空格ひとつ


光緒二十一年本『墨子閒詁』
光緒二十一年本『墨子閒詁』

名著として知られる、孫詒讓(1848-1908)の『墨子閒詁』。

孫氏は光緒二十一年(1895)、木活字本として本書を出版しました。この版は三百部しか印刷されず(後述する光緒三十三年の孫氏識語に「以聚珍版印成三百部」と見えます)、流布は少ない本です。

墨子閒詁十五卷 目錄一卷 附錄一卷 後語二卷
淸 孫詒讓 撰 光緒二十一年 瑞安孫氏 活字印本

ただ孫氏自身、誤りが多いことを気にしたらしく、後にあらためて木板本を作り、光緒三十三年(1907)の四月にそのための識語を書いています(宣統二年本の總目の後ろに見える)。その木板本は孫氏の亡くなった後、宣統二年(1910)になって出版されたもののようです。

ある研究会で、この光緒二十一年活字本と宣統二年整版本とを比較しました。光緒二十一年本には、たくさんの訂正があります。その多くは誤字をホワイトで消したうえで、毛筆で訂正するか、スタンプを押して訂正するか、あるいは紙を貼り付けて訂正してあります。おそらくこれらは、孫詒讓自身の指示で行われた訂正であろうと想像します。

見たところ、その訂正の結果は宣統二年本によく反映されているようでした。しかし、訂正が反映されていない部分をひとつ見つけました。それは、黄紹箕(1854-1908)の跋文中の次の一節にあります。

備城門以下二十□篇,今亡九篇。(宣統二年本による)

光緒二十一年本黄跋
光緒二十一年本黄跋

光緒二十一年本では、「二十二篇」と誤り、そのうえで下の「二」字に縦の線二本を書き加え、□の形に書き直しています。これは空格であり、光緒二十一年本の訂正のしかたを見ると、衍字を削除する記号(現在の校正でいうトルツメ)であると判断できます。

そうであるならば、改めて版を作る場合には「備城門以下二十篇」とするのが正しい道理です。宣統二年本が、「備城門以下二十□篇」と空格を残したのは小さな瑕疵でありました。

この誤りは、現在もっとも流布している新編諸子集成所収の点校本にも引き継がれています。お手もとの本を一度、ご確認ください。

「三国仏法伝通史観の功罪」


石井公成氏「三国仏法伝通史観の功罪―相互交流するアジア仏教の視点から」(増尾伸一郎、松崎哲之編『交響する東方の知―漢文文化圏の輪郭』(知のユーラシア5)、明治書院 、2014年)を拝読。「功罪」ということばを含むそのタイトルからも予想されたとおり、刺激的な文章でした。

アジアにおける仏教史の実態を見えなくさせた原因の一つは、「天竺→唐→本朝(日本)」という順序で仏教が伝わり、日本に正しく保存されているとする三国仏法伝通史観だろう。(同書、p.57)

文章はこのように始まります。仏教の日本伝来を、インドから中国へ、中国から日本へ、という直線的で一方的な図式でとらえることの危うさが、さまざまな角度から、豊富な事例に基づいて語られています。

この「三国仏法伝通史観」なる仏教観、空海の頃に芽生え、凝然(1240-1321)によって大成されたもので、凝然においては「南都仏教を中心として鎌倉時代の諸宗の正統性を強調するため、その起源を求めて釈尊までの教理的なつながりをさかのぼっておいたうえで、それを釈尊以来の系譜として示そうとしたものにほかならない」、とのこと(p.57)。

直線的な系譜を書こうとするこの種の単純化は、決して日本にのみうかがえるわけではなく、いろいろなタイプのナショナリズムとも結びつき、昔から今に至るまで存在しているとのこと。

石井氏は、そのような単純化に当てはまらない事例が、アジア仏教史に数多くあることを示し、いわゆる「三国仏法伝通史観」を突き崩しています。

興味深いのは、石井氏がその種の偏った見方を単に否定するのではなく、自分自身が特定の見方をしていることの自覚を持つよう、うながす点です。

伝通史観は、自分にとって望ましい系譜を探し求め、時に創作する試みにほかならない。われわれに必要なことは、自分が心の奥でどのような系譜を望んでいるか、それはなぜなのかを、できるだけ自覚するようつとめ、自説にとって都合の悪い事例から逃げずに真正面からむかいあい、できるだけ幅広い視点から相互影響の実態について検討し続けていくことだろう。(pp. 81-82)

