「上」とは誰なのか?


『漢書』藝文志の「詩賦略」に、『上所自造賦』二篇と称する書物を載せますが、同書について唐の顔師古は「武帝所作」と言っています。「上」とは君主をいう語ですが、ここでは漢の武帝を指しており、同書は武帝が作った賦である、というわけです。

この「上」について、章学誠『校讐通義』漢志詩賦(十五之五)は、おおむね、次のようなことを言います。

『漢書』藝文志のもとになる目録を作った劉向(前77-6)は、成帝(在位、前33-7)の頃の人であって、武帝時代(在位、前141-87)の人ではない。『上所自造賦』は武帝の著作なのだから「孝武皇帝」と諡で記せば後世の人にも分かりやすい。ここで劉向が「上所自造」などというのは、いかにもまぎらわしい。そもそも臣下たちが自分の時代の君主を「上」と呼ぶのだ。それ以外にも、記事などを書いて、「某宗」「某帝」などと記したうえで、それに続く文に「上」と書くのはかまわぬが。この「上所自造」について言えば、武帝当時の人が「上」と書いたのを、劉向がそのまま従って採用したものではないか。そういうわけで読者には、「劉向の時代の「上」なのだから、成帝が作った賦なのだろうか」と疑いが生じる。班固が劉向の記述にそのまま従ったものだから、「班固の時代の「上」なのだから、後漢の肅宗の賦なのだろうか」という疑いも生じかねない。顔師古が言ってくれたおかげで、武帝の作だと分かりはするが、と。

章学誠の説は面白く、しかも正しいと思うのですが、ただ、「漢代の人は、本当に今上皇帝だけを「上」と読んだのだろうか?」という疑問が生じました。自分の時代以前の皇帝を「上」と呼ぶことはなかったのか、と。

すぐに思い出すのは許慎『説文解字』です。一篇上「示」部の「祜」を説いて「上諱」と言っています。この字は後漢の第六代皇帝である安帝恭宗の名なので、避諱してあるのです。段玉裁によれば、『説文解字』で「上諱」と記される字はあわせて五字、すなわち「祜」のほかには、「秀」(第一代皇帝、世祖光武帝の名)、「莊」(第二代皇帝、明帝顕宗の名)、「」(第三代皇帝、章帝肅宗の名)、「肈」(第四代皇帝、和帝穆宗の名)です。

『説文解字』が成書したのは、和帝時代の永元十二年(100)とのこと。「上」と言えば和帝を指しそうなものですが、それだけでなく第一代の光武帝の名から第六代の安帝の名まで、すべて「上諱」と記されているのです(第五代の殤帝の名である「隆」は避けません。安帝の名を避けるのは、その頃に献上されたため)。

なぜ「上」という言葉が、今上皇帝以外にも用いられたのか。これに関してはいろいろと説を立てることができましょう。が、少なくとも後漢時代に「上諱」と言えば、必ずしも今上皇帝の名を指すものでなかったこと、これは動かぬ事実です。

話を『漢書』藝文志の『上所自造賦』二篇にもどしますと、この書に「上」の字が用いられているのは、武帝の時代の人が記録した書名をそのまま劉向が用い、それを班固が踏襲したものであろうこと、これは章学誠のいう通りであると思います。

【原文】『校讐通義』漢志詩賦、十五之五

《上所自造賦》二篇,顏師古注「武帝所作」。按劉向為成帝時人,其去孝武之世遠矣。武帝著作,當稱孝武皇帝,乃使後人得以考定。今曰「上所自造」,何其標目之不明與?臣工稱當代之君,則曰上也。否則摛文紀事,上文已署某宗某帝,承上文而言之,亦可稱為上也。竊意「上所自造」四字,必武帝時人標目,劉向從而著之,不與審定稱謂,則談《七略》者,疑為成帝賦矣。班氏錄以入志,則上又從班固所稱,若無師古之注,則讀志者,又疑後漢肅宗所作賦矣。

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「「上」とは誰なのか?」への9件のフィードバック

  1. 古勝 隆一先生
                       2015年10月29日
    ◎「『上所自造賦』二篇と称する書物」。
    陳國慶編『漢書藝文志注釋彙編』(二十四史研究資料叢刊・中華書局・1983年刊)には、「按:本書外戚傳載有『傷李夫人賦』一篇、文選載有『秋風辭』一篇、溝洫志載有『瓠子之歌』二章」と記されています。これに拠ると『上所自造賦』三篇となります。「二篇」とすると、いずれを指すのでしょうか?
    ◎「竊意上所自造四字,必武帝時人標目,劉向從而著之」。
    この「武帝時人」は、司馬談・司馬遷父子とするのは無理でしょうか?
    藤田吉秋

  2. 藤田様、

    コメントお寄せくださいまして、まことにありがとうございます。

    漢志の詩賦略「歌詩」を見ますと、『出行巡及游歌詩』十篇があり、王先謙の指摘によると、「瓠子之歌」はこちらに含まれると考えられそうです(陳國慶編『漢書藝文志注釋彙編』p.179)。

    「武帝時人」は、章学誠のつもりとしては、おそらく人を限定せず、ということかと思いました。もし『史記』に関連史料がある場合ですと、司馬遷にひきつけて読みたいところです。

