揚馬の輩


和島芳男『中世の儒学』(吉川弘文館、1965年)を読んでいたところ、『本朝文粋』に「游夏の徒、もと卿相の子にあらず。揚馬の輩、寒素の門より出づ」なる対句があることを知りました。『中世の儒学』、第15頁。

出身にこだわらず、才能のある人材を登用すべしと主張する文章のようです。平安時代にすでにそのような開けた考え方があったのかと関心を引かれて、原文に当たってみました。

その文章は『本朝文粋』巻二「官符」に、太政官符「應補文章生並得業生復舊例事」(天長四年(827)六月十三日)として収録されていました。以下に抜粋します。

大學尚才之處,養賢之地也。天下之俊咸來,海内之英並萃。

游夏之徒,元非卿相之子;揚馬之輩,出自寒素之門。高才未必貴種,貴種未必高才。

且夫王者用人,唯才是貴。朝為廝養,夕登公卿。而況區區生徒,何拘門資;竊恐悠悠後進,因此解體。

(新日本古典文学大系『本朝文粋』pp. 145-146)

和島氏が「揚馬」に注して「漢の揚雄と後漢の馬融」というのはもとより誤り。岩波の新日本古典文学大系の『本朝文粋』(岩波書店、1992年、p.21)が「揚雄と司馬相如」と注するのを是とすべきです。

曰く、「揚馬の輩、寒素の門より出づ」と。別に司馬相如や楊雄が都の大学に入って学問を身につけたわけではありませんが、高貴の出身でないにもかかわらず名を成した例として、平安貴族は彼らを想起したようです。

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「揚馬の輩」への9件のフィードバック

    1. 伊藤様

      コメントくださいまして、ありがとうございます。確かに「班馬」といえば司馬遷と班固ですが、「揚馬」と並列すれば、やはり司馬相如と楊雄を指すようです。中国の駢文でも『文心雕龍』などに例が幾つかありますが、それらについても楊雄と司馬遷とは解釈しづらいと思います。お考えがあれば、またお聞かせください。

      学退復

      1. 隋の仁夀元年の陸法言の切韻序に、
        「『藏之名山』,昔、怪‘‘馬遷之言’大’,
        『持以蓋醬』,今、歎‘‘揚雄之口’吃’.」
        というように對になってゐるので、わたくしとしてはそれとしか思えないのでした。

  1. 古勝 隆一先生
                  2014年4月25日
    ◎「揚雄と司馬相如」というのが正解。
    柿村重松(1879~1931)著『本朝文粹註釋』(1922)に「揚雄と司馬相如」との注釈があります。「揚馬」の「馬」から馬融を思い浮かべる方が却って難しいかと思われます。
    なお、「揚雄」ではなく「楊雄」とすべきこと、段玉裁の「書漢書楊雄傳後」をあらためて読みました。
    藤田吉秋

  2. 藤田様

    おっしゃるとおりと存じます。馬融というのはなかなか思い浮かびません。むしろ馬援の親族、名門の出という印象です。

    習慣的に長く使われた表記でしょうから、「揚」雄でも誤りだとまでは思いませんが、「楊」雄の方がより適切だと思っております。「揚」姓が「楊」姓と別にあったわけではなかろうと思います。

    柿村重松『本朝文粹註釋』、機会をとらえて拾い読みでもしてみたいものです。ご教示、感謝いたしております。

    学退復

  3. 伊藤様

    ご指摘の「切韻序」では、確かに司馬遷と揚雄とが対になっていますが、ただ、「揚馬之輩,出自寒素之門」という日本人の作った句は、それを直接に踏まえたものとは、私には、見えません。

    研究会などで駢文を読んでいても、出典に関して意見が一致しないことをしばしば経験しています。この件については、駢文を読み慣れている方に、意見をお求めになっては如何でしょうか。

