カテゴリー別アーカイブ: クイズ

柳賛?柳贇?


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柳の下の一文字は?

右の画像をご覧ください。版本(の影印本)の一部です。

その上で、クイズを出題します。最終行に見える、「柳」の下、「謹」の上の一字は何でしょうか?お考えください。

ヒントを申し上げると、「賛」「贇」などと読んだ例がありますが、いずれも誤りだそうです。

正解は明日にでも、ここに書きます。

なお恥を承知で申し上げると、わたくしは読めませんでした。

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「二つの封面」の答え


 【推理】初版は本文が簡化字であったので、それに見合った封面でしたが、第2版以降は本文を繁体字に変更したため、あらためて周祖謨氏に依頼して書いてもらったものでしょう(ただし、まだ第2版を実見していないので、この推理は誤っているかも知れません)。

 ただそれだけの話なのですが、思ったことなどを少し。

 【印象】中国の書物の場合、題簽は名のある人に書いてもらうことが多いですが、その際、芸術的な効果が優先され、個々の文字の形に拘泥することは少ないように思います。たとえば、『現代漢語詞典』の題簽は郭沫若氏(1892-1978)の揮毫とのことですが、「現」「語」「詞」が簡化されていない字で、うるさく言うと「典」も異体字です。また、ポスト郭沫若時代に題簽を多く手がけた啓功氏(1912-2005)も、簡化字版の書籍に対して繁体字の題簽を多く書かれています。それとは別に、繁体字の書籍に対して、簡化字の題簽が書いてある例も少なくありません。そういう一般的な事情を考慮すると、『音韻學教程』の場合、少しこだわり過ぎなのかな、という印象を持ちました。唐氏は簡化字が嫌いなのかもしれない、それが封面を変更した主な理由なのではないか、と勘ぐっています。現代漢語詞典

【補一】背表紙には「音韵學教程」と書名が表記されています。これは単純な誤記かも知れません。奥付(”版本记录”)では、正しく「音韻學教程」となっています。

【補二】初版の「学」字は、簡化字の規範に従ったものというよりは繁体字「學」をくずしたものに見えます。

二つの封面


 クイズです。音韻学教程初版

 唐作藩『音韻学教程』の初版(北京大学出版社、1987年)と第3版(北京大学出版社、2002年)の二つが手もとにあるのですが、封面を見比べてみると、似てはいますが、違います。上のものが初版の封面、下のものが第3版の封面です。

 両方とも、高名な語言学者である周祖謨(1914-1995)氏の揮毫です。音韻学教程3版

 「なぜわざわざ、このようにそっくりな封面を二度も書く必要があったのでしょうか?推理してみてください」。これが今回の問題です。ふるってお答え下さい(ヒントは前回のエントリにあります)。

「許?師?」の答え


 先日のクイズの答えです。お答えをお寄せくださった、中川さんと昭夫さん、どうもありがとうございました。

(一)「一番上のおかしな文字は「許」と読めるのでしょうか?」の答え。

キョ この字は、「無」の下に「邑」があるようにしか、見えません。『説文解字(せつもんかいじ)』に当たって調べてみましょう。『説文解字』といえば段玉裁注本です。経韵楼本の影印本がよいでしょう。「邑」の部首から「鄦」字を見いだします。

 「鄦、炎帝大嶽之胤、甫侯所封。在潁川。从邑無声、読若許〔虚呂切、五部〕」。

 その段注に言います。大嶽の息子である甫侯が封じられたのは潁川(河南省)の「鄦」という地であり、「鄦と許とは、古今字なり」。「古今字」というのは、同義・同音でありながら、時代により異なる形の字を用いた、という関係を表します。「漢の字にては許に作り、周時の字にては鄦に作る」と段玉裁は言っています。

 一方の「許」字を『説文解字』で引くと次のようにあります。

 「許、聴言也。从言午声〔虚呂切、五部〕」。

 こちらは「許す」という意味が本義、ということになります。

 「許学叢書」の「許」とは、『説文解字』の作者、許慎のことです。姓としての「許」は、もともと、どのように表記したのか? 『説文解字』に基づくなら「鄦」であろう(姓は地名に由来するものが多い)、というのが、清朝の学者たちの考えです。特に篆文で表記する場合、『説文解字』の権威は絶対でした。それで「鄦」の字が用いられているわけです。

 写真の字の場合、「鄦」と釈読するのがよいと思います。しかし、(古今字の関係にある)「許」と釈読しても大過ない、というのが、一応の答えです。

(二)「なぜ、「獅石山房」とせずに、「けものへん」を省いたのでしょう?」の答え。

 もちろん古代の中国に、ライオンは生息していませんでした。それゆえ、古くは「獅」という漢字がなく、当然、『説文解字』にも載っていません。『漢書』西域伝の上に烏弋という土地の名物として登場するのも「師子」です。漢代においては、「獅子」は「師子」と書かれたわけですね。姚振宗にとって「獅」字は根拠の薄い字、典雅でない字、と見えたはずです。それゆえ、「獅」を避けて「師」が用いられた、と考えられます。

 清朝の初期には、『説文解字』は広く知られた書物ではありませんでした。かの顧炎武(1613-1682)すら、まともな『説文解字』を見たことがなかったといいます(頼惟勤『説文入門』参照)。その後、「小学」熱が高まり、段玉裁(1735-1815)『説文解字注』を頂点とし、『説文解字』は清朝人の意識に深く根を張りました。清朝の後半期に生きた学者、文人たちは、『説文解字』の用字に非常に敏感で、それに従おうとする規範意識が顕著です。

 「獅」が『説文解字』に載らない字であるから、というのが答えです。

 このように見ると、先日の二つの質問に対しては、いずれも『説文解字』に従う意識が選ばせた用字、と答えることができそうです。

許?師?


許学叢書 今日はクイズを出させてください。先日来、遊んでいる、姚振宗関係から二題です。

 (一)右の写真は、姚振宗の親友、陶方蒅の著書『許君年表』を収める「許学叢書」の封面(タイトルページ)です。「学」「叢」「書」はよいとして、一番上のおかしな文字は「許」と読めるのでしょうか?

 (二)姚振宗の号は、獅子型の奇石にちなみ、「師石山房」と名付けられました(エントリー「快閣?師石山房?」参照)。なぜ、「獅石山房」とせずに、「けものへん」を省いたのでしょう?

 お答えをコメント欄までお寄せください。このブログの読者は非常に少ないので、すぐにお答えをちょうだいできるとは思いませんが、どなたか、同好の士があれば、お願いします。気長にお待ちします。プロの方は、今回はご遠慮願います。

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