    今後ともよろしくお願いします。

    学退覆

    1. 私も同意見です。『漢志』詩賦略で「辞」と「賦」の区別は難しいですが、「辞賦」と「歌」は区別されるべきです。

      なお、「上」は単に天子を指す場合の称謂で、在位帝を「今上」、天子の父母を「太上」と呼んで区別します。それと、おそらくお二方なら調べるまでもなくご存知かと思いますが、『漢志』には「上所自造賦二篇」以外にも武帝を「上」と呼んでいる場所があります。

      「聖上喟然而稱曰、『朕甚閔之』。」(『漢志』大序)

      「上」の用法、興味深いですね。

  3. 古勝 隆一先生
                       2015年10月30日
    ◎「『瓠子之歌』はこちらに含まれる」・「司馬遷にひきつけて」。
    詩賦略「歌詩」の冒頭に『高祖歌詩』二篇があり、高祖の「大風歌」はこれに含まれるようですから、同じ作風の武帝「秋風辭」の方が詩賦略「歌詩」の『出行巡守及游歌詩』十篇に含まれ、「傷李夫人賦」と「瓠子之歌」とが『上所自造賦』二篇かと考えました。
    また、武帝に親近し秘府の書物を自在に見ることの出来た司馬談・司馬遷父子が『上所自造賦』二篇との標目を付けたのではないか、と考えてみました。「傷李夫人賦」と「瓠子之歌」とはそれぞれ『史記』外戚世家と河渠書とに有りますが、「秋風辭」は確か『史記』にも『漢書』にも無かったと思います。
    藤田吉秋

  4. 古勝 隆一先生・ゆう様
                       2015年10月31日
    ◎「『辞賦』と『歌』は区別されるべき」。
    間違えました。「傷李夫人賦」は『史記』外戚世家に有りませんでした。
    『上所自造賦』二篇は、やはり「傷李夫人賦」一篇と「秋風辭」一篇とでしょうか。藤田吉秋

    1. 藤田さま

      出典はそれぞれ、

      「傷悼李夫人賦(辭)」→ 『漢書』外戚傳・孝武李夫人傳
      「秋風辭」→『文選』卷四十五・秋風辭 /『樂府詩集』雜歌謠辭二・秋風辭
      「瓠子之歌」→『漢書』溝洫志

      ですね。いずれも楚辭によく見られる「兮」字を多用しているのが印象的です。ただ、にわかに「二篇」が何であったか断言するには、決め手を欠くので、私の方からは上掲三作品以外にも作品があった可能性込みで存議とさせてください。

      古勝さま

      橫から割って入ってしまうような形になって申し訳ございませんでした。あらためて色々再考させられるエントリー、ありがとうございました。

  5. ゆう様、藤田様

    ご意見をお寄せ下さいまして、まことにありがとうございました。ほんの小さなことなのですが、書いておきたかったものです。おつきあい下さいまして、嬉しく存じました。

    学退覆

  6. 古勝 隆一先生
                       2015年11月9日
    ◎「第五代の殤帝の名である『隆』は避けません。安帝の名を避けるのは、その頃に献上されたため」。
    「隆」字に関して、段玉裁『説文解字注』第6篇下・「生」部・「隆」の上海古籍出版社本の断句は、「而書成於和帝永元十二年。以前未及諱」となっています。

    http://www.iguci.cn/imgbook/view.php?word=%E9%9A%86&bookid=53&book_name=%E8%AF%B4%E6%96%87%E8%A7%A3%E5%AD%97%E6%B3%A8

    また、第11篇上1・「水」部・「淇」は、「書成於和帝永元十二年已前也」としています。

    http://www.iguci.cn/imgbook/view.php?word=%E6%B7%87&bookid=53&book_name=%E8%AF%B4%E6%96%87%E8%A7%A3%E5%AD%97%E6%B3%A8

    「以前」=「已前」と見て、「書成於和帝永元十二年以前、未及諱」と切りたいところですが如何でしょう。点注会の成果がありましたらお聞かせ下さい。
    また、「孝宣更名」は、『資治通鑑』宣帝元康2年(前64)にも、

    又曰、「聞古天子之名、難知而易諱也。其更諱詢」。

    と引かれているのですが、それほど避諱に関しては寛容であろうとする考えが有ったのでしょうか。清朝などはずいぶん厳しかったと聞いていますが・・・。

    ◎『説文解字注』第6篇下・「生」部・「隆」
    隆者、漢殤帝之名。不云「上諱」而直書其字者、『五經異義』云、「漢幼小諸帝皆不廟祭。而祭於陵」。旣不廟祭、似可不諱。然『漢志』河內郡隆慮、應劭曰、「隆慮山在北。避殤帝名。改曰林慮也」。又『郡國志』、「林慮故隆慮。殤帝改」。漢制生而諱。故孝宣更名。此葢殤帝在位時所改。而書成於和帝永元十二年以前、未及諱。至安帝建光元年、許沖上書時不追改。故不云「上諱」。祜曰「上諱」者、今天子之名。又在開卷也。林與隆合韵。故『毛詩』「臨衝」、『韓詩』作「隆衝」。从生、降聲。力中切。九部。
    ◎『説文解字注』第11篇上1・「水」部・「淇」
    隆慮、漢諱殤帝、改曰林慮。此不改者、書成於和帝永元十二年已前也。『前志』、河內郡隆慮、『後志』作林慮。慮音閭。

    藤田吉秋

  7. 藤田様

    コメントくださいまして、まことにありがとうございます。この件につきましては、新たに記事を書こうと存じますので、しばらくお待ちください。よろしくご了承くださいませ。

    学退覆

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