虎賁中郎(職官とは無関係です)


『尚書注疏』の善本と言えば、足利学校に蔵する宋版が挙げられますが、江戸時代にこれを覆刻した本があります。「足利本は松崎慊堂(1771-1844)の校審により弘化四年(1847)熊本藩時習館に於て覆刻され流布し」た(「日本国見在宋元版本志経部」(『阿部隆一遺稿集』第一巻、汲古書院、1993年)、という本です。

京都大学人文科学研究所が所蔵するこの弘化年間の覆刻本には、吉川幸次郎(1904-1980)の跋が加えられており、その全文をこのブログでもかつて紹介しました

kohon吉川氏の跋文の中に「足利闕頁、此皆不闕、則虎賁中郎、誠足貴矣」の一文があります。「虎賁(コホン)中郎」とは、武官の官名ですが、ここで何を言うのか、当時、判然としませんでしたので、触れずに置きました。ところが、最近、藤田吉秋氏よりコメントを頂戴し、再考する機会を得ました。

私は初見の時から、「虎賁中郎」の後に「誠足貴矣」と続くのが不思議でした。「貴」という動詞の対象が、「虎賁中郎」であると読めるからです。そうであるとすると、「虎賁中郎」は、誰か人を指すのではなく、この本(宋本を写した古梓堂文庫本)のありかたを言うことになります。

そこで、少し調べてみると、『世説新語』言語篇に「(桓玄)問左右:「虎賁中郎省,應在何處?」有人答曰:「無省」」とありました。虎賁中郎省はどこに置くべきか、という桓玄の質問に、「(建物としての)省はありません」とある人が答えた、という話です。そこで私は、この逸話を題材にして、「省略(=「省」)のない本のことを虎賁中郎と言ったのではないか」、と仮説を立てました。

古梓堂文庫本『尚書注疏』の場合、省略というよりは闕葉がないというわけですし、「無省」から連想して吉川氏が「虎賁中郎」と言った、というのは、やや飛躍も感じます。

そこで、もう少し調べてみました。本に省略や闕がないことを称して、「虎賁中郎」と表現する例はないものか、と。すると、葉德輝(1864-1927)『書林清話』に、この表現二個所を見つけました。

按『天祿琳琅目』載宋版書甚多,而御題又云「若此者亦不多得」。嘉慶二年,武英殿災,目載之書,同歸一燼,神物久歸天上,留此題跋,可見宋本書之精妙,古今人之愛護,心理相同。『文選』今尚有明袁褧仿宋裴氏本,國朝胡克家仿宋尤丞相本,可作虎賁中郎。『漢書』則形影無存,尤令人追思無已矣。(『書林清話』卷六「宋刻書箸名之寶」)

國朝官刻、家刻書,同有一缺事。如十三經注疏、史、漢、三國、皆有北宋、南宋及元刻本傳世。内則登之天祿琳琅,外則散見各藏書家書目。既已無本不善,隨刻一種,皆可為虎賁中郎。(『書林清話』卷九「國朝不仿宋刻經史之缺典」)

葉德輝は、本の闕損がない、という意味で「虎賁中郎」を用いたわけです。『世説新語』の故事を用いた、一種の衒学的な諧謔といえましょうか。吉川氏の跋文は、これを踏まえたものだと考えます。

藤田氏のご指摘があって、はじめて調べる気になりました。ご縁に深く感謝いたします。

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「虎賁中郎(職官とは無関係です)」への2件のフィードバック

  1. 吉川氏は『漢文の話』の中でも、「虎賁中郎」に触れていますね。『日本外史』に触れた箇所で、『後漢書』蔡邕伝に基づき、「ある典型がなくなったのちの代替品」との由。

  2. ただおみさま

    コメント下さいまして、まことにありがとうございます。長い間、ブログを放置しており、お礼が遅れましたこと、心よりお詫び申し上げます。

    ご指摘の通り、吉川幸次郎『漢文の話』(『吉川幸次郎全集』第2巻、p.164)に、「虎賁中郎」への明確な言及がありました。すなわち清末の学者、譚献が『日本外史』を評して「雖虎賁中郎,似在前明王元美一流之上」と言ったの対して、吉川氏は次のようなコメントを加えています。
     

    「虎賁中郎」は『後漢書』の蔡邕伝にもとづく故事であって、ある典型がなくなった後の代替品。古代の文章のまがいものではあるけれども、「王元美」すなわち明の文学の大家である王世貞などのそれらよりは、この頼襄のほうがすぐれている、というのである。

    これによると、吉川氏は、私の考えとは違い、「ある典型がなくなった後の代替品」の意味で、用いていることがはっきりしました。吉川氏の意図を汲み得ていなかったことを認めます。

    典故についても、吉川氏は『後漢書』蔡邕伝、と明示していらっしゃいます。ただ少し蔡邕伝を見てみたのですが、それらしいものが見当たらず、その代わりに『後漢書』孔融伝には、孔融が蔡邕と親しかったことを記し、蔡邕の死後のこととして次の逸話を伝えます。

    與蔡邕素善,邕卒後,有虎賁士貌類於邕,融每酒酣,引與同坐,曰:「雖無老成人,且有典刑。」

    吉川氏はこれを「虎賁中郎」の典故としたものでしょうか。

    ご教示に感謝いたし、あらためてお返事の遅れをお詫び申し上げます。

    学退覆

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