『資治通鑑』は面白い


これまで『資治通鑑』二百九十四巻を通読したことはありません。しかし、たまに読みたくなって、興味のある時代を数十年分(巻数にして数巻分)をながめることがあります。最近は、隋の時代の部分を読んでいます。

何しろ編年にしてあるので、時間軸に沿って読み進められるのが最もありがたいところです。正史の場合、本紀を除けばこのように直線的に読むのが難しいのです。その点、『通鑑』ならばずいぶん軽快に読めます。

また、『通鑑』には元の胡三省の注がついているので、必要な知識をつまみ取りながら読むことができるのも利点です。『史記』『漢書』『後漢書』の注はともかくとして、他の正史には訓詁注釈が不足していますから。

そんな魅力的な『資治通鑑』、ほぼ、信用して読んでいるのですが、たまに話が面白くできすぎているところがあり、そういう場合、私は正史に立ちもどって史実を確認するようにしています。

先日書いた「選曹七貴」のことも、読んでみて少々面白すぎるように感じたので、『隋書』を確認してみた、という次第です。このブログのささやかな裏話を語ってみました。

選曹七貴


『資治通鑑』によると、隋の煬帝の大業二年(606)頃のこと、本来、人事を統括すべき吏部尚書の地位にあった牛弘(545-610)は、その職務を一人で行うことを許されませんでした。牛弘は、蘇威(542-623)、張瑾(?- ?)、宇文述(?-616)、裴矩(557-627)、裴蘊(? -618)、虞世基(? -618)の六人とともに合議によって人事を行い、時の人は彼らを「選曹七貴」と呼んだ、とのこと。

時牛弘為吏部尚書,不得專行其職,別敕納言蘇威、左翊衞大將軍宇文述、左驍衞大將軍張瑾、内史侍郎虞世基、御史大夫裴蘊、黄門侍郎裴矩參掌選事,時人謂之「選曹七貴」。雖七人同在坐,然與奪之筆,虞世基獨專之,受納賄賂,多者超越等倫,無者注色而已。(『資治通鑑』卷一百八十,隋紀四,大業二年)

『資治通鑑』の記事は、主に正史に基づく部分が多いのですが、しかし、「選曹七貴」は『隋書』に記載がなく、代わりに「五貴」に関する記事が『隋書』蘇威伝に見えます。

煬帝嗣位,加上大將軍。及長城之役,威諫止之。高熲、賀若弼等之誅也,威坐與相連,免官。歳餘,拜魯郡太守。俄召還,參預朝政。未幾,拜太常卿。其年從征吐谷渾,進位左光祿大夫。帝以威先朝舊臣,漸加委任。後歳餘,復為納言。與左翊衞大將軍宇文述、黄門侍郎裴矩、御史大夫裴蘊、内史侍郎虞世基參掌朝政,時人稱為「五貴」。(『隋書』卷四十一,蘇威傳)

「五貴」をもとに、牛弘と張瑾(この人物はなぜか『隋書』に立伝されていません)の二人を足して、『資治通鑑』は「七貴」を仕立てたものとも見えます。

また『隋書』虞世基伝にも、虞世基が蘇威、宇文述、裴矩、裴蘊らと「朝政を參掌」した、とあります。

帝重其才,親禮逾厚,專典機密,與納言蘇威、左翊衞大將軍宇文述、黄門侍郎裴矩、御史大夫裴蘊等參掌朝政。

さらに虞世基伝には、「鬻官賣獄,賄賂公行,其門如市,金寶盈積」と見えており、これが、虞世基による乱脈人事と結びつけられ、『資治通鑑』の記事が綴られているのかも知れません。なお、この虞世基という人物、有名な虞世南の兄です。

ここで気になるのは時期のことで、『資治通鑑』は「選曹七貴」を大業二年に繫年しているのですが、かりに「選曹七貴」のような実態が存在したとしても、それは大業五年か六年のことではないかと思います。大業五年のこととして、煬帝が蘇威と牛弘の二人に、「清名天下第一の者」について下問しています。

大業五年入朝,郡國畢集,帝謂納言蘇威、吏部尚書牛弘曰:「其中清名天下第一者為誰?」威等以儉對。(『隋書』卷七十三,柳儉傳)

実は、蘇威は大業三年七月に一度、失脚しており、その後、(正確には分かりませんが)大業五年までには納言の職位にもどっています。『隋書』蘇威伝では、「五貴」のことをはっきりと蘇威の復帰以後のこととしていますが、『資治通鑑』は失脚前のことと誤って、大業二年に繫年したようです。

