「馬宗璉行年考」


恩師、陳鴻森先生が最近書かれた「马宗琏行年考」(《复旦学报(社会科学版)》2015年第5期)をたまたま眼にする機会があり拝読しました。近年は主に清朝の学者の伝記的事項を追っていらっしゃいますが、この論文もそのひとつ。馬宗璉(1757-1802)の伝記を記述したものです。

馬宗璉は今となっては知る人もない学者となってしまったらしいのですが、著名な『毛詩傳箋通釋』を書いた馬瑞辰(1782-1853)の父。しかも桐城派の巨匠、姚鼐(1731-1815)の甥にあたる、とのこと。馬宗璉は当時かなり重んじられた学者で、『清史列傳』69、『清史稿』482にも伝が立っているものの、現代ではその名を知る人も少なくなり、生卒年すら自明でないこと、この論文から知られます。

陳先生は乾隆・嘉慶年間の学者を網羅的に調べていらっしゃり、台湾・大陸の学界において圧倒的な存在感を示しておられます。その研究の徹底ぶりは追随者の接近を決して許さない水準に達しているものと評し得ましょう。

その陳先生が馬宗璉に関心を示されたのは、ただ彼が馬瑞辰の父、姚鼐の甥のであるのみならず、馬宗璉の学術が当時において決して軽視できない重要な地位を占めていたからに他なりません。その主著、『春秋左傳補注』三巻(1794自序、『皇清經解』1277-1279にも収める)が伝わる他、阮元が編纂した『經籍籑詁』の構想に大きな役割を果たし(たまたま昨日も『經籍籑詁』に触れました)、しかも、太平天国の乱に巻き込まれて失われた幻の巨著『史籍考』の分担執筆も行っていたことが、陳先生のこの論文により詳細に明かされています。

生卒年の確定にはじまり、『經籍籑詁』や『史籍考』といかに関わったのかなど、馬氏の人生を丹念に追い、一文ごと読み進めるうちに、次々と謎が解き明かされており、思わず興奮してしまいました。

13ページの論文に125の注。逐一、資料に裏付けられた記述です。資料と一口に言っても相互の間に齟齬がつきものですが、そのような複雑な資料が透徹した視線のもと、すっきりと明瞭に位置づけられ、見晴のよい場所に連れられて、先生とともに下界を見渡すような感覚を得ました。

『漢文研究法』


狩野直喜(1868-1947)『漢文研究法』(みすず書房, 1979)は、漢籍の入門書として恰好のもので、わたくしの周りにも多くの愛読者がいます。

構成は以下の通り。

  • 漢文研究法
  • 經史子概要
  • 漢文釋例
  • 解說・索引

白眉は何といっても本書の書名にもなっている「漢文研究法」でしょう。大正三年(1914)8月1日から6日にかけて、「京都帝国大学第五回夏季講演会」において講演されたもので、「中等教育に従事し、漢文の授業を担当さるる方が少なくなかった」らしい、とのこと(本書、狩野直禎氏「解説」に拠ります)。

今から100年前の講演、というわけです。

この講演については、狩野直禎氏「解説」が最も簡にして要を得ています。

『漢文研究法』の大きな部分が目録書と類書の叙述にさかれていること、読者の直ちに気づかれる所であろう。それは汗牛充棟ただならぬ典籍をいかに有効に利用するか、そのためには目録書を見る事が必要であり、又その典籍に書かれた内容を正確に理解するには、中国の詩文作成の特徴をなす典拠を明にせねばならず、そのための手段として類書が要求されるからである。(本書、p.172)

たまに読み返してみるのですが、いつも説明の流暢さに感嘆してしまいます。こういう具合に講義ができれば、どんなによいことか。

浩瀚な典籍につき己の知らんとする事を求む、又其の典籍の価値を知るに尤も必要なるは、典籍の目録に通ずる事なり。……結局目録は吾人に或る書に対する種々の注意を与ふるものにて、縦令ば吾人は其の内容を読まずとも、其の書の大体に就いて智識を得ることが出来る。(本書、p.12)

「目録学は重要」という能書きは、漢学者ならば誰でも知っており、しばしば口にさえする言葉です。しかし、目録を見さえすれば「縦令ば吾人は其の内容を読まずとも、其の書の大体に就いて智識を得ることが出来る」とは、なかなか言えない言葉です。読書に際して実に役立つアドバイスだと感じます。

