古典の本文を比べること


大学院生のころ、研究室の宴会で「『荘子』郭象注を二十回は読んだ」と発言したところ、先生が「それは法螺話に違いない」とおっしゃいます。

修士論文を書いていた時のこと、活字本や版本の影印本を5種類ほど机上に並べて、一字ずつ比較しながら郭象注を読みました。違いがある部分についてはメモを取り、どちらがより妥当なのか、どういう種類の異文なのか、眼球を激しく動かしながら、真剣に考えて『荘子』郭注を読みました。集中的に読むので、一月で一通り読めたと思います。これで5回は読んだと勘定します。

こうして何度も複数の異本を比較しながら読むことで、私は二十回読んだと言ったわけです。実際に目を通しているのですから、嘘とは言えぬものでしょう。

その話を聞いた先生は、「それでは二十回とは言えない」とおっしゃいましたが、私も譲りません。今でも間違ってはいなかったと思っています。

この校書という方法—対校・校勘・校合など、言い方は何でもよいのですが—私は古典をお読みになる皆さんにこれをすすめたいと思っています。自己内対話にうってつけです。「これは甲本が正しいのだろうか?いや、乙本の方が正しいという可能性もあるぞ」という具合に、自問自答しながら読むのです。ただ漫然と読むよりもずっと張り合いがありますし、アイディアも次々湧いてきます。

新しい標点本を買った時など、それを他の伝本と比べたりするのは、今でも楽しいひとときです。

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「古典の本文を比べること」への6件のフィードバック

  1. 古勝 隆一先生
                           2017年3月15日
    ◎「勉強法」。
    『世説新語』言語第二・第12章に、

    其父時覺、且託寐以觀之。

    とあるのを、呉金華氏の『世説新語考釈』は「『託』應作『訛』」といい、方一新氏は「訛寐自是可通、『託寐』也未必誤」・「可不改字」といい、龔斌氏は「方説是」という。以上、龔斌著『世説新語校釈』。「机上に並べて、一字ずつ比較しながら」・「複数の異本を比較しながら読む」というのは現代人に許された「勉強法」で、古人は通行本を読みながら意味が通じない時に異本を見る、という方法だったのではないでしょうか。我々は、贅沢な時代に生きているものと思います。
    実は、呉金華著『世説新語考釈』(安徽教育出版社・1994)1,500円を古本にて注文してしまいました。藤田吉秋

    1. 藤田様

      ご教示、ありがとうございます。おっしゃるとおりで、読書に関する我々の環境は、たいへんに恵まれたものだと思っております。この頃では、ネット上の善本の写真を参照することさえできます。古人には想像さえしえないことだったのではないでしょうか。

      呉金華氏の考証、面白いと思いました。康僧会訳の『六度集経』をヒントにして(同時に証拠ともされているわけですが)、「訛」が正しいという説を立てており、そう作ってあっても何ら問題ないこと、方氏の言われるとおりですが、ただ、異文上の証拠は乏しく、方・龔両氏が慎重な態度をとることも頷けます。この議論は、結論の相違はともかく、面白く感じました。

      学退覆

  2. 古勝隆一先生

     突然お邪魔いたします。毛色の変わった訪問者です。匿名希望とさせていただきますが、おわかりになってしまうかもしれません。
     私事で大変恐縮ですが、私は高校時代、本を1000冊読んだと豪語し、大学に入りました。しかし、大学の演習では、古典数行の本文校異の発表に一時間も費やし、解釈に一年をかけるといった経験をし、それまでの自分の読書が単なる速読に過ぎず、浅はかであったことを反省いたしました。ちなみに、人生初の徹夜本が三島由紀夫の『春の雪』だったため、かつて『豊饒の海』を読んだという話をした当時の助手は、実はその分野の受賞者であり、恐れ入ったこともございます。しかし、思うに、読むということは実にバラエティに富んだ行為であるのかもしれません。
     さて、大学時代、日本文学の研究室では、とにかく用例を調査し分析することが重視され、辞書を触ることはご法度とされておりましたが、中国文学の方では、とにかく辞書が壊れるまで引けと言われ、さらなるカルチャーショックを受けました。このような数少ない経験から申しましても、分野や研究者により研究方法はさまざまですが、しかし、校書とは、古来広い分野に共通する基本的な手法なのではないでしょうか。
     少々お門違いな話題にて、長々と大変失礼いたしました。

                           匿名希望

    1. コメントお寄せくださいまして、まことにありがとうございます。

      僭越ながら、「読むということは実にバラエティに富んだ行為である」とおっしゃる点に深く共感いたしました。実は、指導している学生諸君に、いろいろな読みを試してもらいたいと思い、これを書きました。ただ漫然と読んでいると、さまざまな読み方の違いを意識し、新たな読みにチャレンジするというところにまで、思い至らないものかも知れません。そういう人に向かって、比べるという読み方もありますよ、と伝えたかったのです。

      文章が拙すぎてそういった思いが伝わらず、読書回数の数え方に異論を唱える読者もあり、思わず苦笑してしまいましたが、そういう中で、真意を真正面から受けていただき、とても嬉しく存じます。

      学退覆

  3. 古勝 隆一先生
                           2017年3月16日
    ◎「違いがある部分についてはメモを取り、どちらがより妥当なのか」。
    一字の違いによって、意味が変わる例を挙げて頂くと参考になります。藤田吉秋

    「校書」について、私には、湯淺幸孫先生の[國寶『翰苑』について]の前書きが忘れられません。

    校書は史を讀むものの先務である。皮肉屋であった魏の邢子才は、人が校書するのを見て、「何ぞ愚の甚だしきや。天下の書は、死に至るまで讀むも徧くす可らず、焉ぞ能く始めより復た此を校せんや。且つ誤書を思うも、更に是れ一適」と、笑ひながら語ったと云う。けれども、日々、誤書を讀んで、その誤所を知らなければ、どうして善く史を読むものといえよう。清朝の嘉慶年間に、北宋の天聖明道本『國語』が重刊された時、段玉裁は序を寄せて、「誤書思之、更是一適」の後に続けて、「善思を以つて適となし、擅改を以つて適となさず」と述べているのは、至言である。しかし、段氏の『説文』に注するや、武斷と擅改とを免れることはできなかった。この小学の大家にしてなおこの態である。校書に当るものは、自ら強く戒めねばなるまい。
    http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/73002/1/KJ00000077645.pdf

  4. 藤田様

    一字の違いの具体例は、今後また適当なものがあった時にお話しすることにさせてください。ただ、『経典釈文』に載せる異文は面白いものが多く、さすがに古い時代の異文だと思ってしまいます。

    湯浅先生の「校書」のお話は、エピソードはともかく、為にする所が有ったのですよね。いや、実に「校書」は難しいものです、特に出版する場合には。自戒せねばなりません。

    学退覆

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