不御其肉。(『新唐書』卷二百,儒學傳下,褚无量傳)

『新唐書』のいう「棖觸」は、物を傷つける、犯す、という感じでしょうか。いずれにせよ、皇侃のことばから遠いわけではありません。つまり、この語の初例は皇侃の時代にまでさかのぼることができそうです。

【補記】

中央研究院の「漢籍電子文献資料庫」で『新唐書』を検索してみたところ、「棖觸」を「桭觸」と誤っていました。さっそく報告して、修正してもらいます。それにしても、校勘は難しいものです。

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「校勘の難しさ」への12件のフィードバック

  1. 古勝 隆一先生
                            2013年6月4日
    ◎「亻」は「他本」の略記
    『学研国語大辞典』「イ」には(他の国語辞典もほぼ同じ)、
    《記号》〔「異本」の略号から〕「異本によると」の意を表す記号。《参考》異本の字句を示すときの傍注として用いる。
    としています。「他本」の「にんべん」ですか?
    ◎「武内氏の校勘は当たっておらず」。
    ここまでは言えないのではないでしょうか。「恐觸門也」でも意味は通ると思います。知不足斎本は「恐觸門也」とし、郝氏もこの本を使っています。
    藤田吉秋

  2. 藤田様

    どうもご指摘ありがとうございます。

    『日本古典籍書誌学辞典』(岩波書店)の「他本」の項目は、片桐洋一氏がお書きになったものですが、そこに「なお、「イ…」「イ云」と書いて他の本の異文を行間に校合注記する場合の「イ…」も、「異本…」を片仮名表記したのではなく、「他本…」の「他」の偏を採り用いた記号であるとも考えられる」とあります。私には、異本の片仮名表記とする説は信じられません。「宋本」をウ冠で表記するのと同じと思っております。

    「恐棖觸門也」か「恐觸門也」か、の問題ですが、確かに両者とも意味上の違いは大きくありません(後者の方が意味が弱まり、不明瞭になりますが)。しかし、脱字が生じて前者が後者に変化することはありえても、「妄増」により後者が前者に変わる可能性はかなり低いと思います。この場合、「誤脱」を疑うべきと考えます。

    郝懿行がもし「恐棖觸門也」という本文の存在を知っていれば、根本本を祖とする知不足齋本の本文は取らなかったと考えますが、いかがでしょうか。

    学退復

  3. 古勝 隆一先生
                            2013年6月5日
    拝復。
    ◎「亻」は「他本」の略記
    Twitterも拝見しました。武内先生は「亻」を正しく「他本」と解釈されたのですね。「異本の略号」説は捨てます。
    ◎「棖觸。この語の初例は皇侃の時代にまでさかのぼる」。
    皇侃は名詞としての「棖」を説明しています。「觸」一字で足るものを、「棖觸」と連文にするでしょうか。後人の「妄増」の可能性は低くないのでは?以下に新旧の唐書を並べてみました。

    *『新唐書』巻200
    廬墓左。鹿犯所植松柏、无量號訴曰、「山林不乏、忍犯吾塋樹邪」。
    自是羣鹿馴擾、不復棖觸、无量爲終身、不御其肉。
    *『旧唐書』巻102
    廬於墓側。其所植松柏、時有鹿犯之。无量泣而言曰、「山中衆草不少、何忍犯吾先塋樹哉」。
    因通夕守護。俄有群鹿馴狎、不復侵害、无量因此終身、不食鹿肉。

    「侵害」(旧)を「棖觸」(新)に替えています。「棖觸」は、欧陽修の造語か、とも思われます。衍字説は捨て難いと思います。
    藤田吉秋

  4. 藤田様

    お答えするのが遅れまして、申しわけございません。『論語義疏』の写本間の異同は、おそらく日本における伝写の過程で生じた部分が大半であろうと思います。すると、「妄増」の可能性は、ほとんど度外視できると考えます。

    また、義疏の特徴のひとつとして、「上古漢語において一字で用いられた語を、中古の二字の語で解釈する」ことがあると考えております。これについては、挙例出来ますが、それはあらためまして。

