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李楨という学者


郭慶藩『莊子集釋』(光緒二十年1894序刊)と王先謙『莊子集解』(宣統元年1909刊)の二書は、今なお『莊子』研究の基礎とされていますが、この二種の注釈には、李楨という人の学説がしばしば引用されます。

はて、どんな人だろうかと思っても、あまり手がかりがなく、兪樾(1821-1907)の説を踏まえているところがあるので、そこから彼が生きた時代がおおよそ分かるという程度でした。

そこで調べてみると、王先謙『漢書補注』の編輯作業に関わった学者のリスト、「同時參訂姓氏」の中に、その李楨の名が見えていました。郭嵩燾、朱一新、李慈銘、繆荃孫、沈曾植、王闓運、葉德輝、皮錫瑞、蘇輿といった名人に並び、「李楨,字佐周,湖南善化人。附貢生」とあるのです。

王先謙(1842-1917)は郭慶藩(1844-1896)『莊子集釋』のために序文を書いていて、また郭慶藩は郭嵩燾(1818-1891)の甥に当たるという関係で、みな湖南省の出身者です。『漢書補注』「同時參訂姓氏」に列記される諸氏は、一見して湖南出身者が多く、そこに同じく湖南善化出身の李楨がいるわけですから、一応、王先謙と地縁的つながりのある人物と想像することができましょう。

その李楨には、『畹蘭齋文集』四巻という著作があり、『清代詩文集彙編』(上海古籍出版社)というシリーズに収録されています。その書物に、王先謙の序文(光緒十八年1892)が冠されているので、その一部を引用します。

李君佐周,長余一歲,自幼同學,相愛好,稍長,各以飢驅出走,十數年不相聞,而特聞其古文之學冠絕時輩。壬午歲,余歸相見長沙,各出所業相質,情誼視疇昔逾密。再歸,又加密焉。……甫三十,絕意進取,竟以歲貢生老,人咸惜之,而佐周夷然不屑。讀其文,可以知其自命矣。光緒壬辰秋八月,長沙愚弟王先謙謹敘。

李楨と王先謙との交友関係がよく分かりますし、「長余一歲」と言っているので、李楨の生年が道光二十一年(1841)であることも確認できます。

setsumonitsubunbenshoまた李楨は、『説文解字』に詳しかったらしく、『說文逸字辨證』二巻(光緒十一年自序 畹蘭室 刊本)の著もあります。

調べものをしているうちに、李楨という学者について少しずつ分かってきました。

「馬宗璉行年考」


恩師、陳鴻森先生が最近書かれた「马宗琏行年考」(《复旦学报(社会科学版)》2015年第5期)をたまたま眼にする機会があり拝読しました。近年は主に清朝の学者の伝記的事項を追っていらっしゃいますが、この論文もそのひとつ。馬宗璉(1757-1802)の伝記を記述したものです。

馬宗璉は今となっては知る人もない学者となってしまったらしいのですが、著名な『毛詩傳箋通釋』を書いた馬瑞辰(1782-1853)の父。しかも桐城派の巨匠、姚鼐(1731-1815)の甥にあたる、とのこと。馬宗璉は当時かなり重んじられた学者で、『清史列傳』69、『清史稿』482にも伝が立っているものの、現代ではその名を知る人も少なくなり、生卒年すら自明でないこと、この論文から知られます。

陳先生は乾隆・嘉慶年間の学者を網羅的に調べていらっしゃり、台湾・大陸の学界において圧倒的な存在感を示しておられます。その研究の徹底ぶりは追随者の接近を決して許さない水準に達しているものと評し得ましょう。

その陳先生が馬宗璉に関心を示されたのは、ただ彼が馬瑞辰の父、姚鼐の甥のであるのみならず、馬宗璉の学術が当時において決して軽視できない重要な地位を占めていたからに他なりません。その主著、『春秋左傳補注』三巻(1794自序、『皇清經解』1277-1279にも収める)が伝わる他、阮元が編纂した『經籍籑詁』の構想に大きな役割を果たし(たまたま昨日も『經籍籑詁』に触れました)、しかも、太平天国の乱に巻き込まれて失われた幻の巨著『史籍考』の分担執筆も行っていたことが、陳先生のこの論文により詳細に明かされています。

生卒年の確定にはじまり、『經籍籑詁』や『史籍考』といかに関わったのかなど、馬氏の人生を丹念に追い、一文ごと読み進めるうちに、次々と謎が解き明かされており、思わず興奮してしまいました。