また、裴蘊が戸籍調査を徹底させ、「新附口六十四萬一千五百」を得て、その功績により御史大夫に抜擢された、というのも大業五年のことです(『隋書』卷六十七,裴蘊傳)。

『隋書』のこれらの資料を総合すると、「選曹七貴」と時人が呼んだことがもしあったとしても、それは大業五年か、もしくは六年のこととしか考えられません。当の牛弘は、大業六年十二月に逝去しました。時期については『資治通鑑』が誤っているはずです。

時期の話はともかく、「選曹七貴」というのは、ある種のフィクションではないかと私は思うのです。吏部侍郎の牛弘には人事の実権がなく、実は虞世基が人事を壟断し、賄賂を取って勝手に決めていた。そうでありながら彼ら七人が「選曹七貴」と呼ばれていた、というのでは、よく話が分かりません。

『資治通鑑』は(特に隋の記事については)正史以外の史料も参照していますから、すでに失われた有力な史料には確かに「選曹七貴」のことが書かれていたのかもしれません。その可能性は皆無ではありません。

しかし、如何でしょうか。この「選曹七貴」の話、「五貴」の評判と虞世基の不正人事の話(『隋書』を読むと、虞世基の妻の収賄のようなのですが)とを無理に取り合わせたものではないか。そう思えてなりません。

『漢代婚喪礼俗考』の引書


このごろ同志社大学大学院の授業で、楊樹達(1885-1956)の著書、『漢代婚喪礼俗考』(商務印書館、1933年)を読んでおります。漢代の習俗を理解するための良い手引きですし、この際、楊樹達の書いたものをもう少し読んでおきたいという気もありました。

もちろん内容はしっかりした書物なのですが、本書の中にたくさん引用されている資料について、少しばかり問題を感じています。『漢書』『後漢書』などについては問題ないものの、それ以外の書物を引用する場合、かなり明白な「孫引き」が存在しているのです。

後漢の鄭衆の『百官六礼辞』、『婚礼謁文』(及び『婚礼謁文賛』)は、後漢時代における婚礼のあり方を伝える重要な文献でありながら、今は失われており、『通典』や『藝文類聚』『初学記』『太平御覧』などに引用された佚文を利用するしか手がありません。

楊樹達も『通典』や類書などの名を挙げて資料を並べますが、実は、直接に資料を見ていない可能性が濃厚です。楊氏の列記する資料に誤字が多いことが気になり、調べてみたところ、その誤りが厳可均(1762-1843)『全後漢文』巻二十二の誤りを踏襲するのではないか、と、思いあたりました。受講生の堀祐輔さんも資料に当たって、その推測を補強してくださいました。

『全後漢文』は、厳可均の『全上古三代秦漢三国六朝文』746巻の一部で、後漢時代の佚文を網羅的に集めた書物。そこには鄭衆の書物の佚文も集めてあるので、どうやら楊樹達はこれをそのまま拝借したようです。その際に誤字まで引き継いでしまったのでしょう。

一例を挙げると、第一章「婚姻」第二節「婚儀」に引く『婚礼謁文賛』に、『太平御覧』巻八百三十からとして、次の資料を載せます。

長命之縷,女工所為。

これは、『全後漢文』も同文ですが、現在、『太平御覧』を読む際によく利用されている四部叢刊三編本では、以下の通りとなっています(句読は私に加えたもの。以下同じ)。

長命之縷,女工所制。縫君子裳,高松為例。

「制」「例」と韻を踏み、こちらこそが完全な文であるはずで、『全後漢文』の引用は文が崩れていることが分かります。

張刻『太平御覧』
張刻『太平御覧』

ちなみに、清朝の『太平御覧』の版本はいくつかありますが、たとえば嘉慶十四年(1809)の張海鵬従善堂刊本では、以下のように作っています。

長命之縷,女工□□□□所為例。

つまり、「所」の上の四文字が闕字になっているのです。おそらく厳可均が見た本にも似たように闕字があったのでしょう。もしかすると、厳可均は張海鵬刊本そのものを見たのかもしれません。そして、苦し紛れに「女工所為」の形に仕立てた、と想像できます。

