『捜神記』か『霊鬼志』か


先駆的な蠱の研究として、オランダのシノロジスト、デ・ホロート(1854-1921)のものがあります。

Jan Jakob Maria de Groot,

The Religious System of China: its ancient forms, evolution, history and present aspect, manners, customs and social institutions connected therewith,

Volume V, Book II, Part III, Chapter II, “Sorcery by Means of Small Reptiles and Insects”, pp. 826-869,

Leiden, E. J. Brill, 1907

同書には、経書や『漢書』の巫蠱関連資料など、いくつかの重要な史料が英訳の上、紹介されていますが、その一つに『捜神記』の「滎陽郡有一家」からはじまる一条があります。いま、汪紹楹校注『搜神記』巻十二(中華書局、1979年)から、それを引きます。

滎陽郡有一家,姓廖,其家累世為蠱,以此致富。後取新婦,不以此語之。遇家人咸出,唯此婦守舍。忽見屋中大缸,婦試發之,見有大蛇,婦乃作湯,灌殺之。及家人歸,婦具白其事,舉家驚惋。未幾,其家疾病,死亡略盡。(汪紹楹校注『搜神記』p. 158)

デ・ホロートはこれに次のような訳を与えています。

In the Yung-yang principality (in the present province of Honan) there lived a family of the Liao tribe, breeding of ku. Afterwards one of its members married a bride, whom they did not tell about those practices. Once when they had all gone out, leaving her alone to take care of the house, her eyes fell upon a large vase in one of the rooms. She raised the cover, and seeing a big snake in the vase, boiled some water, which she poured into it to kill the beast. On the return of the family she told them what she had done, thereby throwing them into fright and sorrow. Not long after this they all died to a man of contagious disease. (p. 846)

この史料の内容がなかなか興味深いため、後の研究でも、『捜神記』の蠱に関する一節として必ず参照されるものです。

ところで近年、『捜神記』の新たな校本が出版されました。

『新輯搜神記 新輯搜神後記』

干寶撰『搜神記』、李劍國輯校/陶潛撰搜神、李劍國輯校

中華書局、2007年、古體小説叢刊

李氏の新輯本は、津逮秘書本などの二十巻本『捜神記』を編輯し直し、三十巻に再編成してあります。李氏は、二十巻本は干宝の著作そのものでなく、後世の編輯物と見るらしく、二十巻本の内容の少なくない部分が削除されています(『新輯搜神記 新輯搜神後記』下冊、pp. 723-764が、新本と旧本の対照表になっています。さらに削除したものも集めて考証してあります)。

先に挙げた「滎陽郡有一家」からはじまる一条も、削除されたものの一つです。『太平御覧』巻七百四十二、疾病部五、「蠱」にこの一条を引くのですが、『捜神記』としてではなく、『霊鬼志』として引用されていることがその主たる根拠です(『新輯搜神記 新輯搜神後記』下冊、p. 669)。

『霊鬼志』なる書物は、現存しませんが、『隋書』経籍志(史部、雜伝類)には見えています。

  • 『搜神記』三十卷〔干寶撰〕
  • 『搜神後記』十卷〔陶潛撰〕
  • 『靈鬼志』三卷〔荀氏撰〕
  • 『志怪』二卷〔祖台之撰〕

『隋書』経籍志は、おおむね成書年代順に並べてあると考えられ、荀氏『霊鬼志』は、陶潜と祖台之(いずれも東晋末頃の人)の間に置かれているので、東晋の終わり頃の著作と考えてよさそうです(ややこしいことに、唐代の常沂という人が書いた同名の書物がありますが、『太平御覧』に引く『霊鬼志』は、『太平御覧経史図書綱目』に載せる「荀氏靈鬼志」の方であると考えます)。

余嘉錫は『捜神記』について、「此書似出後人綴緝,但十之八九,出於干寶原書」(『四庫提要弁証』第三冊、巻十八、子部九、中華書局、1980年、p. 1142)と言っています。「出後人綴緝」という点を重視すれば、李氏の判断は正しいと言えましょう。

この一条、干宝『捜神記』にもともと存在したものか、それとも『霊鬼志』にあったのが後に輯本『捜神記』に取り込まれたものか。現段階で確たる答えがあるわけではないのですが、私はどちらかというと、『霊鬼志』とする説に傾いています。

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蠱毒


小學堂甲骨「蠱」

最近、『隋書』地理志に見える蠱というものに関心をもって調べています。

甲骨文にすでにこの字があり、『周易』にも蠱卦があり、『左伝』や『周礼』にも見える古いものですが、古代におけるその実態はあまりよく分かりません。南北朝以後になると詳細が伝えられており、また民間習俗としては現代にも一部のこっているそうです。

その伝承はかなり複雑かつ多様ですが、『隋書』地理志に見える基本的なかたちは以下のようなものです。毒虫を培養し、それを他人の飲食に忍び込ませてその人の健康をむしばんで殺す。すると、毒虫が被害者の財産を加害者側へともたらす、と、そのように信じられた邪悪な術です。

東晋の干寶『捜神記』(巻十二)に、その蠱に関する次の逸話が見えています。

余外婦姊夫蔣士,有傭客,得疾下血。醫以中蠱,乃密以蘘荷根布席下,不使知。乃狂言曰:「食我蠱者,乃張小小也。」乃呼小,小亡云〔當作去〕。今世攻蠱,多用蘘荷根,往往驗。蘘荷或謂嘉草。(『搜神記』中華書局、汪紹楹校注、1979年、p.157)

川野明正氏「蠱毒伝承論ー憑きもの的存在の言説にみる民俗的観念」(『人文学報』(東京都立大学人文学部)331号、2002年)では、この話を次のように訳しています。

私の妻の姉の夫である蔣士に雇われた者があり、病気となって下血した。医者はこれを蠱に中ったと見立てた。そこでひそかにミョウガの根を敷物の下に敷き、それと悟られないようにした。すると、病人は狂ったように口走った。「私を喰って蠱病にしたのは、張小小だ。そこで張小小を呼ぶと、張小小は死んだという。今の世では蠱を退治するのに、多くはミョウガの根を用い、しばしば効き目がある。ミョウガはまた、嘉草(よき草)とも呼ばれる。

川野氏はさらに次のようにコメントしています。

この一段は難解である。竹田晃氏の訳[竹田 1964 : 246]では「俺の虫を食ったのは張小小だぞ」とあるが、筆者は蠱は虫を指すのではなく、蠱に中毒して病気になったと解釈し、上記の訳とした。

ミョウガをこっそりと被害者の敷物の下に置くと、被害者がどういうわけか、加害者の名を叫び、その加害者を呼び出したところ、正体が露呈した、という話です(汪氏の校注に従って「小亡去」と読めば、「小は逃げ出した」ということになります)。

「食我蠱者,乃張小小也」という発話は、「私に蠱を食わせたのは、張小小だ」、ということではないかと、私は考えます。「食」はこの場合、去声で読み(『集韻』祥吏切)、「くらわす」と訓ずる用法でしょう。その「食」が二重目的語(雙賓語)をとっているのではないかと思います。

蠱は飲食に忍び込ませて相手を害するものですから、くらわすと言って違和感ありません。

なお、川野氏の論文、蠱について多く調べてあり、大いに参考になりました。