自分自身に引きつけても、思い当たる節があります。物事が一方向に進むのではなく、複雑にからみあい相互に影響を与え合うこと、それが多くの局面における事態の真相であるのかもしれません。過度の単純化にあらがうことは、粘り強い精神力を要することですが、学者自身が自己を見つめ直す契機にもなりえましょう。

揚馬の輩


和島芳男『中世の儒学』(吉川弘文館、1965年)を読んでいたところ、『本朝文粋』に「游夏の徒、もと卿相の子にあらず。揚馬の輩、寒素の門より出づ」なる対句があることを知りました。『中世の儒学』、第15頁。

出身にこだわらず、才能のある人材を登用すべしと主張する文章のようです。平安時代にすでにそのような開けた考え方があったのかと関心を引かれて、原文に当たってみました。

その文章は『本朝文粋』巻二「官符」に、太政官符「應補文章生並得業生復舊例事」(天長四年(827)六月十三日)として収録されていました。以下に抜粋します。

大學尚才之處,養賢之地也。天下之俊咸來,海内之英並萃。

游夏之徒,元非卿相之子;揚馬之輩,出自寒素之門。高才未必貴種,貴種未必高才。

且夫王者用人,唯才是貴。朝為廝養,夕登公卿。而況區區生徒,何拘門資;竊恐悠悠後進,因此解體。

(新日本古典文学大系『本朝文粋』pp. 145-146)

和島氏が「揚馬」に注して「漢の揚雄と後漢の馬融」というのはもとより誤り。岩波の新日本古典文学大系の『本朝文粋』(岩波書店、1992年、p.21)が「揚雄と司馬相如」と注するのを是とすべきです。

曰く、「揚馬の輩、寒素の門より出づ」と。別に司馬相如や楊雄が都の大学に入って学問を身につけたわけではありませんが、高貴の出身でないにもかかわらず名を成した例として、平安貴族は彼らを想起したようです。

権威ある注釈


今春から担当しているある授業のために、中国古典に対して作られた権威ある注釈のうち、唐以前に著されたものを列挙してみました。現存している注釈のみ挙げてあります。配列はおおむね『四庫提要』の分類順に従いました。

常識的な内容であり、またあくまでも便宜的なものですが、資料等にご活用いただければ幸いです。漢学専攻の学生諸君には、一通り覚えておいてもらいたい事項です。ご要望があれば、代表的な版本を書き加えるかも知れません。

經部

  • 《周易》(魏)王弼注/(唐)孔穎達正義
  • 《尚書》(傳前漢)孔安國傳/(唐)孔穎達正義
  • 《詩》(前漢)毛亨傳/(後漢)鄭玄箋/(唐)孔穎達正義
  • 《周禮》(後漢)鄭玄注/(唐)賈公彦疏
  • 《儀禮》(後漢)鄭玄注/(唐)賈公彦疏
  • 《禮記》(後漢)鄭玄注/(唐)孔穎達正義
  • 《大戴禮》(北周)盧辯注〔闕〕
  • 《春秋左傳》(西晉)杜預注/(唐)孔穎達正義
  • 《春秋公羊傳》(後漢)何休注/(北朝?)徐彦疏
  • 《春秋穀梁傳》(東晉)范寧集解/(唐)楊子勛疏
  • 《孝經》(唐)玄宗注
  • 《論語》(魏)何晏集解
  • 《孟子》(後漢)趙岐注
  • 《爾雅》(東晉)郭璞注
  • 《方言》(東晉)郭璞注

史部

  • 《史記》(劉宋)裴駰集解/(唐)司馬貞索隱/(唐)張守節正義
  • 《漢書》(唐)顔師古注
  • 《後漢書》(唐)李賢注/(梁)劉昭注
  • 《三國志》(劉宋)裴松之注
  • 《國語》(呉)韋昭注
  • 《戰國策》(後漢)高誘注
  • 《水經》(北魏)酈道元注(即《水經注》)

子部

  • 《孔子家語》(魏)王肅注
  • 《荀子》(唐)楊倞注
  • 《孫子》(魏)武帝注
  • 《管子》(唐)尹知章注
  • 《呂氏春秋》(後漢)高誘注
  • 《淮南子》(後漢)許慎注/(後漢)高誘注
  • 《世説新語》(梁)劉孝標注
  • 《山海經》(東晉)郭璞注
  • 《老子》(傳前漢)河上公注/(魏)王弼注
  • 《列子》(東晉)張湛注
  • 《莊子》(西晉)郭象注/(唐)成玄英疏

集部

  • 《楚辭》(後漢)王逸注
  • 《文選》(唐)李善注/(唐)五臣〔呂延濟、劉良、張銑、呂向、李周翰〕注