カテゴリー別アーカイブ: 仏教

「三国仏法伝通史観の功罪」


石井公成氏「三国仏法伝通史観の功罪―相互交流するアジア仏教の視点から」(増尾伸一郎、松崎哲之編『交響する東方の知―漢文文化圏の輪郭』(知のユーラシア5)、明治書院 、2014年)を拝読。「功罪」ということばを含むそのタイトルからも予想されたとおり、刺激的な文章でした。

アジアにおける仏教史の実態を見えなくさせた原因の一つは、「天竺→唐→本朝(日本)」という順序で仏教が伝わり、日本に正しく保存されているとする三国仏法伝通史観だろう。(同書、p.57)

文章はこのように始まります。仏教の日本伝来を、インドから中国へ、中国から日本へ、という直線的で一方的な図式でとらえることの危うさが、さまざまな角度から、豊富な事例に基づいて語られています。

この「三国仏法伝通史観」なる仏教観、空海の頃に芽生え、凝然(1240-1321)によって大成されたもので、凝然においては「南都仏教を中心として鎌倉時代の諸宗の正統性を強調するため、その起源を求めて釈尊までの教理的なつながりをさかのぼっておいたうえで、それを釈尊以来の系譜として示そうとしたものにほかならない」、とのこと(p.57)。

直線的な系譜を書こうとするこの種の単純化は、決して日本にのみうかがえるわけではなく、いろいろなタイプのナショナリズムとも結びつき、昔から今に至るまで存在しているとのこと。

石井氏は、そのような単純化に当てはまらない事例が、アジア仏教史に数多くあることを示し、いわゆる「三国仏法伝通史観」を突き崩しています。

興味深いのは、石井氏がその種の偏った見方を単に否定するのではなく、自分自身が特定の見方をしていることの自覚を持つよう、うながす点です。

伝通史観は、自分にとって望ましい系譜を探し求め、時に創作する試みにほかならない。われわれに必要なことは、自分が心の奥でどのような系譜を望んでいるか、それはなぜなのかを、できるだけ自覚するようつとめ、自説にとって都合の悪い事例から逃げずに真正面からむかいあい、できるだけ幅広い視点から相互影響の実態について検討し続けていくことだろう。(pp. 81-82)

自分自身に引きつけても、思い当たる節があります。物事が一方向に進むのではなく、複雑にからみあい相互に影響を与え合うこと、それが多くの局面における事態の真相であるのかもしれません。過度の単純化にあらがうことは、粘り強い精神力を要することですが、学者自身が自己を見つめ直す契機にもなりえましょう。

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人名と『説文解字』


陳垣『中国仏教史籍概論』巻二には、『続高僧伝』(巻十一、法侃伝)の次の文を引きます。

侃初立名,立人安品。後値內道場沙門智騫曰:「侃之為字,人口為信,又從川字。言信的也」。因從之。

法侃は、初め名前を付けたとき、人偏に品を置く形(「偘」の字)にしていた。後に内道場の沙門智騫に会った所、「侃という字は、人の口を信となし(人に口と書くのは信という意味であり)、また川の字に従う。言葉に信頼性があり明らかなことである」と言うので、これに従った。(知泉書館版、p.71)

陳垣はこの一節を根拠として、智騫という僧が小学に詳しかったことを証しています。まことに注意深い読書というべきです。

当時、南北朝時代から唐代にかけての頃、「侃」の字はしばしば「偘」とも書かれました。しかしながら、智騫は「侃」と書く方が、「偘」と書くよりもよいと考え、用字を変えることを法偘に助言した、というわけです。智騫のこの説、実は『説文解字』に拠っているのです。

侃,剛直也。从㐰,㐰,古文信;从川,取其不舍晝夜。『論語』曰:「子路侃侃如也」。(『説文解字』十一篇下、川部)

