疏議か疏義か?


滂熹齋本『唐律疏議』
滂熹齋本『唐律疏議』

銭大群「『唐律疏議』結構及書名辨析」(『歴史研究』2000年4期)を読みました。

注釈書としての『唐律疏議』の性質を述べ、さらに書名に含まれる「疏議」という文字の当否を考証した論文です。

この『唐律疏議』と呼び習わされる書物は、『旧唐書』刑法志に「於是太尉趙國公無忌……等,參撰『律疏』,成三十卷,(永徽)四年十月奏之」とあり、また同書の経籍志に「『律疏』三十卷,長孫无忌撰」と見えるように、唐代においては『律疏』と呼ばれていました。

また、敦煌から見出された同書の残巻にも、「律疏」の題を有する本(『敦煌石室砕金』に収める徳化李氏旧蔵本)があります。この残巻は現在、杏雨書屋に蔵され、「羽020R」の番号を振られています。『敦煌秘芨』影片冊一(杏雨書屋、2009)pp.172-177を参照。

ところが宋代以降、書名が変化したようで、現在、『唐律疏議』『唐律疏義』『故唐律疏議』などの名称で知られています。中でも、『唐律疏議』の名が最も一般的と言えましょう。

銭氏が紹介するとおり、「疏議」という二文字については、すでに王重民(1903-1975)による1942年の考証があり、『敦煌古籍叙録』(中華書局、1979年、145頁)に収められています。

それによると、『唐律疏議』の多くの本は律・注・疏をあわせたものだが、「疏議曰」と標示して疏の文を示している。ところが、善本である滂熹齋本(「四部叢刊三編」に収める。宋版とも言われるが、実は元版とのこと)では、「疏議曰」の「疏」字だけを陰刻で刻み、反転させている。そこから、「疏」というのは標記にすぎず、「疏議」という熟語ではないことが分かる。また敦煌本の『律疏』は、「疏」を標示せず、直接に「議曰」と書いている。元版で、「疏議」の二字を陰刻で刻むものがあるのは誤り、とのこと。

この王氏の議論は正しいと思います。つまり、「疏議曰」の「疏議」を、二字つなげて読むのはいけません。

銭氏は王氏の議論を踏まえてさらに議論を進め、元代の柳贇が同書を『唐律疏義』と呼んだのは許容範囲内だが、後人が本文中に見えた「疏議」を書名に持ち込み、『唐律疏議』と命名したのは誤りだ、と言っています(「後代所以有《唐律疏議》名,原因只是一個:把“疏”與其下的“議曰”簡單地合成為“疏議曰”,又從而把它理解為“疏議”之書“曰”,於是就把這部書名之為“疏議”」,117頁)。

ただ、「書名として、疏義が正しく疏議は誤り」というポイントに、過度にこだわる必要はないように思います。

本文に見える「疏議曰」の「疏」が、単なる標記に過ぎないことを知っておりさえすれば、『唐律疏議』という通名を使っても特に問題ないように考えます。

また四庫全書本は、書名を『唐律疏義』とし、他の本が「疏議曰」「議曰」としている部分を、すべて「疏義曰」としています。銭氏は四庫全書本をよい本だとおっしゃっていますが、「義曰」は不適当な用字であると感ぜられます。

しかしながら、「『唐律疏議』の疏は、「議」と「問答」、二つの部分から成り立っており、両者の関係は平行並立」とする指摘などは、深く肯かれるところです。

注釈書として『唐律疏議』を見る場合、参照すべき論文であると考え、ご紹介しました。

『唐律疏議』名例律の篇題疏


『唐律疏議』(元来の書名は『律疏』)は、唐代の永徽律につけられた注釈で、三十巻、長孫無忌(?-659)らの撰、永徽四年(653)の成書。この注釈の一番はじめの部分は少し変わっています。

唐律は、名例第一、衛禁第二、職制第三、戸婚第四、厩庫第五、擅興第六、賊盗第七、闘訟第八、詐偽第九、雑律第十、捕亡第十一、断獄第十二、以上、十二の律から成り立っていますが、その第一、「名例」の篇題につけられた疏のことです。