13ページの論文に125の注。逐一、資料に裏付けられた記述です。資料と一口に言っても相互の間に齟齬がつきものですが、そのような複雑な資料が透徹した視線のもと、すっきりと明瞭に位置づけられ、見晴のよい場所に連れられて、先生とともに下界を見渡すような感覚を得ました。

『漢代婚喪礼俗考』の引書


このごろ同志社大学大学院の授業で、楊樹達(1885-1956)の著書、『漢代婚喪礼俗考』(商務印書館、1933年)を読んでおります。漢代の習俗を理解するための良い手引きですし、この際、楊樹達の書いたものをもう少し読んでおきたいという気もありました。

もちろん内容はしっかりした書物なのですが、本書の中にたくさん引用されている資料について、少しばかり問題を感じています。『漢書』『後漢書』などについては問題ないものの、それ以外の書物を引用する場合、かなり明白な「孫引き」が存在しているのです。

後漢の鄭衆の『百官六礼辞』、『婚礼謁文』(及び『婚礼謁文賛』)は、後漢時代における婚礼のあり方を伝える重要な文献でありながら、今は失われており、『通典』や『藝文類聚』『初学記』『太平御覧』などに引用された佚文を利用するしか手がありません。

楊樹達も『通典』や類書などの名を挙げて資料を並べますが、実は、直接に資料を見ていない可能性が濃厚です。楊氏の列記する資料に誤字が多いことが気になり、調べてみたところ、その誤りが厳可均(1762-1843)『全後漢文』巻二十二の誤りを踏襲するのではないか、と、思いあたりました。受講生の堀祐輔さんも資料に当たって、その推測を補強してくださいました。

『全後漢文』は、厳可均の『全上古三代秦漢三国六朝文』746巻の一部で、後漢時代の佚文を網羅的に集めた書物。そこには鄭衆の書物の佚文も集めてあるので、どうやら楊樹達はこれをそのまま拝借したようです。その際に誤字まで引き継いでしまったのでしょう。

一例を挙げると、第一章「婚姻」第二節「婚儀」に引く『婚礼謁文賛』に、『太平御覧』巻八百三十からとして、次の資料を載せます。

長命之縷,女工所為。

これは、『全後漢文』も同文ですが、現在、『太平御覧』を読む際によく利用されている四部叢刊三編本では、以下の通りとなっています(句読は私に加えたもの。以下同じ)。

長命之縷,女工所制。縫君子裳,高松為例。

「制」「例」と韻を踏み、こちらこそが完全な文であるはずで、『全後漢文』の引用は文が崩れていることが分かります。

張刻『太平御覧』
張刻『太平御覧』

ちなみに、清朝の『太平御覧』の版本はいくつかありますが、たとえば嘉慶十四年(1809)の張海鵬従善堂刊本では、以下のように作っています。

長命之縷,女工□□□□所為例。

つまり、「所」の上の四文字が闕字になっているのです。おそらく厳可均が見た本にも似たように闕字があったのでしょう。もしかすると、厳可均は張海鵬刊本そのものを見たのかもしれません。そして、苦し紛れに「女工所為」の形に仕立てた、と想像できます。

もし楊樹達が『太平御覧』を直接に見たのであれば、この闕字についての言及があってしかるべきでしょう。直接に見ていないからこそ、このような誤りが出たのです。また『婚礼謁文賛』「九子之墨」の出所を『太平御覧』巻六百二(正しくは六百五)と誤るのも、『全後漢文』の誤りの踏襲です。

楊樹達が厳可均の誤りを引き写してしまったという推測は、まず間違いありません。この種の誤りが多いところが『漢代婚喪礼俗考』の信頼性を傷つけてしまっており、これは残念なことです。『漢代婚喪礼俗考』の版を新しく作る際には、こういった誤りを是非とも修正すべきでしょう。

陳寅恪関連年表


陳寅恪(1890-1969)の人生は波瀾に満ちており、その経歴を追うだけでも一苦労です。そこで陳氏に関連する事項を集めて、年表にしてみました。下記のリンクから御覧ください。

分かりづらいところがありましたら、ご指摘ください。改善いたします。

陳寅恪関連年表
陳寅恪関連年表

陳寅恪略年譜


1951年夏
1951年夏

陳寅恪(1890-1969)については、すでに2種のきわめて詳細な年譜が編まれています。

  • 蔣天樞撰『陳寅恪先生編年事輯』 上海古籍出版社,1997年,増訂本
  • 卞僧慧纂,卞學洛整理『陳寅恪先生年譜長編(初稿)』 中華書局,2010年,清華大學國學研究院四大導師年譜長編系列

