著作を磨くこと


章学誠(1738-1801)が年下の友人である胡虔(あざなは雒君、1753-?)に宛てた手紙に、なかなか面白いことが書いてあります。

大抵攻辨文字,義蘊惟恐有所不暢,有蘊不暢,便留後人反詰之端;而措辭又不欲其過火,過火亦開後人反詰,所謂太過反致不及也。(『章學誠遺書』卷9「與胡雒君」)

自分の書いた文章の意図を人に伝えるのは難しいことで、言い足らないと後世の人に伝わらず、さりとて言い過ぎるとかえって非難を浴びる。過ぎたるは及ばざるがごとしだ、と。

そこで、自分の書いた文章を信頼のおける友人たちに読んでもらい、批正を受けて改稿し、何とか後世の人に理解される文章にすることが必要だと章学誠は考えます。

 鄙意欲將生平撰著為師友所正定者,仍注正定之人及未正定之原文與所以正定之故於其下方,明示後人,非敢為矯情也。一則不沒人善,且恐其人不幸不傳,而鄙著幸存,其人可附而傳;一則文辭增減改易,字句小異,意義懸殊,實有補於後學之推尋研究。二者關係皆非淺鮮,故雖冒矯情之嫌而不自阻也。(同上)

友人たちに修正意見をもらい、その結果を反映させた本文を浄書し、原稿の下方には、「正定」してくれた人の名前、「正定」する前の本文、「正定」した理由などを書いておく。これは「矯情」ではなく、必要あってすることだ、と章学誠は言います。「矯情」とは『後漢書』逸民傳に「或高棲以違行,或疾物以矯情」と見えることばで、ことさら奇矯な振る舞いをして高潔を気取ることだそうです。

こうした章学誠の清書稿が遺っていれば愉快なのですが、その存否については知りません。

清朝において、著作に関する意見の応酬は主に書簡のやりとりを通してなされたことが、当時の人たちの手紙からわかります。章学誠が素直に他人の意見を聞く人であったとは思えませんが、それでも、他の学者から寄せられた意見を非常に大切にしていたことが伝わるようです。

前撰「婦學」之篇請正,而賜正頗略,恐尊意有所嫌而不盡其辭,故言此以解尊疑,如何如何?(同上)

胡虔に「婦學」篇(いま、『文史通義』内篇に収めます)を送り、書評を求めたところ、どうやら生ぬるい返事が返ってきたらしく、あらためて意見を述べるよう督促したもので、現代の論文査読者もひるむような勢いがあります。

章学誠が胡虔と知り合ったのは、乾隆五十六年(1791)であり、「婦學」篇を書いたのは嘉慶二年(1797)以降—すなわち章氏六十歳以降—であるらしい、とのこと(いずれも胡適『章實齋先生年譜』によります)。老境にさしかかってもなお自分の文章を少しでもよくしようと尽くす情熱。それがにじんでいるように感じます。

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