劉俊文校『唐律疏議』(中華書局、1983年)によって、その全文をお示しします。

  • 夫三,萬;稟,人。莫不憑黎元而樹司宰,因政教而施刑法。其有情,識,大則亂其區宇,小則睽其品式,不,則未。故曰「以刑止刑,以殺止殺。」刑不可,笞不得。時,用。於是結,盈;輕,大。『易』曰「天垂象,聖人則之。」觀雷而制威,睹秋而有肅,懲,而防;平,而存,蓋聖王不獲已而用之。古者大刑,其次;中刑用刀鋸,其次用鑽笮;薄刑用鞭扑。其所由來,亦已尚矣。昔白、白,則伏、軒;西、西,則炎、共。鷞於少,金於顓。咸,典。大,撃。逮,化,議,畫媿,所有條貫,良多簡略,年代浸遠,不可得而詳焉。堯舜時,理官則謂,而皋,其,而往,則『風俗通』所云「皋陶謨,虞造律」是也。
  • 者,訓銓,訓法也。『易』曰「理財正辭,禁人為非曰義。」故銓量輕重,依義制律。『尚書大傳』曰「丕天之大律。」注云「奉天之大法。」法亦律也,故謂之為律。昔者,聖人制作謂之為經,傳師所説則謂之為傳,此則丘明、子夏於『春秋』、『禮經』作傳是也。近代以來,兼經注而明之則謂之為義疏。疏之為字,本以疏闊、疏遠立名。又『廣雅』云「疏者,識也。」案疏訓識,則書疏記識之道存焉。『史記』云「前主所是著為律,後主所是疏為令。」『漢書』云「削牘為疏。」故云疏也。昔者,三王始用肉刑。赭衣難嗣,皇風更遠,樸散淳離,傷肌犯骨。『尚書大傳』曰「夏刑三千條。」『周禮』「司刑掌五刑」,其屬二千五百。穆王度時制法,五刑之屬三千。周衰刑重,戰國異制,魏文侯師於里悝,集諸國刑典,造『法經』六篇,一、盜法;二、賊法;三、囚法;四、捕法;五、雜法;六、具法。商鞅傳授,改法為律。漢相蕭何,更加悝所造戸、興、廏三篇,謂九章之律。魏因漢律為一十八篇,改漢具律為刑名第一。晉命賈充等,增損漢、魏律為二十篇,於魏刑名律中分為法例律。宋齊梁及後魏,因而不改。爰至北齊,併刑名、法例為名例。後周復為刑名。隋因北齊,更為名例。唐因於隋,相承不改。者,五刑之罪名。者,五刑之體例。名訓為命,例訓為比,命諸篇之刑名,比諸篇之法例。但名因罪立,事由犯生,命名即刑應,比例即事表,故以名例為首篇。者,訓居,訓次,則次第之義,可得言矣。者,太極之氣,函三為一,黄鍾之一,數所生焉。名例冠十二篇之首,故云「名例第一」。
  • 以上,英,潤春於品,緩秋於黎。今,前,章,鴻,而刑,執,大,刑。一,一。不,觸。皇帝彝,納。德禮為政教之本,刑罰為政教之用,猶昏曉陽秋相須而成者也。是以降綸於台,揮折於髦,爰,大。遠則皇,近則蕭、,沿,自,甄,裁。譬權,若規。邁,同者矣。

お示しした文章は、原文では段を分けていませんが、考えがあって三段に分けました。その理由は、私の分けた第一段と第三段が駢文によって書かれているのに対し、両者の間に位置する第二段が駢文ではない、ということです。その第二段は、典型的な注釈の文章、義疏の文章になっています。

駢文の部分、平仄を合わせたらしいところにつき、平声を赤、仄声を青で表示しました。これを見ると、たとえば王勃(650-676)以後のような完全な平仄ではありませんが、基本的には平仄を意識していることが看取できます。

また句末の文字に着目すると、仄/仄と重なっている場合(つまり「平仄が合っている」とは言えない場合)でも、互いに上・去・入をたがえ、声調による区別をしており、音響を意識して書いています。

  • 「憑黎元而樹司(上),因政教而施刑(入)」
  • 「大則亂其區(上),小則睽其品(入)」
  • 「咸有天(入),典司刑(去)」
  • 「所有條(去),良多簡(入)」
  • 「潤春雲於品(入),緩秋官於黎(去)」
  • 「不有解(入),觸塗睽(去)」
  • 「降綸言於台(上),揮折簡於髦(去)」
  • 「甄表寬(去),裁成簡(上)」

それに対して第二段は、「律名例第一」の書名と篇題とを解釈したもの、一字一字に対し、その訓詁と内容を説き、なぜ「律」「名」「例」「第」「一」の語が使われているのかを、いちいち解釈しています。典型的な義疏のスタイルで、平仄への意識は欠如しています。

このような二種の文体が、ひとつの文章にまとめられている点に、たいへん興味をひかれました。小さな発見かもしれません。

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難書を解釈する方法:分節・絵画・釈例


陳澧(ちんれい,Chen Li,1810-1882)の『東塾読書記』(八「儀礼」)に興味深い指摘があります。

『儀礼』は難読であり、昔の人が同書を読んだのには、おおむね次のような手がかりがあった。第一に分節、第二に絵画、第三に釈例である。今の人は古人の後に生まれたが、それらの方法を身につけて『儀礼』を読めば、この経書に通ずることも難しくない。

難解な『儀礼』を読み解くために、古人は、第一に『儀礼』の本文を腑分けして理解し、第二に図を描くことによって理解し、第三に凡例を作って理解した。そのようにいくつかの工夫をこらして読んだ、というわけです。

難しい書物は、古人にとってもやはり難しかったので、理解のためには工夫せざるを得なかった、ということなのでしょう。陳澧の趣旨は、「後漢の鄭玄の注、唐代の賈公彦の疏などに『儀礼』読解の工夫が見える」ということですので、以下、それをかいつまんでみます。