類書や叢書、訓詁についての説明も同様で、読書に役立つことばかりが書いてあります。

吾輩が書を読みて普通に其字を調べ、又訓詁を知るには『康煕字典』でもよろし。併しあれは極めて出来の悪いものとなつて居るので、少し古典でも読みて、真正に其訓詁を知らんとするには使用すべからず。別によきものあり。即ち阮元の作りし『経籍籑詁』といふものあり。(本書、p.92)

といった様子。このような概説が100年後の今も通用することに驚いてしまいます。もちろん、100年の間にさまざまな歴史的展開があり、認識が変わった部分も多いのでしょうが、わたくしはむしろ変わらぬ部分に驚嘆するのです。

地面に散乱した硬貨


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日本語版wikipedia「貫」より

昔の硬貨には、孔の開いたものがありました。それを何枚も集め、「貫」と呼ばれるひもに通して束にして利用するのです。現在我が国の五円玉や五十円玉に孔が開いているのはその名残ではあるものの、ひもに通す習慣はいまや廃れてしまいました。

そういった硬貨が、まとまりもなく地面に雑然と積まれている。まとまりを欠いた学問は、そのようなものである。章学誠の手紙に見えたその言葉に、不意を突かれてしまいました。

学問や文章といったものは、家法を成す必要があり、広く見渡して材料を集め、秩序立てて手中に収めるものですが、書物は大量にあって究めがたく自分の力にも限界があります。集中的に熱心に力を尽くすところがなければ、硬貨が地面に雑然と積まれ、(硬貨の孔に)ひもを通して貫けずにあるようなものです。

大抵學問文章,須成家數,博以聚之,約以收之,載籍浩博難窮,而吾力所能有限,非有專精致力之處,則如錢之散積於地,不可繩以貫也。(「章氏遺書」本『文史通義』外篇三「與林秀才書」)

章氏が林秀才なる人物に宛てた手紙の一文です。この林氏が誰なのか、これがいつ書かれたものか、知る手がかりはありません。ともかく、その林さんは、中国古典に関する学術的な札記、『三餘筆録』を執筆し、章学誠に送ってよこし意見を求めたらしく、この「与林秀才書」なる手紙がそれに対する章氏の回答であることは間違いありません。

章学誠は何の忌憚もなく、この『三餘筆録』という書物が体系性を欠く雑然としたメモに過ぎず、とても「著述」の名に値しないことを指摘するのですが、そこで「如錢之散積於地,不可繩以貫也」といって引き合いに出されたのが、この硬貨なのです。

それを貫くひももなく、地面に雑然と積まれた硬貨。『史記』平準書が「京師之錢累巨萬,貫朽而不可校」と伝えるのは、前漢の武帝時代の国庫の豊かさでもありますが、同時に、その使い道のなさでもありましょう。

このブログも、それなりに何とか書きついでいますので、少しばかりボリュームも出てきたものの、とりとめがなく、まさにこの銭の譬喩にぴたりと当てはまります。そもそも著述を目指したわけではなく、体系性への志向はいまだ芽生えませんが、章氏のこの言葉を心に刻み、いずれ「貫」に通した作品にまとめ上げられはしないものかと夢想してしまいます。

 

日本の便當


蘇軾が劉攽にこう言った、「私が弟と一緒に制科の試験勉強をしていた頃、毎日、「三白」を食したものだが、食べてみるととても美味かった」。「三白」とは何か?劉攽が問うと、蘇軾は「ひとつまみの塩、一皿の生の大根、一碗の飯。これが「三白飯」というもの」と答えた。劉攽は大笑いしたとのこと。

これは余嘉錫が朱弁『曲洧舊聞』巻六を引用して紹介する話です。「読已見書斎随筆」24「三白飯」(『余嘉錫論学雑著』、中華書局、1963年、p.673)。この話には続きもあるのですが、今は全文を引かずにおきましょう。

余嘉錫はこれを紹介した上で、こんなことを言っています。

いま日本人には彼らが「便當」と呼んでいるものがあり、塩をした大根数片に小魚を数尾、そして飯を数匙分ばかり、(それらを)木製の容器のなかに入れるのだが、全国の人のうち、これを食する者が八割九割にもなる。おそらくは我が国の唐宋時代の「三白飯」の遺風であろうが、ただ彼らは塩漬けの大根を用いて生の塩を使うことはない。それに彼らの国は浜辺に魚を多く産するので、小魚という一品を足すのが、少し異なるだけだ。