侃とは、剛直のこと。㐰に従い、㐰は「信」の古文、(さらに)川に従い、昼夜を問わずに流れることをいう。『論語』に「子路は侃侃如たり」とある。

「侃」は「㐰」(=信)と「川」とを組み合わせた「会意」の字であるから、「偘」と書いてしまってはその原義が伝わらない、と智騫は考えたのでしょう。当時、『説文解字』が実用されていたことを示す興味深い例です。

ただ、智騫が言ったという、「言信的也」の言葉はよく理解できません。「的」字は何らかの誤字なのでしょうか。

『中国仏教史籍概論』日本語版


最近、陳垣(1880-1971)の名著、『中国仏教史籍概論』(中華書局、1962年。初版の序文は1955年10月)の日本語版が出版されました。

西脇常記・村田みお訳『中国仏教史籍概論』、知泉書館、2014年1月

中国仏教史籍概論
中国仏教史籍概論

陳垣の書物を日本語に訳したものとして、かつて野口善敬氏による訳註、『訳註清初僧諍記―中国仏教の苦悩と士大夫たち』(中国書店、1989年)が刊行されました。

それに続き、本書、『中国仏教史籍概論』が日本語に訳されたわけです。陳垣の学問を敬愛する者として、陳氏の業績が日本の読者にとって身近なものとなったことを嬉しく思います。

本書は、中国仏教史にも造詣の深い陳氏が、史書としての内容を備える仏教関連書籍を解説したものです。それらの書物により史実を考証することに主眼が置かれているため、中国仏教の概説というわけではありません。

あわせて六巻、目録書や僧侶の伝記など、三十五部の書物を紹介しています。もともと戦前、陳氏が講義用に書いた原稿を、解放後に出版した著作とのこと。

  • 巻一 『出三蔵記集』/『歴代三宝記』/『開元釈教録』
  • 巻二 『高僧伝』/『続高僧伝』/『宋高僧伝』
  • 巻三 『弘明集』/『広弘明集』/『法苑珠林』/玄応『一切経音義』/慧苑『華厳経音義』
  • 巻四 慧琳『一切経音義』/希麟『続一切経音義』/『輔行記』/『景徳伝燈録』/『五燈会元』
  • 巻五 『宝林伝』/『北山録』/『伝法正宗記』/『釈門正統』/『仏祖統紀』/『法蔵砕金録』/『道院集要』
  • 巻六 『禅林僧宝伝』/『林間録』/『羅湖野録』/『仏祖通載』/『釈氏稽古略』/『神僧伝』/『大蔵一覧』/『法喜志』/『長松茹退』/『呉都法乗』/『南宋元明僧宝伝』/『現果随録』

目録学の基本書、『四庫全書総目提要』の内容を基準として、それに補正を加えるスタイルで上記の仏教関連書籍を解説しています。陳氏の考証は着実、学風は端正で、今なお輝きを失っていません。

「民国時代の優れた学術成果について、我が国の漢学は十分に吸収出来ていないのではないか」、と常々遺憾に思ってきましたが、このような名著の翻訳は、研究者へのよい刺激となるとともに、読書界の渇を癒すものでもあるに違いありません。

日本語版の「訳者あとがき」によると、西脇氏が学生諸氏とともに訳稿を作られたのを基礎とし、西脇・村田両氏があらためて訳注を検討し、統一をはかり、注記も大幅に加えて成稿を得たもの、との由。よく練られた訳文からは、陳垣の語気まで伝わるようです。この日本語版の登場を心より喜んでいます。 『中国仏教史籍概論』日本語版 の続きを読む

『仏典はどう漢訳されたのか』


出版されたばかりの、船山徹『仏典はどう漢訳されたのか―スートラが経典になるとき』(岩波書店、2013年12月)を読みました。

仏教が中国にはじめて伝えられたのは、前漢時代のことであったようですが、後漢時代、二世紀ごろにもなると、いくつもの仏教経典が漢語に翻訳されるようになります。「漢訳仏典」と呼ばれるものです。本書は、翻訳文献としての漢訳仏典に焦点を合わせた、はじめての本格的な概説書です。

