『仏典はどう漢訳されたのか』


出版されたばかりの、船山徹『仏典はどう漢訳されたのか―スートラが経典になるとき』(岩波書店、2013年12月)を読みました。

仏教が中国にはじめて伝えられたのは、前漢時代のことであったようですが、後漢時代、二世紀ごろにもなると、いくつもの仏教経典が漢語に翻訳されるようになります。「漢訳仏典」と呼ばれるものです。本書は、翻訳文献としての漢訳仏典に焦点を合わせた、はじめての本格的な概説書です。

長い歴史を持ち、現代にも生きている漢訳仏典。葬儀や法事で僧侶があげるお経や、『般若心経』の写経などを通じ、日本人にとっても馴染み深いものです。また「縁起」「輪廻」「世界」などのことばも、すべて漢訳仏典に由来します。

そんな親しみのあるものについて、総括的な概説書がこれまでなかったことは、奇異にすら感じられるかもしれません。しかし、漢訳仏典の概説を書くためには、並外れた力量が必要で、インド・中国のみならず広く諸地域の仏教に通じ、語学的にも、サンスクリット・パーリ語などのインド語、漢語(文言文と現代漢語)、古いチベット語、さらには英語・ドイツ語などの現代のヨーロッパ諸言語を自在に操る学者でなくては、この仕事はしおおせぬことです。ようやく「其の人」が出現したのです。

インドからやって来た仏教は、漢人に大きな衝撃を与えました。それまで接触してきた「夷狄」とは明らかに異なる、押しも押されもせぬ大文明との邂逅。それは、はじめての経験でした。しかもそれが宗教であったことは、とりわけ重要です。宗教は、信念のみならず、生活や文化全般に大きなインパクトを与えるからです。

中国は、インドの宗教を如何に受け入れたのか。これが本書のテーマです。以下の構成により、翻訳としての漢訳仏典の真相が解き明かされます。

  • 第1章 漢訳という世界へのいざない―インド、そして中国へ
  • 第2章 翻訳に従事した人たち―訳経のおおまかな歴史
  • 第3章 訳はこうして作られた―漢訳作成の具体的方法と役割分担
  • 第4章 外国僧の語学力と、鳩摩羅什・玄奘の翻訳論
  • 第5章 偽作経典の出現
  • 第6章 翻訳と偽作のあいだ―経典を“編輯”する
  • 第7章 漢訳が中国語にもたらしたもの
  • 第8章 根源的だからこそ訳せないもの
  • 第9章 仏典漢訳史の意義

漢人から見れば外国人に当たる僧侶たちの活躍や、中国人による仏典「編輯」の問題、何とかして原典の意を尽くそうとする翻訳者たちの苦悩、新たな仏教語の導入により新しい色彩を与えられた中国語の様相などなど、内容は豊かで、しかもグローバル化しつつある現代社会にも通じるテーマです。

第8章「根源的だからこそ訳せないもの」は、特に興味深く読みました。たとえば、「聖」の一語をとっても、中国が如何に仏教を摂取したのかという問題や、さらにはその後、唐代にキリスト教(ネストリウス派)がやって来たときにも、仏教語の一環としての「聖」なる語が用いられた事実が提示されており、翻訳という行為の深みを感じることができます。

漢訳仏典は、そのように実に重層的に成り立っているわけです。本書は、その重層性を生み出した背景を全面的に開示したものと言えます。

インドも中国も、日本人からすれば外国のことではありますが、どちらも我々の生活や考え方と切っても切れない文化です。現代の気鋭の日本人学者により、本書が我々日本人に向けて書かれたことに、大いなる意義を感じました。

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「『仏典はどう漢訳されたのか』」への2件のフィードバック

  1. 古勝 隆一先生
                            2013年12月29日
    ◎ようやく「其の人」が出現したのです。
    岩波文庫『般若心経』は、「色不異空、空不異色。色即是空、空即是色」を

    この世においては、物質的現象には実体がないのであり、実体がないからこそ、物質的現象で(あり得るので)ある。
    実体がないといっても、それは物質的現象を離れてはいない。また、物質的現象は、実体がないことを離れて物質的現象であるのではない。
    (このようにして、)およそ物質的現象というものは、すべて、実体がないことである。およそ実体がないということは、物質的現象なのである。

    と訳しています。この(たれも理解の出来ない)翻訳に『心経』を学ぶ者は苦しめられてきました。玄奘三蔵の訳した漢訳『心経』を訳そうとせず、サンスクリット原典を訳したためにこんな翻訳になったのだと思います。漢訳仏典を漢語として研究の対象とする著作も中国から出始めています。「其の人」=universalistよりも漢語に通じた人の『心経』『金剛経』の翻訳を期待しているのですが、岩波は一向に文庫の改訂をしてくれません。
    ◎「それは、はじめて経験でした」。
    「はじめて」のあとに「の」が脱けているようです。
    藤田吉秋

  2. 藤田様

    年末のお忙しい時期にも関わらずコメントくださいまして、まことにありがとうございます。

    ご指摘の問題、すなわち漢訳をあまり重視せず、「原典」の把握を目指す傾向については、部外者から見ても、かなり根深い問題のように思います。

    著者の船山氏もこの問題をめぐり、次のようにお書きになっています。

    「読みにくい漢訳からインド語原典の訳を復元してみせるべきか、それともインド語原典と漢訳は別とみて、あえて原典とは異なる意味―誤読を余儀なくさせるその漢訳のありのままの姿―を提示すべきか。現代の仏教文献学は、多くの場合、第一型の現代語訳のみを提示する立場をとる。しかし第一型を示すことは、本当に漢訳を現代語訳したことになるのかと問うてみる価値はあろう。」(p.255)

    この問題提起は、とても興味深く感じられました。

    末筆ながら、よいお年をお迎え下さいますよう、お祈り申し上げます。

    学退復

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