「隆」を避けないこと


『説文解字』では、後漢時代の皇帝、五人について、その名を書中に載せず、「上諱」と記します。

  • 「秀」(第一代皇帝、世祖光武帝の名)
  • 「莊」(第二代皇帝、明帝顕宗の名)
  • 「炟」(第三代皇帝、章帝肅宗の名)
  • 「肈」(第四代皇帝、和帝穆宗の名)
  • 「祜」(第六代皇帝、安帝恭宗の名)

その一方で、第五代皇帝、殤帝の名である「隆」の字を避けていません。これについて、段玉裁は次のように言います。

隆者,漢殤帝之名。不云「上諱」,而直書其字者,『五經異義』云:「漢幼小諸帝,皆不廟祭而祭於陵」。旣不廟祭,似可不諱。然『漢志』河內郡隆慮,應劭曰:「隆慮山在北。避殤帝名,改曰林慮也」。又『郡國志』:「林慮,故隆慮。殤帝改」。漢制,生而諱,故孝宣更名。此葢殤帝在位時所改。而書成於和帝永元十二年以前,未及諱。至安帝建光元年,許沖上書時不追改,故不云「上諱」。(『説文解字注』第六篇下、「生」部「隆」。経韵楼本、第六下、第四葉左。鳳凰出版社本、p.483。「永元十二年以前」の句読を含め、藤田吉秋氏のご教示による)

つまり『五経異義』にあるように、漢代では夭逝した皇帝は宗廟にまつられない。だから崩御した後は、諱も避けられなかったようだ、と段玉裁は言います。殤帝も幼少で崩御したので、その例に当たるというわけです。その上で、隆慮という地名が殤帝の名を避けて林慮と改められたことを指摘しています。

わたくしは、段玉裁が示唆したように、後漢時代においては、宗廟の制度と皇帝の諱の避諱とは連動していたと考えています。つまり、今上皇帝と洛陽の宗廟にまつられた皇帝とについては避諱する必要があったが、それ以外の歴代の皇帝(廟祀されていない諸帝)については避諱しなかったと考えます(これについては、より詳しい考察が必要ですし、すでにどなたか考証していらっしゃるかも知れませんが、今はこれ以上、論じません)。

『続漢書』祭祀志下に宗廟の制度を載せ、次の文章があります。

殤帝生三百餘日而崩, 鄧太后攝政,以尚嬰孩,故不列于廟,就陵寢祭之而已。(中華書局本、p.3197)

殤帝についての避諱が『説文解字』においてなされていないことは、偶然でも伝写の誤りでもなく、許慎がそのように書いたとおりに伝わっている、と考えています。

これについては『説文解字』の執筆時期と完成時期とが何時であったのか、という問題も関連しますが、今のところ、考えがまとまらず、書くことができずにおります。

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“「隆」を避けないこと” への 6 件のフィードバック

  1. 古勝 隆一先生
                       2015年11月14日
    ◎「殤帝についての避諱が『説文解字』においてなされていないことは、偶然でも伝写の誤りでもなく、許慎がそのように書いたとおりに伝わっている」・「『説文解字』の執筆時期と完成時期とが何時であったのか」。

    段玉裁は「書成於和帝永元十二年以前」と言いながら、一方で「(永元十二年)許之譔『説文解字』先逵卒一年、用功伊始、葢恐失隊所聞也。自永元庚子(100年)至建光辛酉(121年)、凡歷二十二年、而其子沖獻之」と矛盾したことを言っています。段氏の『説文解字注』は「發軔於乾隆丙申(1776)、落成於嘉慶丁卯(1807)」ということですから、執筆開始から完成まで三十二年を要していますが、『説文解字』に二十二年は掛からないでしょう。

    和帝の崩御する前に、六年間ほどで『説文解字』が完成したと考え、「秀」・「莊」・「炟」・「肈」は、「上諱」とのみ説解し、それぞれ「禾部」・「艸部」・「火部」・「戈部」の上位に置き、「祜」字は当初、「祜、福也。从示、古聲」としたものの、許沖が『説文解字』を上書する時に、今上の諱である故、「祜、上諱」と追改して「示部」の上位に置いたもの。「隆」字は、「生三百餘日而崩」じてしまった短命の天子のこととて、「忘諸腦後」、許氏父子もすっかり忘れていた、というのが「『説文解字』成書年代攷」http://book.douban.com/review/1957578/の結論のようです。面白い考証であると思いますが、如何でしょう。

    ※和帝・永元12年(100年)
    「粤在永元、困頓之年、孟陬之月、朔日甲申」。『説文解字』後序
    『段注』。「『後漢書』、賈逵於和帝永元十三年卒、時年七十二。然則許之譔『説文解字』先逵卒一年、用功伊始、葢恐失隊所聞也。自永元庚子至建光辛酉、凡歷二十二年、而其子沖獻之」。
    ※和帝・元興元年(105年)
    「冬、十二月、辛未、帝崩于章德前殿」。「長子勝、有痼疾」。「少子隆、生始百餘日、迎立以爲皇太子、是夜、即皇帝位」。『資治通鑑』
    ※殤帝延平元年(106年)
    「八月、辛卯、帝崩」。『資治通鑑』
    ※安帝建光元年(121年)
    「建光元年九月己亥朔、二十日戊午上」。許沖・上『説文解字』表
    『段注』。「建光元年、安帝即位之十五年。歳在辛酉。自和帝永元十二年歳在庚子。至此凡廾二年」。