    学退復

    1. 揚雄というのは辭賦家でもあったとしても、
      『方言』という仕事を成しました。『太玄經』をなかなか認められなかったことが切韻序のいう故事ですが、『古今逸史』第一に郭璞註『方言』がきてゐることも見逃せません(司馬遷をのみ歴史家という場合の考慮として)。
      また『楚辭』の本文は司馬遷の史記以前にいかなる引用としても出現してゐなかったということが本當とすると司馬遷も辭賦家の閒では無視できない立役者であったことになります。
      また馬融は鄭玄がその門人だった人で古文經學の偉い人ですが、列女傳・老子・淮南子・離騷等にも注したとあり、それらも辭賦家としての取扱い才能の分野として見逃せません。
      また、辭賦というからには楚辭を祖とするゆゑに、それを扱い取り込んでゆくためにあった言語学的視点・業績を無視するわけには参りません。
      むしろ楚辭をめぐって、或いはそれにもまつわる獨得の言語的視点をめぐって、それらのそのように幾つかの「馬」・「揚」が舉げられてゐるのではないでしょうか?
      鄭玄は所謂る「六書」の知識を受け継ぐ者の一人でもあり、『説文』を成した許愼とその「六書」に關する知識の祖を同じくすると考えられてゐます。
      また、揚雄は今文的環境の中で、『方言』という仕事を成し、馬融は古文學的環境の中で重要な役割を成した。
      そこで辭賦家・歴史家という區別を「班・馬」を使って一直線にいれて幕を下ろしてしまうと、日本人の漢文学教養の搖れ幅が卻ってつかめなくなってしまうのではないでしょうか。
      平安朝の日本人は思ったよりも楚辭やその必要から來る諸々の『切韻』(たとえば藤原氏の東宮切韻がある)・『方言』などに興味をそそられて影響されてゐたのではないでしょうか。そういうことを權衡として、いくつかの言い方が出来ていて、それらは歷史言語学的な教養が文学の古典を支えているということを中核とした興味であったかもとも思われます。

      1. 伊藤様

        頂戴したコメントを拝見しました。分かりにくいところがあるので、いくつか確認させてください。

        まず、「揚馬之輩,出自寒素之門」とこの文の作者が書いたとき、作者が明確に念頭に置いた「揚」と「馬」とが存在すると、私は考えますが、その点は同意なさいますか?それとも、「揚」も「馬」も、それぞれ一人ずつの人物を作者が指し示すつもりで書いたのではない、とお考えですか?

        作者の意図をどうとらえるかによって、「揚馬」の解釈に差が生じそうです。

        もう一点、(作者の意図がどうであるかを問わず、)読者の側には「揚馬」をゆるやかにとらえる余地がのこされているとお考えですか?私は、「揚馬之輩」と対になる「游夏之徒」が子游・子夏という二人の人物である以上、揚・馬を二人の人物ととらえない読みは、正しくないと判断します。

        「日本人の漢文学教養の搖れ幅」とおっしゃるものが何なのか、私にはよく分かりません。作者を蘇らせて質問すれば、「揚馬」が何を指すのか、はっきりと答えてくれるものと私は信じますし、またさらに、李善を蘇らせてこの部分の読みを問えば、何の躊躇もなく楊雄・司馬相如と答えるのではないか、と思っております。あるいは、平安時代の一般的な知識人に質問しても、答えは同じであろうと想像します。

        私自身の考え方を申し上げれば、この種の文(駢文、あるいは駢文を範とした文)に用いられる語彙が示す対象には、「正解」があった(作者たちもそれを意識して書いたし、またかつての読者たちもそれを意識して読んでいた)、と考えます。特に人名はそうです。李善は、『文選』に収められた作品群中のことばが指し示す「正解」を次々に言い当てた人である、と思っています。「正解」があるという点については、中国人が作った駢文であれ、平安時代の日本人が作った「應補文章生並得業生復舊例事」であれ、大差ないと考えます。

        こういう考え方は、ある意味で硬直化したものかもしれませんが、歴史の実態から大きくはずれたものではないはずです。

        駢文を読んでいると、作者の技巧が極端な場合や、あるいは作者が用いた典故が後世に失われた場合など、「正解」が出ないことが、しばしばあります。しかしこの「揚馬之輩」については、「正解」が比較的に出し易いものであると判断して、とりあげた次第でした。

        古勝隆一復

  4. 古勝 隆一先生
    伊藤 祥司様
                  2014年4月30日
    ◎「揚馬」。
    『漢語大詞典』6-P.752は、手偏の「揚」字の熟語として「揚馬」を掲げ、「漢代文章家揚雄和司馬相如的并称」としています。また、「揚班」は文章家としての「揚」雄と「班」固とであると説明しています。「班馬」は歴史家としての「班」固と司「馬」遷。楊雄は歴史家ではなく、司馬遷は辞賦家ではありませんから、この二人は対にはなっても併称はできないと思います。楊雄と司馬相如とは出身も同じく蜀郡成都の人。
    藤田吉秋

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