長い歴史を持ち、現代にも生きている漢訳仏典。葬儀や法事で僧侶があげるお経や、『般若心経』の写経などを通じ、日本人にとっても馴染み深いものです。また「縁起」「輪廻」「世界」などのことばも、すべて漢訳仏典に由来します。

そんな親しみのあるものについて、総括的な概説書がこれまでなかったことは、奇異にすら感じられるかもしれません。しかし、漢訳仏典の概説を書くためには、並外れた力量が必要で、インド・中国のみならず広く諸地域の仏教に通じ、語学的にも、サンスクリット・パーリ語などのインド語、漢語(文言文と現代漢語)、古いチベット語、さらには英語・ドイツ語などの現代のヨーロッパ諸言語を自在に操る学者でなくては、この仕事はしおおせぬことです。ようやく「其の人」が出現したのです。

インドからやって来た仏教は、漢人に大きな衝撃を与えました。それまで接触してきた「夷狄」とは明らかに異なる、押しも押されもせぬ大文明との邂逅。それは、はじめての経験でした。しかもそれが宗教であったことは、とりわけ重要です。宗教は、信念のみならず、生活や文化全般に大きなインパクトを与えるからです。

中国は、インドの宗教を如何に受け入れたのか。これが本書のテーマです。以下の構成により、翻訳としての漢訳仏典の真相が解き明かされます。

  • 第1章 漢訳という世界へのいざない―インド、そして中国へ
  • 第2章 翻訳に従事した人たち―訳経のおおまかな歴史
  • 第3章 訳はこうして作られた―漢訳作成の具体的方法と役割分担
  • 第4章 外国僧の語学力と、鳩摩羅什・玄奘の翻訳論
  • 第5章 偽作経典の出現
  • 第6章 翻訳と偽作のあいだ―経典を“編輯”する
  • 第7章 漢訳が中国語にもたらしたもの
  • 第8章 根源的だからこそ訳せないもの
  • 第9章 仏典漢訳史の意義

漢人から見れば外国人に当たる僧侶たちの活躍や、中国人による仏典「編輯」の問題、何とかして原典の意を尽くそうとする翻訳者たちの苦悩、新たな仏教語の導入により新しい色彩を与えられた中国語の様相などなど、内容は豊かで、しかもグローバル化しつつある現代社会にも通じるテーマです。

第8章「根源的だからこそ訳せないもの」は、特に興味深く読みました。たとえば、「聖」の一語をとっても、中国が如何に仏教を摂取したのかという問題や、さらにはその後、唐代にキリスト教(ネストリウス派)がやって来たときにも、仏教語の一環としての「聖」なる語が用いられた事実が提示されており、翻訳という行為の深みを感じることができます。

漢訳仏典は、そのように実に重層的に成り立っているわけです。本書は、その重層性を生み出した背景を全面的に開示したものと言えます。

インドも中国も、日本人からすれば外国のことではありますが、どちらも我々の生活や考え方と切っても切れない文化です。現代の気鋭の日本人学者により、本書が我々日本人に向けて書かれたことに、大いなる意義を感じました。

僧洪の奇跡


銅銭と仏像の関係について書いていて、思い出したのが、『高僧伝』の興福篇です。

梁の慧皎『高僧伝』では、訳経(翻訳僧)、義解(経典を解釈して教える僧)など、僧侶を十の類に分けて伝記を書いています。その中の第八、興福篇は「仏教寺院の建立や仏像の製作などに手腕を発揮した沙門の伝記を集成」したもので(吉川忠夫・船山徹訳注『高僧伝』4、岩波書店、2010年、p.258)、14人の僧侶の伝記を収めます。この篇には、金銅仏を鋳造した僧侶たちの伝記が幾つか見えます。