    『新唐書』については、ご指摘のとおり、欧陽修の関与が大きいと考えたほうがよいかもしれません。

    学退復

  5. 古勝 隆一先生
                            2013年6月9日
    ◎「上古漢語において一字で用いられた語を、中古の二字の語で解釈する」。
    いずれ、「挙例」により蒙をお啓き下さい。
    窺基(632~682)訳『観弥勒上生兜率天経』に、
    *「自然有風、吹動此樹。樹相掁觸、演説苦空・無常・無我諸波羅蜜」。
    という例がありました(項楚著『寒山詩注』P.362。「掁撥無簪笏」注引)。これが遡り得る「掁(棖)觸」の古い例に思えます。『義疏』の「棖」衍字説を捨て切れません。
    「抵觸」の語は、『論語』陽貨篇第17「好剛不好學、其蔽也狂」の孔安国注「狂、妄抵觸人也」と義疏「狂、謂抵觸於人、無廻避者也」とにありました。この「抵觸」は「ぶつかる」の意だと思います。
    藤田吉秋

    1. 藤田さま

      「棖觸」につきましては、白須裕之先生から、以下の事実を指摘していただきました。すなわち、「棖觸」は「掁觸」「摚觸」「樘觸」「撐觸」「撑觸」「㲂觸」「𢾊觸」とも表記し、隋以前の漢訳仏典に広く見られます。隋の玄應の『一切經音義』には、その指摘が多く、たとえば「𢾊觸」(『僧祇律』)に「又作敞、棖、樘、橙四形,同。丈衡反。敞亦觸也。」とあるのなどを、白須先生はお挙げくださいました。

      隷書以降、木偏と手偏とを同じように書きますので、その頃に「掁」(『廣韻』平聲庚韻:「掁,掁觸」)が「棖」と表記されるようになったと考えられます。皇侃ら南朝人は木偏に長の字を用いたものでしょう。

      ご指摘いただきまして、読者に納得していただくためには、さまざまな角度から問題を論じる必要があることに気がつきました。この問題に関しては、論文を書くかも知れません。書きあがりましたら、献上いたします。

      学退復

  6. 学退さま、今晩は!

     先日来関心を持って記事を拝見しておりました。
     それで、ふと思い立って「棖觸」の語句を北京大学の「古漢語語料庫」と「SAT大正新脩大藏經テキストデータベース」で検索してみましたところ、複数か所ヒットしました。
     以下は、そのうちの1つの後秦・鳩摩羅什譯『大莊嚴論經』の該当語を含む一部分です。残念ながら写本での確認はできておりません。

     何度か読み返してみましたが、私の語学力では「棖觸」どう訳したらよいのかわかりません。
    申し訳ありませんがその意味する所をどうぞお教えください。

    時彼和上於修多羅義中善能分別最爲第
    一。辭辯樂説亦爲第一。而告之言。汝今不
    應作如斯事。所以者何。此身不堅會歸盡
    滅。是故汝今不應爲身違遠佛法。應當觀
    察無常不淨。即説偈言

    此身不清淨 九孔恒流汚
    臭穢甚可惡 乃是衆苦器
    是身極鄙陋 癰瘡之所聚
    若少棖觸時 生於大苦惱
    汝意迷著此 殊非智慧理
    應捨下劣志 如來所説偈

  7. さきさま、

    お調べくださいまして、どうもありがとうございます。確認しましたところ、大正藏では、ご指摘の通り、『大莊嚴論經』巻12、「若少棖觸時」(T04-0324c)となっておりますが、その底本であります高麗版の影印本を見ますと「若少掁觸時」となっていますCBETAでは、「掁」に直してあります。SATとCBETAの方針の違いです)。

    以下、拙訳をお示しします。

     この身は清浄なものではなく、九つの孔からいつも汚物を垂れ流す。
     その悪臭と汚さは実にいとわしいもので、身体とはあらゆる苦を容れる器だ。
     この身はたいへんいやしいもので、でき物の集まる先だ。
     もし少しでも突いたならば、大きな苦悩が生じる始末。

    この経については、梵本がないようですが、「掁(棖)觸」にあたる梵語が知りたいものです。ご教示、ありがとうございました。

    学退復

    1. 学退さま

      さっそくご指教戴き有難うございました。
      恥ずかしながら、「もしわかくして・・・」と読んでしまい、もし若いうちから腫れものなどができたらと想像し、「棖觸」の適切な訳が考えられなくなっていました。

      有難うございました。

      1. さきさま

        いえいえ、また何かありましたら、いつでもコメントをお寄せください。

        学退

  8. 古勝 隆一先生
                            2013年6月10日
    ◎「隋の玄應の『一切經音義』」。
    「大蔵経テキストデータベース」を確認しました。「棖觸」・「掁觸」・「摚觸」・「樘觸」の音義は、「慧琳の『一切経音義』」に詳しく載せられています。
    ところで、「玄應」は、唐人では?
    藤田吉秋

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