辞書、引くか引かぬか


吉川幸次郎が狩野直喜から教わったという興味深い辞書の引き方があります。

京都大学の一回生として中国語を学びかけたばかりのころ、私は先生に向かって、中国語の辞書の不備をうったえた。先生は、そのうったえに対しては、ただ、そうだろうね、と簡単に答えられるだけで、別の話をされた。先生が第一高等学校の生徒であったころ、ある外国人の教師—先生はその名をいわれたが、私は忘れた—がいった、はじめての英語の単語に出くわしても、すぐ字引を引くんじゃない。前後の関係からこういう意味だろうと、自分で考えてみる。そのうち別のところで、その単語がまた出て来たら、前に考えた意味を代入してみる。まだ字引は引かない。三度目に出て来たとき、そこにもうまくアプライすれば、もう大丈夫だ。そこでオックスフォードを引くんだと教えてくれた。僕もそうして勉強したよ。(吉川幸次郎「私の信条」、『吉川幸次郎全集』20、筑摩書房、1970。p.60)

辞書を使わずに語義を考えるというのは、一種の自己内対話であろうと思います。「こういう意味だろうか?いや、どうだろうか?」と。それを三度まで繰り返すというのは、面白い勉強法ではありませんか。

たしかに、私もこれまで、そのようにして読んできたような気もします。手もとに辞書がない時などは、いつも意味を想像してきました。その推測がたまたま当たっていれば、これは、実に気分のよいものです。

一方で、辞書を引くのも手堅い方法でしょう。しかし手堅いものであると同時に、先人の智慧を拝借した手軽な便法だという面もあります。また、辞書に依存すると、その言葉にとらわれてしまうこともありましょう。

辞書を引くのか引かないのか。少し立ち止まる習慣をつけたいものです。

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「辞書、引くか引かぬか」への2件のフィードバック

  1.  古勝 隆一 先生

     ご返信に加え、早速新たな記事を設けていただき、誠にありがとうございます。大変恐縮です。
     辞書の活用の仕方につきましては、いまだに模索中でおりましたので、参考になることを教えていただき、光栄と存じます。
     ちなみに、補足ながら、某師匠が辞書を引くな、とおっしゃったのは、いかなる権威的な辞書であっても、まずはその記載を疑う必要があるというわけなのです。実際、研究室には一通りの辞書が揃っており、学生がこっそりと参照することを黙認していたのも、また事実です。
     さて、初歩段階でこのような教育を受けた者といたしましては、中国文学でもこれを実践してみようと無謀な考えを起こし、試みたものの、却って失敗いたしました。おそらく母語である日本語と外国語である中国語とでは、自らが本来有する語彙量や語感の正確性等の条件が異なるため、同じようにはゆかないのだろうと思われます。よって、より正確な訳を追及すれば、辞書への依存の度合いが必然的に高くなってしまいます。
     ただ、訳注の語釈などで、辞書での用例を毎度機械的に拝借することにはやはりいまだに抵抗を覚えます。特に辞書で挙げられた用例は、必ずしも、問題となっているテキストの文脈や性格に適したもの、あるいはその語の歴史や語義にとり重要なものであるとは限らないからです。もっとも、すべての語に対し、同様の態度で接することは困難ですが。
     先生はどのようにご指導されていらっしゃいますか?
                        匿名希望

    1. コメントくださいまして、まことにありがとうございます。

      お問い合わせの問題がかなり大きいため、ブログの記事を新たに立てようと思いますので、どうぞそちらをご覧ください。よろしくご了解ください。

      学退覆

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