    藤田吉秋

  2. 藤田さま

    お考えをお示し下さいまして、ありがとうございます。「『説文解字』成書年代攷」という論文、仲扬「《说文解字》成书年代考」,《辞书研究》1990年6期、というもので、ウェブサイト「豆瓣读书」上の文章は、著者がみずから訂正を加えてアップしたもののようですが、わたくしも読んでみました。

    『説文解字』の成書については、 いわゆる後序の「粤在永元、困頓之年、孟陬之月、朔日甲申」(永元十二年正月朔日に相当)と、上表の「建光元年九月己亥朔二十日戊午上」という二つの時点によこたわる22年の時間差をどう考えるか、という一点に尽きます。

    段玉裁を含め、清朝の学者たちも、この問題に関する整合的な解釈を探ったのだと思いますが、結局、万人を納得させるだけの答えが出せていない、ということではないのでしょうか。

    段玉裁の説が、前後矛盾しているのではないかという疑いは、あり得る疑問だと思います。

    これについて、許慎は永元十二年に執筆開始し、その年内に一通り成書させ、その後、適宜修正しつつ、22年後に定稿を皇帝に献上した。段玉裁がこのように考えたと見なせば、一応、矛盾はないように思えます。

    あるいは、段玉裁の説が変わったために矛盾が生じた、という想定も可能だと思います。

    どう考えるにせよ、このことについて段注が言を尽くして説明していないきらいがあるので、彼の意図が正確にはわかりません。

    許慎が永元十二年に『説文解字』の執筆に着手し、殤帝即位より前に完成させたとする仲揚氏の想定は、「隆」字が『説文解字』で避けられないことを過度に意識した説で、定説とはなしがたいように思われます。

    そもそも、避諱の有無によって『説文解字』の執筆期間を考証するのは不可能であると、わたくしは考えております。

    少なくとも、建光元年九月に『説文解字』が献上された時点においては、殤帝の諱を避ける必要はすでになかったことを確認したいと考え、この記事を書いた次第です。

    学退覆

  3. 古勝 隆一先生
                       2015年11月14日
    ◎「定説とはなしがたい」・「避諱の有無によって『説文解字』の執筆期間を考証するのは不可能である」。
    丁寧にお答え下さり、感謝申し上げます。
    定説とはなしがたい、とは思いますが、仲揚氏の考証の仕方は面白いと思いました。
    藤田吉秋

  4. 藤田さま

    確かに、「二十二年間の時間をかけ」というような、あたかも見てきたかのよう言い方は、容易に定着してしまうものでしょうから、このような疑問を持つことは、非常に重要だと感じました。

    段玉裁の考え方について、よくわからなかったのは残念です。

    「永元十二年以(已)前」の句読など、いろいろとご教示下さいまして、ありがとうございます。

    学退覆

  5. 古勝 隆一先生
                       2015年11月20日
    ◎「上諱」。
    このことは銭大昕(1728-1804)と沈兼士(1887-1947)とが既に論じていました。ともに冷静な議論であると思います。陳垣(1880-1971)著『史諱擧例』第五十八「非避諱而以爲避諱例」。
    但し、沈氏の断句に拠るのでしょうか、段注の句切りが「書成於和帝永元十二年、以前未及諱」となっています。

    ◎『史諱擧例』第五十八「非避諱而以爲避諱例」
    『潛研堂文集』八。
    問。『士昏禮』、父蘸子辭云、「勖帥以敬」。『荀子』、書「勖」作「隆」。惠松崖謂、「當由避殤帝諱改爲『勖』。如『毛詩』、『隆衝』爲『臨衝』之類」。信有之乎。
    曰。禮家傳聞、文字不無異同。要當從其長者。「勖帥以敬」、於義爲長。且信諸子、不如信經。若云避諱更易、則無是理。『士冠禮』稱「棄爾幼志」、「志」爲桓帝諱。「受天之祜」、「祜」爲安帝諱。皆未改易。卽以『毛詩』徴之。「四月秀葽」、「秀」爲光武諱。「思皇多祜」、「祜」爲安帝諱。亦未改易也。「臨衝」、『韓詩』作「隆衝」。『韓詩』在漢時立於學官、何嘗避隆字。
    http://ctext.org/library.pl?if=gb&file=40128&page=68
    沈兼士曰、『五經異義』謂、「漢幼小諸帝皆不廟祭、而祭於陵。不廟祭、故可諱可不諱」。『説文』於殤帝之諱隆字、不注「上諱」、殆以此故。段玉裁注旣引『異義』以爲説。又云、「書成於和帝永元十二年、以前未及諱。至安帝建光元年許沖上書時、不追改、故不云上諱」。按永元十二年、爲許君草創『説文』之年、而非成書之年。段氏「説文敍注」與「隆字下注」、自相矛盾。且考兩漢諸帝避諱所改之字、皆爲同義互訓、而無一音近相轉者。『古今注』謂、「殤帝諱隆之字曰盛」。是也。『漢書』地理志、「隆慮」、應劭注、「避殤帝名改曰林慮」。疑非事實。蓋「隆慮」之作「林慮」、亦猶『毛詩』「隆衝」之作「臨衝」。皆是雙聲轉語、恐無關於避諱也。

    藤田吉秋

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