『文中子』に見える劉炫像


王通(584-617)は隋の時代に生きた儒者で、有名な詩人、王勃(650-676)の祖父に当たる人物。その著書、『続六経』は残念ながら亡びましたが、彼の言行録である『文中子中説』(『文中子』『中説』)十巻は、今も伝えられています。四部叢刊本・続古逸叢書本など。

『中説』は、『論語』に似せた構成をとっており、同書の中で王通は「子」「文中子」などと称せられ、弟子たちと問答を展開しています。その内容には明らかな虚偽が含まれており、すべてを実録とみなすことはできません。

しかし、とにもかくにも唐代の初めには、王通の子(王福郊・王福畤の兄弟)の手によって定稿が作られており、『四庫全書総目提要』巻九十一(子部一、儒家類一)に「いわゆる『中説』は、その子の福郊・福畤らが王通の遺した言葉を編纂したものであり、事実でないことを大げさに言ってはいるが、それでも確かにその書物は存在した(所謂『中說』者,其子福郊、福畤等纂述遺言,虛相夸飾,亦實有其書)」というのが正解に近そうです。

この書物には、隋代の名人がしばしば登場していますが、その中に大儒、劉炫(549-617)と「子」(すなわち王通)との問答が、二度見えています。一条は、六経をめぐって。

劉炫見子,談六經。唱其端,終日不竭。子曰:「何其多也」。炫曰:「先儒異同,不可不述也」。子曰:「一以貫之可矣。爾以尼父為多學而識之耶?」炫退,子謂門人曰:「榮華其言,小成其道,難矣哉!」(『中説』巻四,周公篇)

劉炫が子を訪ねてきて、六経を語った。その糸口を語りだして、終日話し続けた。子はおっしゃった、「なんと多弁なことよ」。劉炫はいった、「先儒たちの説の異同については、述べぬわけにはゆかない」。子はおっしゃった、「『一以て之を貫く』(『論語』里仁篇の語)、ということでよいのだ。お主は仲尼がたくさん学んでそれを理解したとでも思うのか?」劉炫が退くと、子は門人に言った、「言葉を華やかにして、小さく自分の道を作り上げるようでは、(大成は)難しいな」。

もう一条は、『易』をめぐって。

劉炫問『易』。子曰:「聖人於『易』,沒身而已,況吾儕乎?」炫曰:「吾談之於朝,無我敵者」。子不答。退謂門人曰:「默而成之,不言而信,存乎德行」。(『中説』巻五,問易篇)

劉炫が『易』について質問した。子はおっしゃった、「聖人の『易』に対する態度は、それに没頭するだけであった。ましてや我々はなおさらだ(実践に没頭するのみ。論じている暇などない)」。劉炫はいった、「私が朝廷で(経書を)語れば、私に匹敵する者などないのだが」。子は答えなかった。(劉炫が)退くと、(子は)門人に言った、「黙って道を完成させ、言わずして信を成し、徳行に示す、だ(それだけだ。語る必要はない。『易』繋辞伝上の語)」。 

王通の生年は、杜淹(?-628)の「文中子世家」(『中説』に附せられた一文)によって、開皇四年(584)とされています。これが正しいとすると、王通は劉炫より、三十五歳も年少であったことになります。

三十五歳も年下の若者と、すでに名声を築きあげていた大儒。二人の間に、このような会話が本当にあったのでしょうか?かなり疑わしいと言わざるをえませんが、しばらく疑問として遺しておきます。

しかし少なくとも、滔々と経を説き続け、ロゴスの力によって聖人の道を明らかにしようとする、劉炫の姿をここにうかがうことができます(「文中子」は、劉炫の弁舌を無意味化する作戦をとっているのですが)。

全面的には信じられないとしても、隋から初唐にかけての一時期、劉炫がどのように見られていたのかを示す一資料には違いありません。

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