これらは陳寅恪の人物を知る上で欠かせないものですが、あまりに詳しいものであり、これらにより手早く陳氏の人生を概観するわけにはゆきません。そこで、『中國現代學術經典 陳寅恪卷』(2002年,河北教育出版社)所収「陳寅恪先生學術年表」を参考として、陳氏の経歴をまとめてみました(一部、他の資料を参考に変更を加えました)。年齢は数えとなっています。

中国では陳寅恪について、たくさんの伝記が書かれ、多くの証言がなされていますが、日本では陸鍵東中国知識人の運命―陳寅恪最後の二十年』( 野原康宏、田口一郎、福田知可志、荒井健訳。平凡社、2001年)以外、ほとんど紹介がなされていません。こうして、一覧しておくのも、あながち無意味ではないでしょう。

  • 1890年 1歳 旧暦5月17日、湖南省長沙市にて出生。父は陳三立、母は兪氏。
  • 1895年 6歳 二兄の隆恪とともに家塾で学ぶ。祖父の陳宝箴が湖南巡撫となる。
  • 1898年 9歳 戊戌政変が発生、祖父と父が失脚。南昌に移る。
  • 1902年 13歳 長兄の陳衡恪とともに日本に留学、1905年に帰国。
  • 1907年 18歳 上海復旦公学に入学。
  • 1909年 20歳 復旦公学を卒業、ドイツのベルリン大学に留学。
  • 1913年 24歳 フランスのパリ大学に留学。翌年、上海に戻る。
  • 1919年 30歳 アメリカのハーバード大学に留学、サンスクリット・ギリシャ語を学ぶ。
  • 1921年 32歳 ドイツのベルリン大学に留学、サンスクリット・パーリ・チベット語を学ぶ。
  • 1925年 36歳 清華に国学研究院が設置され、「導師」として招聘されたが、一年の休暇。
  • 1926年 37歳 国学研究院導師に着任。
  • 1927年 38歳 王国維が自殺。
  • 1928年 39歳 唐篔と結婚。清華園学校から清華大学へと改称。
  • 1929年 40歳 梁啓超が逝去。
  • 1930年 41歳 中央研究院が成立し、歴史語言研究所の理事、研究員となる。
  • 1937年 48歳 盧溝橋事件が発生。父が逝去。一家で南遷し、香港を経て昆明に至る。
  • 1938年 49歳 西南聯合大学で教える。
  • 1940年 51歳 英国の王立協会の会員に選出され、オックスフォード大学の教授に招聘されるが、戦争の影響で渡欧できず香港に居留。
  • 1941年 52歳 太平洋戦争が勃発、香港に留まる。
  • 1942年 53歳 桂林にわたり、広西大学で教える。
  • 1943年 54歳 成都にゆき、燕京大学で教える。
  • 1945年 56歳 両目とも失明。王立協会の要請に応じ渡英、目の治療を受けるも不成功。
  • 1947年 58歳 清華大学が再建し、教職に復帰。
  • 1948年 59歳 年末、北京を逃れ南京・上海へ。
  • 1949年 60歳 広州に移り、嶺南大学の教授となる。
  • 1953年 64歳 嶺南大学が再編され、中山大学となる。
  • 1954年 65歳 中国科学院歴史第二所の所長となるよう要請されるも、拒否。
  • 1958年 69歳 新聞などで公に批判を受けるようになる。大学での講義を停止。
  • 1962年 73歳 入浴時に転倒し、右足を折る。
  • 1966年 77歳 文革が始まる。
  • 1969年 80歳 10月7日(旧暦の8月26日)、逝去。

家柄から言うと陳寅恪はたいへんな名門に生まれ、若くして日本・ドイツ・スイス・フランス・アメリカなどの海外にて学ぶ機会をも得、大いに恵まれていたというべきでしょう。そこで学んだことを教育に活かし、大いに清華で教育を施したわけです。

1925年から1937年まで、清華の「導師」をつとめ、多くの学生を育成したことは、華やかな事跡でした。ところが1937年7月7日、盧溝橋事件が起こり、清華大学も北京大学も北平(北京)から避難して「南遷」し、雲南省にて西南聯合大学が成立します。陳寅恪も清華大学とともに、北京から逃がれて南遷するのですが、ここから陳氏の不安定がはじまります。