「便當」といえば、いまも台湾でよく食されるものですが、それは日本人が伝えた「弁当」(かつては「便當」とも表記したそうです)に由来する。そんな話を聞いたことがあります(中国大陸では「盒饭」、箱に入れた食事、というのが一般的なようです)。

余嘉錫はどのようにして日本の「便當」を知ったのでしょうか。ことによると、「便當」そのものを見たことがあるのかもしれません。いずれにせよ、どこかで日本の「便當」のことを見聞きして、余嘉錫が唐宋時代の「三白飯」を想起したことは確かでしょう。

古い中国の「遺風」が日本に伝存している、という考え方は、中国の伝統的知識人にわりあいとよく見られ、程樹徳が『論語』の「明衣」の名残を日本のゆかたに見出したことなどとも、軌を一にするものと言えそうです。

『辞源』第3版、出ました!


ciyuan待っておりました!待ちに待った『辞源』第3版が昨年10月に出版され、ようやく入手することができました。

辭源
何九盈, 王寧, 董琨主編 ; 商務印書館編輯部編,商務印書館, 2015.10
第3版

過去にこのブログでも何度か書いたとおり、わたくしは『辞源』修訂版(すなわち第2版)の愛用者です。第2版が出たのは1979年のこと。それから36年後、こうして第3版が刊行されたことは、実に喜ばしいことなのです。

第2版と第3版との比較については、しばらく利用してみてからご報告することになりそうですが、音に関する改善があったのは、確かなようです。中古音の反切と現代音との対比が、第2版では不明瞭なところがありました。

たとえば第2版では、「易」字の場合、yìという現代音に対し、まず「羊益切,入,昔韻,喻」という中古音を示し、その下に幾つかの義項を並べ、さらに「以豉切,取寘韻,喻」という中古音を示し、その下にまた幾つかの義項を並べています。字義の解説のあと、「易」から始まる熟語を列挙しますが、それが入声音なのか去声音なのか、区別がなされていません。

中古音が異なっても現代音では合流している場合には区別しない、という方針だったわけですが、これは不適切な処置といえましょう。第3版では、この問題点が解消され、中古音の反切と現代音との関係が明瞭になっています。前言に、「設立審音組,專司其職」とあるように、音に関してかなりの向上が見られるようです。

weiyu.JPGまたこれまで『辞源』は百科辞典的な項目について、若干弱く、ライバルの『辞海』に譲るところがありましたが、これも力を入れて増強してある様子です。同時に、これまで少なかった挿絵もかなり増やしてあり、眺めて楽しい本に仕上がっています。

214の部首、14210の字、92646の詞で、1200万字、4767ページの巨冊で、1000幅の挿絵を入れたとのこと(「第三版前言」より)。しばらく、楽しい時間を過ごすことができそうです。

呉人たちのソウルフード


昨年12月に南京を訪問したおり、南京大学歴史系の張学鋒教授にご当地の考古を説明していただいたことは、南朝文化に関心を寄せるわたくしにとっては、たいへんよい経験となりました。南朝文化は、まさに建康、すなわち現在の南京に花開いたものであり、その南京の歴史的変遷に最もお詳しい張先生に案内していただいたのですから。

張先生は、京都大学大学院文学研究科の博士課程を修了された京都大学の博士でいらっしゃいますから、以前にもお目にかかっていたのですが、今回、こうして親しく案内していただき、教えを受けることができたのは幸いでした。さらに最近、ご著書『漢唐考古與歴史研究』を送っていただきました。

《汉唐考古与历史研究》
张学锋著
生活・讀書・新知三联书店,2013年1月,北京第1版,南京大学史学丛书

25篇ほど収録された論文のうち、数篇を読ませていただきました。博士論文『魏晋租調制研究』の内容を含む、重厚な研究です。この研究書の紹介は他の機会に譲りますが、その第一篇「菰菜、莼羹、鲈鱼膾与吴人的乡思」が深く印象にのこりましたので少しメモしておきます。

