臥内ニ於テ詩數反ヲ高吟ス


我が国の中世において、儒学がどのように伝えられていたのか、少しばかり興味を持っています。

和島芳男『中世の儒学』(吉川弘文館、1965年、p. 175)に、三条西実隆(1455-1537)の『実隆公記』の一文が引かれているのが、目に留まりました。三條西實義編(1931-1938)の五冊本『実隆公記』が、国会図書館の「近代デジタルライブラリー」に収録されているので、そこから引用しましょう。

永正八年(1511)五月二十九日の記事に、「太相国」(徳大寺実淳、1445-1533)の言葉として、次の一節が見えます(第五巻、p. 516)。

宜竹和尚談云、毛詩常忠講尺之時、諸尊宿聽聞、講談未始之前、於臥内今日可講之詩數反高吟云々。此事一日相尋之處、毛萇ハ專詩ノ作意ヲ面白ク見ナシタリ、鄭玄ハ只字訓、義理等ヲ尺セリ、毛萇カ心ノコトク、詩ノ心ノ面白キ樣ハ、今ハ吟味セハアリヌヘキ事也、仍再三吟味云云、尤有興云々、 

宜竹和尚とは、相国寺に住した景徐周麟(1440-1518)。その宜竹が、常忠(清原業忠、きよわらのなりただ、1409-1467)を回想した、と。

業忠は『毛詩』を講義する前は、寝床のなかでその日に講ずる詩を数度にわたり高らかに朗詠した。そのことをある時、実淳が業忠に質問したところ、業忠は次のように言った、「毛萇(『詩経』の注釈をし、「毛伝」を書いたとされる前漢の学者)はそれぞれの詩の創作意図を面白いものとみなしたが、一方の鄭玄(「毛伝」を踏まえて、さらに『詩経』の注釈「鄭箋」を書いた後漢の学者)は訓詁・義理の説明ばかり。毛萇のように詩を面白く読むには、こうして吟詠すればそう感じられるだろう。そこで何度も吟詠しているのだ」、と。

寝床のなかで古人に思いを馳せて詩を唱えるとは、なかなか味わい深い学びの姿だと感じられます。教師として、このようにありたいものです。

この逸話に続けて、実隆自身が大儒、清原宣賢(1475-1550、先ほどの業忠の孫)に聞いた後日談が、次のように加えられています。

後日予此事語宣賢朝臣處、鄭玄禮記ヲ注シテ後毛詩ヲ注スル間、禮ニカハリテ多注シタリ、毛萇心ハ詩ハサノミ禮法ニノミ不可拘、作意本タルヘシト心得ヲ注セリ云々、清家ノ習、嫡流ニハ毛萇ノ點ヲ傳フ、庶流ニハ鄭玄カ點ヲヲシフルト云々、

面白いのは、清原家では、嫡流に毛伝を教え、庶流には鄭箋を教えていた、という宣賢の証言です。

毛伝と鄭箋は、ともにひとつの本に書き連ねられた『詩経』の注釈でありながら、内容が異なる場合がしばしばあります。鄭箋が世に伝えられて後、両者の齟齬に学者たちは大いに悩みました。

そこで清原家では、一人の後継者に二つの相異なる説を伝えるのではなく、二つに分けて伝えるという方法を考案したわけです。真摯に学問に打ち込む家ならでは、と言えましょうか。

この一件、実隆が直接に宣賢に聞いたことですから、信憑性は高いはずです。何ともゆかしく思われました。

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