中国古代のヨイトマケ


「邪許」という漢語を辞書で引くと、「労働時に多くの人が一斉に力を出す時に発するかけ声。現代中国語でいう「號子聲」」とあります(『漢語大詞典』)。古書の用例として、『大詞典』には以下の文を挙げます。

『淮南子』道應訓:「今夫舉大木者,前呼邪許,後亦應之,此舉重勸力之歌也」。

『呂氏春秋』淫辭:「前乎輿謣」高誘注:「輿謣或作邪謣。前人倡,後人和,舉重勸力之歌聲也」。

重いものを大勢の人で持ちあげる時、リーダーが「邪許!」(もしくは「輿謣!」「邪謣!」)と発声すると、他の作業者も同じく声を合わせたようです。なお『文子』微明篇には、上記の『呂氏春秋』『淮南子』と似た話を載せます。

老子曰:「今夫挽車者,前呼邪軤,後亦應之,此挽車勸力之歌也」。

上古音でいうと、邪・許・輿・謣・軤、すべて魚部に属する音で、主母音*aを推定する学者が多いようです。

これに関連するらしいのが、『莊子』齊物論に見える風の音の描写、「前者唱而隨者唱」であり、「于」「喁」が「邪許」に相当しているようで、『經典釋文』に引く李頤の説に「于、喁,聲之相和」と見えています(この「聲之相和」という表現は、『老子』第二章の「音聲相和」をもじった表現です)。王叔岷『莊子校詮』(pp.46-47)もこれに同意して、「于喁」をヨイトマケと考え、上記『呂氏春秋』等の例を挙げています。

問題は、「于」「喁」の上古音で、「于」は魚部に属するものの、他方の「喁」は侯部(主母音*uか*oを推定する学者が多い)という別の部に属していることです。互いに同部に属していれば、かけ声として理解しやすいのですが、少し引っかかるところです。

前漢時代の押韻例を見ると、魚部と侯部はしばしば押韻しており、羅常培・周祖謨『漢魏晉南北朝韻部演變研究』第一分冊では、前漢時代、魚部と侯部が合流していたと考えているようです。この羅常培・周祖謨説については、邵榮芬「古韻魚侯兩部在前漢時期的分合」(『邵榮芬音韻學論集』首都師範大學出版社、1997年)などに批判が見えますが、前漢時代においては魚部と侯部とが韻文の押韻に確かに見えるという事実は動かないようです。

また『春秋左氏傳』宣公十五年に見える諺、「高下在心,川澤納。山藪藏疾,瑾瑜匿。國君含,天之道也」というのが、「汙」(魚部)、「瑕」(魚部)、「垢」(侯部)で押韻しているとすれば、先秦時代から魚部と侯部が近いと感じられていた証拠になります。

そうであれば、『莊子』にいう「前者唱于而隨者唱喁」の「于」と「喁」も、おそらく「于喁!」という疊韻語のかけ声、ヨイトマケだと考えてもよいように思いますが、如何でしょうか。

訓読すれば「前者は于と唱え隨者は喁と唱う」という表現ですが、前者も後者も「于喁!」と発声したわけで、擬人法を用いて風の音をそう表現したのでしょう。

こういう庶民のかけ声のようなものが残っているのが、道家文献ーおよび道家の影響を受けた『淮南子』などの文献ーの楽しいところです。それが道家者流のユーモアを伝えているのです。

李楨という学者


郭慶藩『莊子集釋』(光緒二十年1894序刊)と王先謙『莊子集解』(宣統元年1909刊)の二書は、今なお『莊子』研究の基礎とされていますが、この二種の注釈には、李楨という人の学説がしばしば引用されます。

はて、どんな人だろうかと思っても、あまり手がかりがなく、兪樾(1821-1907)の説を踏まえているところがあるので、そこから彼が生きた時代がおおよそ分かるという程度でした。

そこで調べてみると、王先謙『漢書補注』の編輯作業に関わった学者のリスト、「同時參訂姓氏」の中に、その李楨の名が見えていました。郭嵩燾、朱一新、李慈銘、繆荃孫、沈曾植、王闓運、葉德輝、皮錫瑞、蘇輿といった名人に並び、「李楨,字佐周,湖南善化人。附貢生」とあるのです。

王先謙(1842-1917)は郭慶藩(1844-1896)『莊子集釋』のために序文を書いていて、また郭慶藩は郭嵩燾(1818-1891)の甥に当たるという関係で、みな湖南省の出身者です。『漢書補注』「同時參訂姓氏」に列記される諸氏は、一見して湖南出身者が多く、そこに同じく湖南善化出身の李楨がいるわけですから、一応、王先謙と地縁的つながりのある人物と想像することができましょう。

その李楨には、『畹蘭齋文集』四巻という著作があり、『清代詩文集彙編』(上海古籍出版社)というシリーズに収録されています。その書物に、王先謙の序文(光緒十八年1892)が冠されているので、その一部を引用します。

李君佐周,長余一歲,自幼同學,相愛好,稍長,各以飢驅出走,十數年不相聞,而特聞其古文之學冠絕時輩。壬午歲,余歸相見長沙,各出所業相質,情誼視疇昔逾密。再歸,又加密焉。……甫三十,絕意進取,竟以歲貢生老,人咸惜之,而佐周夷然不屑。讀其文,可以知其自命矣。光緒壬辰秋八月,長沙愚弟王先謙謹敘。

李楨と王先謙との交友関係がよく分かりますし、「長余一歲」と言っているので、李楨の生年が道光二十一年(1841)であることも確認できます。

setsumonitsubunbenshoまた李楨は、『説文解字』に詳しかったらしく、『說文逸字辨證』二巻(光緒十一年自序 畹蘭室 刊本)の著もあります。

調べものをしているうちに、李楨という学者について少しずつ分かってきました。