さてこそ


前漢の劉安が人を集めて編纂させた『淮南子』(紀元前139年に成書)には、幾つかの邦訳がありますが、その中に、恩師、戸川芳郎先生が、木山英雄氏・沢谷昭次氏とともに訳されたものがあり、平凡社の「中国古典文学大系」に収められています(『淮南子・説苑(抄)』、平凡社、1974)。

この翻訳、文章が個性的で、読む楽しみがあります。虚詞の訳出に工夫があり、たとえば、「是故」を「さてこそ」と訳しています。

泰古二皇,得道之柄,立於中央。神與化遊,以撫四方。是故能天運地滯,轉輪而無廢,水流而不止,與萬物終始。(『淮南子』原道訓)

太古の二皇(伏羲・神農)は、道の急所を把(と)って中央に君臨し、精神を造化とともに游ばせつつ四方を安んじた。さてこそ、あたかも天と運(めぐ)り地と静まり、休みなく流転しつつ万物と消長をともにした。

この「さてこそ」という訳語、前文を受けて、強い語気でもって後文を導く接続の言葉であり、「このゆえに」や「だから」のように、純粋な論理関係を示すものではありません。

日本語の表現としては、古語としてはともかく、現代語であまり見かける表現ではありませんが、古漢語「是故」の一面をうまく伝える訳語だと思い、学生時代、膝を打ったものです。

最近、気晴らしに円城塔氏の小説『道化師の蝶』(講談社文庫、2015。単行本は、講談社、2012)を読んでいると、思いもかけず、その「さてこそ」に出会ったのです。

 「さてこそ以上、さてこそ。まさしくそう思ったとおりに。果たしてやはり。まさしくそう思ったとおりに以上。果たしてやはり以上。さてこそ、の響きがなければ、私はこう書いたりはしなかった。さてこそは何故ここにある。何故こんな機能をもった響きがある。そんな要素が何故許されて、わたしの邪魔をし思考を繋ぎ留め、考えてもいないことを書かせるのか」

これは、本書に登場する友幸友幸という人物の「日記帳の文章からの抜粋」として引用された一節。この部分以外にも、「さてこそ」が繰り返し文中に現れていたので、私は驚きました。それこそ、「さてこそは何故ここにある」と、こちらが言いたいくらいです。「さてこそ」と、こうして再会を果たしたのでした。

友幸友幸のテクストを発見して整理研究し、翻訳する話が、この『道化師の蝶』に見えるのですが、これは私のような文献学の徒には馴染みのある内容です。たとえば次の一節。

これから先も研究が進展するたびごとに新たな発見が行われ、また忘れ去られていくのだろう。友幸友幸の作品群とは、発見されることにより駆動を続ける性質を備えた巨大な装置なのではと考えたくなる。

まるで、中国出土文献の研究状況についての記述かと疑うほどです。

随所にさまざまな洞察も盛り込まれており、久しぶりに楽しい小説を読んだものだと満足しました。

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