位は徐広に非ず、情は楊彪に類る


北周から隋代にかけて生きた栄建緒は、まがったことの嫌いな人物で、学問も立派であったとのこと。

彼はもともと楊堅(のちに隋の文帝となる人、541-604)と親しく、楊堅が北周を倒す野望をいだき、栄氏にそのことをほのめかしたところ、「明公の此の旨、僕の聞く所に非ず」と栄氏が色をなした、と『隋書』は伝えます。それに対して、楊堅は不機嫌になったものの、栄氏はそのまま立ち去りました。

(榮)毗兄建緒,性甚亮直,兼有學業。仕周為載師下大夫、儀同三司。及平齊之始,留鎮鄴城,因著『齊紀』三十卷。建緒與高祖有舊,及為丞相,加位開府,拜息州刺史,將之官,時高祖陰有禪代之計,因謂建緒曰:「且躊躇,當共取富貴。」建緒自以周之大夫,因義形於色曰:「明公此旨,非僕所聞。」高祖不悅。建緒遂行。(『隋書』卷六十六、榮建緒傳)

隋が天下を取ると、いまや隋の文帝となった楊堅の前に、栄氏が再び現れました。文帝は「お主も後悔しておるか?」と昔の話を蒸し返します。すると栄氏は、頭を下げて「臣、位は徐広に非ず、情は楊彪に類(に)る」と答えました。これには文帝も苦笑し、「朕は書物の文言は知らぬが、それでもお主のこのことばが不遜であるのは分かるぞ」と言った、とのこと。

開皇初來朝,上謂之曰:「卿亦悔不?」建緒稽首曰:「臣位非徐廣,情類楊彪。」上笑曰:「朕雖不解書語,亦知卿此言不遜也。」(同上)

「位は徐広に非ず、情は楊彪に類る」。徐広(352-425)は東晋末から劉宋初にかけて生きた人、東晋に忠誠心を持ちつつも、宋では高祖に重用され秘書監にまで至りました。一方の楊彪(142-225)は後漢末から魏初にかけて生きた人で、後漢に仕え、曹操には屈しない態度を示しました。

この対句から、栄氏の気骨がうかがわれます。

文帝が「不遜」と評した栄氏のことば、内容が露骨であることはもちろんですが、その「言いぶり」もなかなか嫌味です。「位非徐廣,情類楊彪」、駢文の中に見出されてもおかしくない綺麗な対句で、平仄まで整っています。そう思って見返してみると、もう一つの発言、「明公此旨,非僕所聞」の方も、平仄が合っているのです。

こういう、いかにも文人らしい美しい「言いぶり」が、文帝をますますいらだたせたのかも知れません。