そのうち釈僧洪の伝は、金銅仏を作ることが命がけであった時代がかつて存在したことを我々に知らせてくれます。

釋僧洪、豫州人、止于京師瓦官寺。少而修身整潔。後率化有縁、造丈六金像、鎔鑄始畢、未及開模。時晉末銅禁甚嚴、犯者必死。宋武于時為相國、洪坐罪繫于相府、唯誦『觀世音經』、一心歸命佛像。夜夢所鑄像來、手摩洪頭、問「怖不」、洪言「自念必死」、像曰「無憂」。見像胸方尺許、銅色燋沸。會當行刑、府參軍監殺、而牛奔車壤、因更剋日。續有令從彭城來云「未殺僧洪者可原」、遂獲免。還開模、見像胸前果有燋沸。洪後以苦行卒矣。(湯用彤校注『高僧傳』、中華書局、1992年、p.484)

新しく出版された吉川忠夫氏の訳を一部お借りします。

有縁の人々を指導教化して丈六の金銅像を製作したが、鋳造はやっと終わったものの、まだ鋳型から取り出すまでには至らなかった。当時、東晋末の銅禁はとても厳しく、違反者は必ず死罪に当てられた。宋の武帝がその時、相国であり、僧洪は罪に坐して相国の役所に繋がれた。(『高僧伝』4、p.281

その後、『観音経』を一心に唱えたところ、夢に鋳造した仏像があらわれ、心配するな、と言って帰り、なんと夢のお告げ通り、僧洪は死罪を免れた。そのような内容です。

岩波文庫版の訳注によると、この僧洪の話は、他にも『名僧伝抄』に引く『名僧伝』、『繋観世音応験記』にも見えるとのこと。『繋観世音応験記』は、京都東山の青蓮院に古写本が伝えられていますが、いま、孫昌武氏がそれを整理した『觀世音應驗記三種』(中華書局、1994年)から、僧洪の記録を抜きます。

道人釋僧洪者、住都下瓦官寺。作丈六銅像、始得注畢。于時晉義煕十二年、大禁鑄銅。僧洪未得開模見像、便為官所収、繫在相府。判奸罪、應入死。僧洪便誦念『觀世音經』。得一月日、忽夢見其所作像來至獄中、以手摩其頸間、「汝怖不」、僧洪具以事答。像曰「無所憂也」。夢中、見像胸前方一尺許銅色燋沸。後遂至出市見殺。爾日府參軍應監刑。初喚駕車、而牛絶不肯入、既入便奔、車即粉碎、遂至暝無監、更復剋日。因有判從彭城還、道若未殺僧洪者、可原。既出破模者、像果胸前如夢。此像今在瓦官寺、數禮拝也。(『觀世音應驗記三種』、p.34)

『繋観世音応験記』は、南斉の陸杲により書かれたもので、『観音経』、すなわち『法華経』の観世音菩薩普門品を読誦することによって生じたという奇跡譚を蒐集しています。時代的にいって『高僧伝』にやや先んずるのみならず、記述もより詳しいと言えます。

たとえば、牛が暴れたため刑の執行が延期されたエピソードについていうと、『高僧伝』では「會當行刑、府參軍監殺、而牛奔車壤、因更剋日」とあるだけですが、『繋観世音応験記』は「後遂至出市見殺。爾日府參軍應監刑。初喚駕車、而牛絶不肯入、既入便奔、車即粉碎、遂至暝無監、更復剋日」と、より生き生きと記述しています。

話はそれますが、『高僧伝』に用いられている言葉は、とても面白いと思います。「銅禁」の語が目についたので辞書を繰ってみたところ、後世の用例しかなく、『高僧伝』のこの例を逃していました。また、「鋳物を型から取り出すこと」を「開模」「破模」(ともに『漢語大詞典』に載ってない言葉です)というのも、面白く感じました。

また岩波文庫版の『高僧伝』は、訳文が流麗なことは言うまでもありませんが、詳細な注が付いていることも、また特筆すべきです。中国仏教史研究の新たな水平を開いた、といって過言ではないでしょう。僧洪についても「また恐らく同じ内容を伝えるものとして、『出三蔵記集』一二・法苑雑縁原始集目録序に「瓦官寺の釈僧洪、丈六の金像を造るの記」を著録する」などとあり(p.281)、周到です。

大正蔵本や中華書局「中国佛教典籍選刊」があれば、『高僧伝』の本文を一通り読むことはできますが、もし岩波文庫版をも手もとにおいて読むなら、初期の中国仏教に関する厖大な知識を得ることができるはずです。

