「創造性」を超えて


斯波六郎・花房英樹訳『文選』(筑摩書房、「世界文学大系」、1963年)の月報を眺めていると、高橋和巳「詞華集の意味」という短文に目がとまりました。

私たちは普通、文学という場合、創作を第一義的なものと考えて、古典の注釈やその集大成、詞華集の編纂や民歌採集、あるいは翻訳などを、創作に比肩する重大な表現行為とは考えない。それは文学を表現者の側から、しかもその創造性に重点をおいて考察するヨーロッパ・ローマン主義以後の一つの習性であって、それ自体、近代の精神的特徴の一つとして充分意味をもっているけれども、大きな文化の流れの中に位置する人間のいとなみとして文学を理解する立場からみれば、それはいささか偏狭であるといわざるをえない。

作者の独創性にばかり着目する狭い文学的な価値観に異を唱え、古典の注釈、古典の集大成、詞華集の編纂、民歌の採集、翻訳などの意義に光をあてるものです。高橋氏は、中国文化における「創作以外の表現」につき、漢代にその源流を求めています。

私の考えでは中国文学にあっては漢代においてすでに表現者のありうべき態度はほぼ出揃ったと思う。その一つは、自らの主張を『列女伝』をはじめ、既存の故事逸話の類を再編成することによって主張しようとした劉向の態度、その二は、古典に擬しつつ自らの時代には自らの作りなせる『論語』や『老子』があるべきだと考えそれを実践した揚雄の態度、第三には述べて作らざる志向の極限としての古典注釈およびその体系の中に自己の思念をひそめさせた鄭玄の態度。そしてこれらは、みずからの感受性と才能によって詩文を創作した司馬相如ら文人たちの文学活動と同等に尊い表現行為と見なすべきなのである。

読者論とか受容史とか、小難しいことをいうまでもなく、確かに中国文化の伝統にあっては、古典に新たな力を与えて生き返らせることは、はっきりとした意義を認められてきたものです。その源を漢代に求めたとしても、誤りではないでしょう。ただこれはひとり文学に限った話ではなく、文化全体に及ぶものといえます。

文化の伝統とは要するに、一般読者にとって極端な困難さなく理解しうる精神的遺産と、それぞれの時代における新たな創造の幅であって、古典をそれぞれの時代に蘇らせ、新しい解釈をほどこし、あるいは特定の人にしか見られない厖大な資料を、一つの基本的教養たるべき詞華集にあむことも、ともに秀れた表現行為なのである。

「古典をそれぞれの時代に蘇らせ」ること、これこそ自らの仕事、と、大いに膝を打ちました。

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