出典と用例の間


中国語の文言で書かれたテクストを精読する場合、私が日常的に行っている注釈について、いささか紹介いたします。

テクストに注釈をつけるという行為は、その注釈によって、テクストについての読者の理解が深まることを目指すべきだというのが私の信条です。そのためには、(1)「言葉に関する注釈」、そして(2)「内容に関する注釈」、この両者が必要でしょう。

(1)「言葉に関する注釈」というのは、注釈の対象となるテクストの言葉を解釈するもので、(a)「典故」、(b)「テクストの作者が踏まえたらしい例」、そして(c)「用例」に分けて考えています。

(a)「典故」(「出典」)というのは、テクストの作者が、読者にも通じせる意図をもって古典の断片を引用することで、たとえば読んでいるテクストに「知命」という語があれば、おそらく『論語』為政篇の「知天命」が出典であろうと一応、想像できます。

(b)「テクストの作者が踏まえたらしい例」というのは、そのテクストに先行する著作をテクストの作者が読んで、その先行著作の語を取って自分のテクストに利用したとみなせるものです。作者が典故とまでは意識していないものを想定しています(典故の場合は、作者のはっきりした意識が存在します)。典故と紛らわしいことがありますが、作者の意図として、わざわざそれを踏まえて、そのことを読者に分からせようとしているとは感じられない場合、出典とは考えず、「踏まえたらしい」程度にとどめた方がよいようです。

これはどうしても作者の意図や想定する読者層を慮る必要がありますので、厳密には(a)(b)の区別がつかないことはたしかにありますし、これについて研究者間で意見が異なることがしばしばあります。その際、(b)と判定するのが良心的だと私は考えます。

(c)「用例」というのは、作者が読んだかどうかを問わず、(i)テクスト撰述よりも前に書かれた著作に見える語、(ii)テクスト撰述と同時代に書かれたと推定される著作に見える語、補助的には(iii)テクスト撰述の後に書かれた著作に見える語です。それらを拾い集め、対象とするテクストの意味に近いものを注釈にしています。(i)は必要なものすべて、(ii)は必要に応じて、という感じで挙げます。虚詞の用法なども、用例を検討することで明らかにできましょう。ただし付け加えると、これについても(b)と(c)の区別がつきづらい場合もあります(作者が読んでしかも踏まえている可能性がある場合は、単なる用例でなく、(b)ということになります)。

(2)「内容に関する注釈」は、制度、地理、背景となる観念など、言葉の表面に直接には現れないことがらについての注釈ですが、ここでは詳しくは述べません。

大体、以上のような区別を念頭に置きつつ注釈をつける時、辞書が力を発揮するのは、(1)の(a)で、部分的には(b)(c)もそうです。おそらく中国語著作と日本語著作とでは違いがあるのですが、中国語の文言文の場合、典故となる語は有限であり、基本的に『漢語大詞典』を見れば分かりますし、『大漢和』でも『辞源』でも分かります。こういった辞書で、(b)が拾えること(あるいは、拾うヒントを得ること)もしばしばです。うるさいことを言えば、かなり変則的な用典(典故を用いる方法のことです)の場合、辞書のみでは解決しないことも附言しておきます。

(b)と(c)とについては、網羅的に例を蒐集する必要がある場合も多く、その時は、以前は索引類、近年では電子的なデータベースが利用されているようです。もちろん後者の方が網羅的に例を拾うことができます。

そもそも、(a)の典故については、辞書を見ずに、あらかじめ知っていることが理想でしょう。そういう意味において、辞書を使うのは便法と言えますが、基本的な古典を語単位ですべて記憶していて、その場で言える人は現在では少ないので(私の知る中では、台湾の陳鴻森先生は稀有なお一人です)、辞書を利用するしかありません。

以上、述べたのは、私が文言文テクストに注釈をつける時の心得ですが、これはある程度、私の読書一般にも通じるものです。どこを自分の頭で考え、どこで辞書を引き、どこでデータベースを使うか。私はこのようにしているのですが、これが他の方に通用するものであるかどうか、これは分かりません。

あえて言いますが、「単なる用例調べ」(つまり(c)のみを調べること)では、言葉を調べる意味は乏しいと個人的に考えています。最近は、データベースを検索して、例を並べて注釈に代えるというような悪習もはびこっているようですが、これは「出典調べ」(つまり(a)のみを調べること)以下です。作者の教養やその背景、そしてその意図を常に意識しつつ読まなければ、書物を読む意味も乏しいと思うのです。

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“出典と用例の間” への 3 件のフィードバック

  1. 古勝隆一先生

     詳しくご教示いただき、ありがとうございました。
     先ほどは、用例と典故とを混同してお尋ねしておりました。
     典故に関しましては、おっしゃる通り辞書を調べる方法が最短でしょう。
     一方で、データベースは、特に語の使用傾向を調べる際に便利だと感じます。問題となるテクストでの使用例が一般的なものであったのか、否かなどを分析できます。
     ただ、データーベースの構築状況は、現状では時代や分野によりムラがあるため、これらから抜け落ちてしまっているものの存在にも配慮する必要があるように思われます。これは自らのこれまでの反省点の一つですが、しかし、正直に申し上げ、限界を感じております。

                        匿名希望

  2. コメントありがとうございます。

    データベースについては、私にはよく分からないこともあり、長所や短所も言いかねますが、少なくとも、データベース依存になってしまうことには強い危惧を抱いております。

    漢語で書かれたものに関して言えば、「深く」読むためには、究極的に、どれだけ訓詁に習熟できるかというところにかかっていると考えております。そういう用途に、データベースは有用か否か、何とも言えません。日本語で書かれた文献を「深く」読む方法は、私には見当がつきませんが、どうなのでしょう。

    いろいろとお話できて、また自分の考えをまとめておく良い機会ともなり幸いでした。お礼申し上げます。しばらく、本業に復帰したいと思いますので、更新を休みますが、この点についてはどうぞご了承ください。

    学退覆

    1. 古勝 隆一 先生

       今日はご多忙の最中、早朝からどうもありがとうございました。お目にかかれて大変光栄でした。閉会後は、お忙しそうでしたので、早々に失礼してしまいました。またどうぞよろしくお願い申し上げます。
                              匿名希望

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