もし楊樹達が『太平御覧』を直接に見たのであれば、この闕字についての言及があってしかるべきでしょう。直接に見ていないからこそ、このような誤りが出たのです。また『婚礼謁文賛』「九子之墨」の出所を『太平御覧』巻六百二(正しくは六百五)と誤るのも、『全後漢文』の誤りの踏襲です。

楊樹達が厳可均の誤りを引き写してしまったという推測は、まず間違いありません。この種の誤りが多いところが『漢代婚喪礼俗考』の信頼性を傷つけてしまっており、これは残念なことです。『漢代婚喪礼俗考』の版を新しく作る際には、こういった誤りを是非とも修正すべきでしょう。

『文中子』に見える劉炫像


王通(584-617)は隋の時代に生きた儒者で、有名な詩人、王勃(650-676)の祖父に当たる人物。その著書、『続六経』は残念ながら亡びましたが、彼の言行録である『文中子中説』(『文中子』『中説』)十巻は、今も伝えられています。四部叢刊本・続古逸叢書本など。

『中説』は、『論語』に似せた構成をとっており、同書の中で王通は「子」「文中子」などと称せられ、弟子たちと問答を展開しています。その内容には明らかな虚偽が含まれており、すべてを実録とみなすことはできません。

しかし、とにもかくにも唐代の初めには、王通の子(王福郊・王福畤の兄弟)の手によって定稿が作られており、『四庫全書総目提要』巻九十一(子部一、儒家類一)に「いわゆる『中説』は、その子の福郊・福畤らが王通の遺した言葉を編纂したものであり、事実でないことを大げさに言ってはいるが、それでも確かにその書物は存在した(所謂『中說』者,其子福郊、福畤等纂述遺言,虛相夸飾,亦實有其書)」というのが正解に近そうです。

この書物には、隋代の名人がしばしば登場していますが、その中に大儒、劉炫(549-617)と「子」(すなわち王通)との問答が、二度見えています。一条は、六経をめぐって。

劉炫見子,談六經。唱其端,終日不竭。子曰:「何其多也」。炫曰:「先儒異同,不可不述也」。子曰:「一以貫之可矣。爾以尼父為多學而識之耶?」炫退,子謂門人曰:「榮華其言,小成其道,難矣哉!」(『中説』巻四,周公篇)

劉炫が子を訪ねてきて、六経を語った。その糸口を語りだして、終日話し続けた。子はおっしゃった、「なんと多弁なことよ」。劉炫はいった、「先儒たちの説の異同については、述べぬわけにはゆかない」。子はおっしゃった、「『一以て之を貫く』(『論語』里仁篇の語)、ということでよいのだ。お主は仲尼がたくさん学んでそれを理解したとでも思うのか?」劉炫が退くと、子は門人に言った、「言葉を華やかにして、小さく自分の道を作り上げるようでは、(大成は)難しいな」。

もう一条は、『易』をめぐって。

劉炫問『易』。子曰:「聖人於『易』,沒身而已,況吾儕乎?」炫曰:「吾談之於朝,無我敵者」。子不答。退謂門人曰:「默而成之,不言而信,存乎德行」。(『中説』巻五,問易篇)

劉炫が『易』について質問した。子はおっしゃった、「聖人の『易』に対する態度は、それに没頭するだけであった。ましてや我々はなおさらだ(実践に没頭するのみ。論じている暇などない)」。劉炫はいった、「私が朝廷で(経書を)語れば、私に匹敵する者などないのだが」。子は答えなかった。(劉炫が)退くと、(子は)門人に言った、「黙って道を完成させ、言わずして信を成し、徳行に示す、だ(それだけだ。語る必要はない。『易』繋辞伝上の語)」。 

王通の生年は、杜淹(?-628)の「文中子世家」(『中説』に附せられた一文)によって、開皇四年(584)とされています。これが正しいとすると、王通は劉炫より、三十五歳も年少であったことになります。

三十五歳も年下の若者と、すでに名声を築きあげていた大儒。二人の間に、このような会話が本当にあったのでしょうか?かなり疑わしいと言わざるをえませんが、しばらく疑問として遺しておきます。

しかし少なくとも、滔々と経を説き続け、ロゴスの力によって聖人の道を明らかにしようとする、劉炫の姿をここにうかがうことができます(「文中子」は、劉炫の弁舌を無意味化する作戦をとっているのですが)。

全面的には信じられないとしても、隋から初唐にかけての一時期、劉炫がどのように見られていたのかを示す一資料には違いありません。