分節

  • 賈公彦は『儀礼』の本文に対し、「どこからどこまでは、何々を論ずる」と説き、これが全書を貫いている。「有司徹」の鄭玄注が「どの句からどの句まで(自某句至某句)」としばしば言っており、これが賈疏の分節の手法の由来である。
  • 賈公彦の疏による『儀礼』分節には、たいへん細密な部分がある。たとえば、「聘礼」の「君使卿韋弁,歸饔餼五牢」以下の部分を三節に分ける。特に「有司徹」の疏は腑分けが細かい。
  • 朱子『儀礼経伝通解』は、賈公彦よりもさらに系統的に分かりやすく節を分けている。

絵画

  • 鄭玄も賈公彦も、注釈を書いたとき、必ずまず図を描いた。たとえば「士冠礼」の「筮人許諾,右還,即席,坐」の鄭注に「東面,右還北行就席」というが、これなどは図を描いて考えたに違いない。
  • 『儀礼』の中には、斜めに体を向ける、身をよじるなどの場面があり、これも図を描いてみないと理解できない。
  • 「郷射礼」の「司馬出於下射之南,還其後,降自西階」や、「燕礼」の「若君命皆致,則序進,奠於篚」には、きわめて詳しい疏がつけられているが、これらは動作が非常に複雑で、図にも描きにくいので、ことによると祭具をしつらえて礼の練習をして、はじめて分かったものかもしれない(「綿蕝習之,乃知之耳」)。
  • 宋の楊復『儀礼図』(「通志堂経解」に収める)は、偉大な業績。張恵言『儀礼図』がより詳細で、広く読まれている。
  • 張恵言『儀礼図』によせた阮元の序に、「いずれ家塾の子弟に、地面に線を引いて礼の練習をさせ、経書の研究も半分の労力で倍の成果をあげることになればよいと思う」と言っている。私(陳澧)自身も、礼の実習をしてみたことがあるが、確かに「半分の労力で倍の成果」であった。
  • 焦循「習礼格」では、宮室を碁盤のように描き、碁石を人物に見立てている。

釈例

  • 『儀礼』自体にすでに凡例的な記述があり、それが「郷飲酒礼」の「記」や、「郷射礼」の「記」に見える。
  • 鄭玄は、『儀礼』の凡例を数十条ばかりも指摘しており、それをまとめれば『儀礼凡例』が出来るほどだ。
  • 賈公彦は、鄭玄が示した凡例をさらに充実させた。

以上、陳澧がまとめた「古人の『儀礼』読解法」をご紹介しました。昔の人もいろいろと読書に工夫をこらしたものか、と想像すると、感慨深く思われます。『儀礼』に見える礼の多くは、後世、失われてしまったので、古人も苦労したのでしょうね。

『経典釈文』の新標点本


『経典釈文』は南朝の経学(『老子』『荘子』を含む)を知る上で不可欠の文献であり、その意義は今さら言うまでもありません。

『経典釈文』の流布本には、徐乾学(1631-1694)の「通志堂経解」本と、盧文弨(1717-1796)の「抱経堂」本の二種があります。両者とも、宋本を影写した、明末の葉林宗の本に基づくそうです。このうち、前者の「通志堂経解」本がより広く読まれています。

中華書局ではその「通志堂経解」本を影印して、さらに黄焯(1902-1984、字は耀先、黄侃の甥)という学者の校勘記をあわせて出版しています。現状では、黄焯の校勘記を参照しつつ「通志堂経解」本を利用するのが最も便利だと思います。

  • 『經典釋文』中華書局、1983年。
  • 黄焯彙校『經典釋文彙校』中華書局、1980年。
  • 黄焯、鄭仁甲編『經典釋文索引』中華書局、1997年。

なお『経典釈文』の体例を示し先行の注釈を総括した「序録」部分については、次の文献を参照することが必須です。

  • 呉承仕『經典釋文序録疏證』中華書局、1984年。

そのほかに、清朝の学者たちが見ることのできなかった宋元逓修本『経典釈文』が清朝の内府に秘蔵されていたのですが、この本は現在、北京の国家図書館に収められており、一九八〇年代に上海古籍出版社から影印されています。できればこれも手もとに備えたいところです。

  • 『經典釋文』上海古籍出版社、1985年。

そのような認識でいたところ、昨年末、『経典釈文』の点校本が出版されました。

  • 張一弓點校『經典釋文』上海古籍出版社、2012年。

よい標点本があれば役に立つはずだと思い、一本、買い求めたのですが、この本はただ国家図書館本を底本とし、「通志堂経解」本を対校本として整理しただけのもので、がっかりしました。『経典釈文』には誤りが多く、黄焯の校勘記なしではほとんど読むに耐えません。黄焯の校勘記を反映していないこの標点本、利用の価値は低いように思います。

一例を挙げましょう。『経典釈文』毛詩音義上(通志堂本の三十四葉裏、点校本の109頁)に「枏也」を釈して「沈云:孫炎稱:荊州曰,揚州曰。重實揚州人,不聞名枏」とありますが、これは「荊州曰,揚州曰」としなければ(黄焯の引く段玉裁の説)、とうてい意味が通りません。梁の博士、沈重が「わたくしは実に揚州の者だが、揚州で(ユズリハを)枏と呼ぶなんて聞いたことがない」と言っているのです。