呉が晋に併呑されたのは280年のこと。その後、呉人の張翰は晋の洛陽に出向いて斉王、司馬冏に仕えていたのですが、秋風が立つ頃、「菰菜、蓴羹、鱸魚膾」といった江南の味を思い出し、北地を去って故郷に戻って行った。そういう話が『晋書』巻92、文苑伝に伝えられています。

翰因見秋風起,乃思吳中菰菜、蓴羹、鱸魚膾,曰:「人生貴得適志,何能羈宦數千里以要名爵乎!」遂命駕而歸。

「菰菜」は、マコモダケ。「菰」、すなわちマコモは『礼記』にも見える古代人の食した穀物ですが、江南地域では栽培もしていたらしい、と本論文に見えます。張翰のいう「菰菜」は、中文でいう「菰黑粉菌」(Ustilago esculenta)なる菌が、マコモの新芽に寄生して肥大化した、いわゆるマコモダケ。天ぷらや炒め物として食する、秋の味覚です。これが呉人のソウルフードの第一。

「蓴羹(蒓羹)」は、ジュンサイのスープであり、かの陸機も「千里蒓羹」を懐かしんだそうで(『晋書』陸機伝)、特に千里湖(江蘇省溧陽にあった湖)のものが有名であった、とのこと。ジュンサイの汁といえば、日本人にもなじみのある味ですが、鰹出汁ではなく雷魚(カムルチー)のスープで食するのが呉の食し方。本論文によると、今でもこの地方の名菜であるそうです。これが第二。

「鱸魚膾」とは、スズキの細作りかと思いきや、この「鱸魚」は張氏によると、スズキ(スズキ目スズキ科)とは別種の「塘鱧魚」(Eleotridae)とのこと、すると和名はカワアナゴ(スズキ目カワアナゴ科)に当たります。写真を見るとハゼに似て扁平で、20-25cmほどとスズキよりも小型です。この魚、中国では宋代以降、生食しなくなったと、この論文に書いてあります。これが第三の味です。

なお川那部浩哉氏によると、この「鱸魚」は「カジカの仲間のヤマノカミなのだ。この種は日本列島では、有明海とその支湾の諫早湾に注ぐ川にだけ分布し、春に川に溯り、秋に海に下って産卵する」(『魚々食紀』平凡社、2000年、平凡社新書、p.27)とのこと。カワアナゴかヤマノカミ(スズキ目カジカ科)か、さてどちらが正解なのか、ただちには答えが出ませんが、じっくり考えてみます。

これらの食はただ単に江南の郷土料理であるというにとどまらず、南人が北人に対して抱く複雑な感情とともに語られているのだと、張氏はいいます。ちょうど、張翰が北地にあって秋風に感じ思い出したのが、まさにこれらの食事であったように。江南の人の抱いていた細やかな感情が、丁寧に読み取られています。

本書「後記」では、この論文は若い頃の習作にすぎない、と謙遜なさっていますが、わたくしはたいへん楽しく読ませてもらいました。

『孝経』朗誦


昨年の秋から、学生と一緒に『孝経』の朗誦をしてきました。中国語で暗誦するのです。日本人にとってたやすいこととは言えませんが、『孝経』を覚えておくと自信も持てますし、何より暗誦の習慣を身につけておけば、さまざまな中国古典も断然親しみやすいものとなるという考えです。

また奇しくも、友人であるまっつんさんが『孝経』の暗誦を目指して努力なさっていることを、彼のブログ「積読日記」で知りました。愉快な一致です。

近年は、インターネットの上にさまざまな教材が満ちあふれています。中国古典の朗誦も少なくありません。『孝経』(今文『孝経』)についても、以下のようなものを見つけましたので、ご紹介します。

http://player.youku.com/embed/XMTM3MzkyMzI0

発音にやや南方のなまりがあるようですが、手本にするには十分だと思います。利用する上でのポイントをいくつかメモしておきます。

・中国の「普通话」と台湾の「國語」とでは漢字の発音が完全には一致せず、特に、声調が異なるものがあります。たとえば、以下のような例があります。

「開宗明義章第一」の「身體髮膚」の「髮」字、もともと中古音では入声ですが、中国では第4声、台湾では第3声で読みます。この朗誦では第3声で読んでいます。

「諸侯章第三」の「高而不危」の「危」字、中国では第1声、台湾では第2声です。この朗誦では第2声で読んでいます。

・「諸侯章第三」の「富貴不離其身」の「離」字、この朗誦では第2声で読んでいますが、第4声で読んでもかまいません(中古の去声です)。

・「卿大夫章第四」の「身無擇行」の「行」字、この朗誦では第2声で読んでいますが、第4声で読むべき字です(「行い」の意味では去声、つまり第4声、で読みます。この朗誦でも第2声と第4声を意識的に区別しています)。「三才章第七」の「民之行也」、「孝治章第八」の「有覺德行」、「聖治章第九」の「行思可樂」、「廣揚名章第十四」の「行成於內」なども同様です。

