信と不信の間


『毛詩』大雅「生民」の詩に「履帝武敏歆」という句があります。あえて訳出しませんが、姜嫄が、その子の后稷を懐妊する経緯を描写したらしい部分です。これを毛伝は次のように解釈します。

履,踐也。帝,高辛氏之帝也。武,迹。敏,疾也。從於帝而見于天,將事齊敏也。歆,饗。

履とは、踏む。帝とは、高辛氏の帝(すなわち帝嚳)。武とは、あしあと。敏とは、すばやい。(姜嫄は)帝に従って天をまつり、祭事をおこなって敬虔かつ迅速であった。歆とは、(神に)供物をささげる。

毛伝の解釈によると、帝嚳・姜嫄の夫婦は、子を得られるように神に祈るべく、天にまします上帝をまつったが、その時、姜嫄は帝嚳のあしあとを踏んで付き従い、その祭事では敬虔かつ迅速に供物をささげた。そのような意味になります。

一方、鄭箋は次のように言います。

帝,上帝也。敏,拇也。……祀郊禖之時,時則有大神之迹,姜嫄履之,足不能滿履其拇指之處,心體歆歆然。

帝とは、(天の神である)上帝。敏とは、親指。……郊禖のまつりをした時、その時に大いなる神のあしあとがあり、姜嫄がそれを踏むと、(彼女の)足はその(巨大な)あしあとの親指のところにも満たなかったが、心も体も嬉しくなったのだ。

鄭玄によれば、帝嚳の子孫の妻であった姜嫄は、郊禖とよばれるしつらえで上帝をまつったが、その時に巨大なあしあとがあり、それを姜嫄が踏んで、妊娠した、ということになります。

『詩経』を解釈する際、毛伝と鄭箋とが異なる場合が多いのですが、「帝武」についても大きな違いを示しています。

これについては、鄭玄の学園でも話題になったらしく、『毛詩正義』に引用される『鄭志』によると、鄭玄の弟子、趙商が鄭玄に直接質問しています。

まず、趙商の質問。

此箋云:「帝,上帝」;又云:「當堯之時,姜嫄為高辛氏世妃」,意以為非帝嚳之妃。『史記』嚳以姜嫄為妃,是生后稷,明文皎然。又毛亦云:「高辛氏帝」。苟信先籍,未覺其偏隱。是以敢問易毛之義。

この部分の「箋」に「帝とは、上帝」とあり、また(同じ「生民」の箋に)「堯の時代、姜嫄は高辛氏の子孫の妃であった」ともあり、姜嫄は帝嚳の妃ではない、とお考えのようです。(しかし)『史記』(五帝本紀)には帝嚳は姜嫄を妃とし、彼女が后稷を産んだ、とありますし、明らかな記述ではっきりとしています。それに毛伝も「高辛氏の帝」としているわけです。伝来の典籍を信じるならば、偏りがあって未詳になっているとも感じられません。そこで、毛伝(の解釈)を変えられたわけをあえてお尋ねします。

それに対する鄭玄の答え。

天下之事,以前驗後,其不合者,何可悉信?是故悉信亦非,不信亦非。稷稚於堯,堯見為天子,高辛與堯並在天子位乎?是箋易傳之意也。

天下の事柄については、前の時代のことを後の時代のことで確かめるものだが、合致しないものについては、どうしてすべて信じられようか。それゆえ、すべて信じるのも誤りだし、信じないのも誤りだ。后稷は堯より若く、堯が現に天子であるからには、(后稷の父であるとされる)高辛(すなわち帝嚳)が堯と一緒に天子の位にあったというのか。これが、箋で毛伝(の解釈)を変更した意図だ。

鄭玄は、緯書のあやしげな記述に依拠しており、その点がしばしば批判されます。しかし、「すべて信じるのも誤りだし、信じないのも誤りだ」という鄭玄のこの言葉をみると、むしろ、古書の記載を妄信していたというよりは、「信」と「不信」の間にあった、と言えそうです。

残念ながら、鄭玄を信奉する人々は、鄭玄の「不信」の部分を重く見ず、鄭玄の出した結論自体を信じるようになりました。鄭玄の言葉、「悉信亦非,不信亦非」、これを味わってみたいものです。

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