『「読む」技術』


中国古典を「読む」ことは私にとって大切なことで、人生と切っても切れません。「読む」ことが万人にとって大切だとは少しも思いませんし、ましてや、中国古典を読むことが必要だとも思いませんが、少なくとも自分自身の生にとっては不可欠です。その行為を通じて、何か、私の求める人類の叡智に触れたい。そう願っています。

そして、この「読む」という行為が、ある意味においては一種の「技術」である、ということも、経験的に理解してきたつもりです。「技術」であるからこそ、そこに意識を向けて修錬することで、「読み」を向上させることができる。そしてこの「技術」は、単純な一種類のものではなく、大小含め数多くの技術を組み合わせたものである。そのようなことも、中国古典を読む経験を通じて知っています。

『「読む」技術』という本があると聞き、読んでみようという気になりました。

石黒圭『「読む」技術ー速読・精読・味読の力をつける』
光文社 2010.3 光文社新書

この本は、私の知らない様々な学説にのっとって読書技術を以下のように整理しています(本書、p. 53)。

  • 話題ストラテジー(速読) 知識で理解を加速する力
  • 取捨選択ストラテジー(速読) 要点を的確に見ぬく力
  • 視覚化ストラテジー(味読) 映像を鮮明に思い描く力
  • 予測ストラテジー(味読) 次の展開にドキドキする力
  • 文脈ストラテジー(味読) 表現を滑らかに紡いで読む力
  • 行間ストラテジー(精読)  隠れた意味を読み解く力
  • 解釈ストラテジー(精読) 文に新たな価値を付与する力
  • 記憶ストラテジー(精読) 情報を脳内に定着させる力

なるほど、こういう具合に整理することができるのか、と思わされました。ひとつひとつの「ストラテジー」については、このように説明されれば思い当たるところがあり、ほぼ日常的に実践している読み方です。

それぞれの読書技術に関して、近現代の日本語の文章を豊富に例示しており、こういった例を通して身を以て理解できるように工夫されています。よい本です。

中国古典の例を挙げて、同じような手引きを作ることもできそうです。どなたかよい「読み手」が書いてくだされば、学生に役立つのではないでしょう。

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“『「読む」技術』” への 3 件のフィードバック

  1. 古勝隆一先生

     匿名で投稿されている方が他にもいらっしゃいましたが、人生に希望なし、されど不撓不屈の瘋癲の方です。
     いつもお世話になっております。度々お邪魔いたします。
     ご紹介の著書を早速入手し速読いたしましたところ、当書は「自分なりの読み方、『読体』を対象化し改善する目的」のための一般書であり、日常的な読み方を反省する機会となりました。しかし、「読む」という行為に対する氏の見解が、内容を理解する、解釈する、想像力を働かせるという段階にとどまっていることに関しましては若干疑問が拭えませんでした。  
     まず、「読む」こと自体、著者は特に視覚を媒介とするものを中心にとらえているようですが、前近代においては聴覚による「読み」の方がむしろ日常的で一般的ではなかったかとも思われます。現在においては古代の音楽が失われ、古典は視覚的にしか受容されなくなっていることは残念なことです。たとえば中国詩詞文の音韻、素読・・・、日本文学では和歌の朗詠や、宮沢賢治の作品も音による受容を意識したものと思われます。斎藤孝氏は、以前にその著書『声に出して読みたい日本語』が流行し、シリーズとしても『論語』など中国の古典に及んでいますが、『読書力』岩波新書、2008年などでは石黒氏と同じく読書の「技術」について言及しながらも、音読や聞き手や共有者のある行為に着目しています。
     さて、「読む」の定義を読者への影響や読者側の作用という点に関連づけて考えますと、著者側がどこまでを読者に「読む」行為として要求しているかは、著述目的により異なってくるのではないでしょうか。たとえば、仏典などの経典であれば信仰や悟りの境地に至るまで、風刺や上奏文などであれば為政者に聞き入れられるまで、啓蒙書であれば洗脳され実践に移すまででなければ意味をもたない(読まれたとは言えない)ということになります。
     読書を著者と読者との対話として説明する方法は他の本にも見られますが(西村清和『フィクションの美学』勁草書房、2000年、78~81頁など)、内容によりましては、共感や擬似体験(のような錯覚に陥る)経験をすることもあろうかと存じます。
     「読む」ことへの省察は古今東西共通であったのでしょう。ゲーテの言には「本の読みかたを学ぶには、どんなに時間と労力がかかるかをご存知ない。私は、そのために八十年を費やしたよ。そして、まだ今でも目的に到達しているとはいえないな。」(エッカーマン著・山下肇訳『ゲーテとの対話(下)』岩波書店、242頁、1830年1月25日)とございます。この流れを(批判的に)汲むドイツロマン主義の批評では、個別から普遍へ絶対化し完成させる行為として把握しています(ヴァルター・ベンヤミン著、浅井健二郎訳『ドイツ・ロマン主義における芸術批評の概念』ちくま書房、2001年)。
     また、学部の頃、ひそかに私淑しバイブル化しておりました文学理論の著では、読書は一概にポジティブな方向性には向かわず、「忘却」や(読みの)失敗を受け入れ、「不可能性」を思考することでもあるという矛盾を伴う行為とも説明されています(土田知則・青柳悦子『文学理論のプラクティス』新曜社、2003年、150頁。土田知則・青柳悦子・伊藤直哉『現代文学理論』新曜社、2003年、222頁)。石黒氏は「記憶」や情報の獲得技術について言及されていましたが、真逆の見方も可能です。
     蛇足ながら、個人的には、3次元の空間と時間を超越した往来に読書の魅力を感じますが(次元の問題としても興味がございますが)、議論しつくせないテーマです。
     話題が面白く、長々と支離滅裂に書き散らしてしまいました。西洋学は門外ですため、不案内ですが、何卒ご容赦くださいませ。 匿名希望

  2. 匿名希望様、

    テーマを深める多くの観点を提供いただき、ありがとうございます。「読」書を「技術」としてのみ切り出してよいか、という問題もあり、私はこの点については、多少、態度を留保して書いたつもりです(宗教経典類が技術で読めるものでないのは、自明だと思います)。「「読む」という行為が、ある意味においては一種の「技術」である、ということ」などと回りくどく書いたのはそのためです。

    ともかく、「技術」を求めている読者はきっと存在するのでしょうから、著者のようなアプローチも有効かつ有益だと思っております。

    この本の別の長所は、執筆者がレトリックを使っている場合などにつき、その表現意図をある程度、実例に即して説明しているところで、文章を書く必要のある学生などからすれば、「書く」技術として学ぶことも可能だろうと思います。

    人文学を専攻する場合には、大体、これらの「技術」は高校生から大学生(学部生)くらいまでに身につけておくべきものと思います。そういうつもりで書いた記事です。

    またお立ち寄りください。

    古勝隆一

  3. 古勝隆一先生

    お忙しいところ、早速のご回答に感謝申し上げます。
    読み分けは自然と選り分けて実践していたことですが、
    中高時代にこのような本を一度読み、メソッドを学んでおけば、生涯役に立っていたかもしれません。
    おっしゃる通り、書く技術の参考にもなりそうです。
    お言葉に甘え、またお邪魔させていただきたいと存じます。
    今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。   匿名希望

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