・「三才章第七」の「示之以好惡」の「好惡」、hàowùと読んでいますが、これでは好き嫌いという意味になってしまいます。善悪の意味なので、hǎoèと読むのが正しいと思います。

・「廣要道章第十二」の「則弟悅」の「弟」字、tìと読んでいるように聞こえますが、dìが適当です。

・「諫爭章第十五」の「爭」字、第1声で読んでいますが、第4声で読むべきところです。本章の「爭」字はすべて同様です。

・「喪親章第十八」の「為之宗廟」の「為」字、第4声で読んでいますが、第2声で読むべきでしょう。

以上、細々と書きましたが、関心をお持ちの方はまずこの朗誦を聞いてみて下さい(ただし、広告がでるので煩わしいかもしれません、ご承知を)。なかなか学のある方の朗誦であるように感じました。

著作を磨くこと


章学誠(1738-1801)が年下の友人である胡虔(あざなは雒君、1753-?)に宛てた手紙に、なかなか面白いことが書いてあります。

大抵攻辨文字,義蘊惟恐有所不暢,有蘊不暢,便留後人反詰之端;而措辭又不欲其過火,過火亦開後人反詰,所謂太過反致不及也。(『章學誠遺書』卷9「與胡雒君」)

自分の書いた文章の意図を人に伝えるのは難しいことで、言い足らないと後世の人に伝わらず、さりとて言い過ぎるとかえって非難を浴びる。過ぎたるは及ばざるがごとしだ、と。

そこで、自分の書いた文章を信頼のおける友人たちに読んでもらい、批正を受けて改稿し、何とか後世の人に理解される文章にすることが必要だと章学誠は考えます。

 鄙意欲將生平撰著為師友所正定者,仍注正定之人及未正定之原文與所以正定之故於其下方,明示後人,非敢為矯情也。一則不沒人善,且恐其人不幸不傳,而鄙著幸存,其人可附而傳;一則文辭增減改易,字句小異,意義懸殊,實有補於後學之推尋研究。二者關係皆非淺鮮,故雖冒矯情之嫌而不自阻也。(同上)

友人たちに修正意見をもらい、その結果を反映させた本文を浄書し、原稿の下方には、「正定」してくれた人の名前、「正定」する前の本文、「正定」した理由などを書いておく。これは「矯情」ではなく、必要あってすることだ、と章学誠は言います。「矯情」とは『後漢書』逸民傳に「或高棲以違行,或疾物以矯情」と見えることばで、ことさら奇矯な振る舞いをして高潔を気取ることだそうです。

こうした章学誠の清書稿が遺っていれば愉快なのですが、その存否については知りません。

清朝において、著作に関する意見の応酬は主に書簡のやりとりを通してなされたことが、当時の人たちの手紙からわかります。章学誠が素直に他人の意見を聞く人であったとは思えませんが、それでも、他の学者から寄せられた意見を非常に大切にしていたことが伝わるようです。

前撰「婦學」之篇請正,而賜正頗略,恐尊意有所嫌而不盡其辭,故言此以解尊疑,如何如何?(同上)

胡虔に「婦學」篇(いま、『文史通義』内篇に収めます)を送り、書評を求めたところ、どうやら生ぬるい返事が返ってきたらしく、あらためて意見を述べるよう督促したもので、現代の論文査読者もひるむような勢いがあります。

章学誠が胡虔と知り合ったのは、乾隆五十六年(1791)であり、「婦學」篇を書いたのは嘉慶二年(1797)以降—すなわち章氏六十歳以降—であるらしい、とのこと(いずれも胡適『章實齋先生年譜』によります)。老境にさしかかってもなお自分の文章を少しでもよくしようと尽くす情熱。それがにじんでいるように感じます。

2015年のまとめ


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