銭と仏像


北周の「永通万国」銭
北周の「永通万国」銭

 李書吉『北朝礼制法系研究』(人民出版社、2002年)第3章に、北周武帝の廃仏(574)が、財政上の理由によるものであった、と述べた部分があります(p.138-141)。そこに、マックス・ウェーバー『儒教と道教』が引かれていたので、日本語訳の第1章「社会学的基礎」第1節「貨幣制度」を読み直してみました。

 ウェーバーは、中国の伝統社会における「銅本位制」について述べる中で、次のように言います(木全徳雄訳『儒教と道教』、創文社、1971年、から訳文を拝借します)。

銅本位は、(銅の原料)価格がいちじるしく廉価であったにもかかわらず、前述の造幣費の驚くべき高価を意味したばかりではなく、貨幣の輸送経費が高くつくことによって総じて貨幣経済の発展や取引にとってきわめて不便な貨幣形態をも意味したのであった。…。加うるに、処分できる銅量の変動は、平時においても、銅が工業的および美術的に使用される(仏像)ために、その後も並はずれて大きく、物価においても、ことに税負担のさいにも、感知しうる状態がつづいた。…。

仏教徒や道教徒に対する迫害も、たしかに非常に主要な部分は宗教政策的な理由によるものではあったけれども、しかしそれとならんでしばしば純鋳貨財政的な理由も働いていたのである。すなわち、仏像、花瓶、祭式装具など、総じて寺院芸術によって刺激された貨幣原料の芸術的な使用は、通貨をたえずくり返し危機にさらした。すなわち、〔鋳貨の〕大量の鎔解は、鋳貨のひどい欠乏と銅材の退蔵と物価の下落という結果に導き、その結果として物々交換経済に導いたのであった。国庫による僧院の計画的強奪や、銅製品の関津税設定がおこなわれ、ついには青銅器および銅製品の国家的独占の試みがなされ、さらにのちにはあらゆる金属製品製造の独占が続いた。

 李書吉氏は、周の廃仏(建徳3年、574)の前後に、5度も貨幣改革と鋳造に関わる詔が出されている事実に注目し、仏像を鋳つぶして銅貨の原料を得ることが、この度の廃仏の重要な動機であったと指摘しています。また、李氏は周の武帝による廃仏のもう一つの目的は、儒教を中心とする国家運営であった、と言います。

 ウェーバーの説は、あらためて考慮してみる必要があるかも知れません。確かに銅の用途はきわめて広く、通貨と美術品、実用品を兼ねており、特に仏像鋳造の用途は南北朝時代においては重要であったことでしょう。「北朝の石仏はよく遺ったが、南朝の金銅仏は鋳つぶされてしまったので伝わるものが少ない」という話を聞いたこともあります。また、山田勝芳『貨幣の中国古代史』(朝日新聞社、2000年)には、次のようにあります。

北周の銭は鋳造技術が高く、いずれも精巧である。そして、「五銖」などの前漢以来の銭にみられた重さを示した銘文がまったくないという大きな特色がある。これは、漢以来の伝統を離れて、それより前の周代に行われた理想的な諸制度を実現するのだという北周の政治姿勢と関わる可能性がある。(p.276)

 これも面白い指摘です。

 とはいえ、以上のように見るだけで、周の廃仏の全貌が理解できるわけではありません。この時の廃仏には、衛元嵩という人物が深く関与しており、当初、廃仏に関心を示さなかった武帝を焚きつけたことが分かっています。余嘉錫が仏書から資料を丹念に集めて衛元嵩を考証した「衛元嵩事跡考」(『余嘉錫論学雑著』、中華書局、1963年、所収)を参照すべきでしょう。それによると、「黒衣」、すなわち僧侶が国を奪う、という妖言が当時、流布しており、それを武帝が恐れていたことや、衛元嵩の個人的な不満が上書につながった経緯などが記されています。いずれも勘案すべき事由です。