桑原武夫の『東光』批判


先日、中国学の雑誌、『東光』創刊号を紹介しましたが、当時、その創刊号を読んで手紙を寄せた人物がいました。桑原武夫氏(1904-1988)です。その手紙が、『東光』第3号(昭和23年1月)に、「編集者への手紙」(pp.62-63)として掲載されています。「『東光』第一号をありがとう。御苦労お察しします。御注文により感想を申し上げます」、と書き出されていますので、親しい私信のような雰囲気もあります。献本に際し、編集を担当した人物が、批正をお願いします、などといった一言を添えていたのでしょう。

桑原氏の手紙の内容は相当に辛辣なもので、「日本のシナ学はいままで中々すぐれているが、しかも今やそのよい後継者を得がたくなっているのではないかという不安をまぬがれません」と綴られています。

批判点は多岐にわたっていますが、ここにいくつかかいつまんでみます。

・「巻頭言にうかがわれる近代超克の精神に、私はいささか不安を禁じえません。……私は大戦によって近代が極限に達し、ここに「調和と統一、安分と享受」の時代が始まるとは信じがたいのです」。この批判は、巻頭言の「二度の大戦は近代の極限を示した。古代、中世、近代についで、いまや人間の歴史の第四の時代が始まろうとしている。矛盾と対立、克服と創造の時代に代って、調和と統一、安分と享受の生活を根本義とする時代が始まろうとしている」という言葉に向けられたものです。戦前すでに問題提起がなされていた「近代の超克」論の蒸し返しにも見える巻頭言のことばに、桑原氏が疑義を抱いたのは、当然といえば当然のことかもしれません。

・「『東光』は研究か趣味かビュルガリザションか。……『東光』はよきビュルガリザションのために、ささげられるべきではないか、と私は考えます」。桑原氏がいう「ビュルガリザション」(仏vulgarisation / 英vulgarization)とは、普及活動、専門的な内容を通俗化させることです。この雑誌を通じ、シナ学を広汎な読者層へと普及させること、特に若い読者に伝えることを桑原氏は望んでいるようですが、その方向性が明確でないと批判します。「後記の筆者の署名が子玄・竹庵などとなっていること」にも、若者を遠ざけかねないとして苦言を呈します。

・論説に関して、「ムツカシイ」と評しています。「漢文には一切よみをつけて下さい」、「これが今までのシナ学関係の本の根本的欠点で、ギリシヤ・ラテンはもとより、フランス文学の連中でも必ず原文には訳をつけています」。『東光』第1号に載った、森鹿三氏「竹と中国古代文化」などの文章に、古漢語の原文がそのまま引用してあることを批判したものです。現在の日本語研究論文では、原文に訳や訓読をつけることが一般化していることを考え合わせれば、桑原氏の批判は、言葉遣いの辛辣さはあるものの、妥当なものと思います。

・「問題をなるべく広い見地から扱ってほしいと思います」、「やはりまず読者をとらえ、しかるのちにだんだんこれを仕立てるというテクニックは、研究すべきでないでしょうか」。おそらく、論説が考証に傾きがちで、狭い枠に留まっており、比較の視点が乏しいことを批判したものでしょう。

・「一号に文学についてのものが皆無だったのは残念です。……文学はもっとも普遍性のある、また直接的なものですから、これからは毎号、文学を入れて下さい」。

以上のような、具体的な要望を連ね、「どうか『東光』はシナ学のアクチュアルな雑誌になって下さい」と書かれています。

桑原武夫氏が高名の文学研究者であることは言うまでもありませんが、東洋史家で京都帝国大学教授であった桑原隲蔵氏(1871-1931)の子息でもあったため、当時の京都における中国学の世界では一目置かれた存在であったようです。このような腹蔵ない手紙は、桑原氏とシナ学者たちとの間にあった、厚い信頼関係の産物であったと言えましょう。

この手紙に対して、『東光』の編集者であった平岡武夫氏(1909-1995)が、同誌の第4号で応答しているのですが、そのことについては後日触れたいと思います。

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