修学期に多くの地で学んだことで、陳氏は大いに知的刺激を受けたはずですが、1937年以降の転変は不必要な不安定であったと思うのです。1945年に完全に失明してしまったのも、この間の苦労が影響したはずです。

しかも終戦後に清華大学が北京に戻り、それにともない、陳氏も一旦は北京に戻るのですが、共産革命直前の1948年の年末、再び「南遷」し、広州の嶺南大学の教授となって、その嶺南大学ものちに中山大学となり、そこで陳氏も過ごします。共産中国における陳氏の生活は、不幸そのもので、1966年からはじまった「文化大革命」はその不幸を決定的にし、陳氏は失意のうちに亡くなりました。

陳寅恪の名を聞くたびに、私の胸中にはそのような陳氏の栄光と不遇とが去来するのです。このように略年表をお示しすることで、陳寅恪を親しく感じていただければ幸いです。

中国近代学者 | Preceden


Cask Strengthというブログをお書きになっている、consigliereさまには、日ごろ様々なことを教えていただいておりますが、今日は、ウェブ上で年表を作成できるサービス、Precedenというものを紹介していただきました。簡単に年表を作ることができて、たいへんに便利です。有料版もありますが、しばらく無料版を利用させてもらう予定です。

さっそく、中国近代、及び清末の学者たちの生没年を年表にしてみました。よろしければご利用ください。下記のリンクをクリックして、内容をご覧ください。

中国近代学者
中国近代学者

今後も、年表化できることを思いつけば、いくつか作成して皆さまにご利用いただきたいと思います。

『積微居甲文説』


『説文解字』に興味を持っているにも関わらず、これまで甲骨文・金文などの古文字については、まとまった勉強をしてきませんでした。先週、ふと思い立って、甲骨文を学び初め、まず一通り、初級の内容は習得したようなので、一歩進んで、楊樹達(1885-1956)の『積微居甲文説』を読んでみました。

楊樹達『積微居甲文説・耐林廎甲文説・卜辭瑣記・卜辭求義』
上海古籍出版社,1986年,「楊樹達文集」5

『積微居甲文説』の構成は、こうなっています。

卷上 說字之文(凡33篇)

  • 第1類 識字之屬(凡11篇)
  • 第2類 說義之屬(凡13篇)
  • 第3類 通讀之屬(凡6篇)
  • 第4類 說形之屬(凡3篇)

卷下 考史之文(凡20篇)

  • 第1類 人名之屬(凡7篇)
  • 第2類 國名之屬(凡5篇)
  • 第3類 水名之屬(凡2篇)
  • 第4類 祭祀之屬(凡2篇)
  • 第5類 雜考之屬(凡4篇)

あわせて53篇、1953年の自序がつけられており、1940年代以後、随時、書きためられたもののようです。上巻「說字之文」は文字自体に即した考証で、下巻「考史之文」は史実に即した考証となっています。

20世紀の初頭、殷の甲骨文の存在が知られるようになって以来、幾多の学者が研究を重ね、1940年代には、すでに相当の学説が蓄積されていたようです。楊氏のこの研究も、序文に明記されているとおり、王国維(1877-1927)、郭沫若(1892-1978)らの学説を踏まえ、独自の見解を提示したものです。

上巻「說字之文」は、いかにも小学家の面目躍如という印象で、『説文解字』に対する習熟はさすがと思いました。下巻「考史之文」では、後世の文献と比較して史実の考証が行われていますが、さらに第5類、雜考之屬「甲骨文中之四方風名與神名」では甲骨文に見える四方の風とそれを司る神の儀礼が明かされており、また「甲文中之先置賓辭」では目的語の倒置という文法現象が説明されるなど、豊富な内容を備えています。

私はかねがね、楊樹達の考証を尊敬してきましたが、如何せん古文字を知らないので、彼の著作の大部分を鑑賞できずにおりました。この機会に本書を読むことができ、大いに満足しております。今日の研究水準からすると、すでに古くなっている部分も多いかと思いますが、しかしそれでも私はここを足がかりに漢語を見てゆきたいと思っております。

思い出話を一つ。今世紀初頭のことでしたが、京都の清水寺にて、有名な白川静氏(1910-2006)のご講演をうかがったことがあります。その中で、白川氏は聴衆に向かい、「甲骨文は一週間もあれば、基礎が習得できるのですよ」とおっしゃいました。聴衆の多くは白川氏のファンらしく、そのことばを碩学一流のユーモアと受け止め、笑い声が起こりました。しかし私はその時、「これは、きっと本当のことだろうな。いつか一週間の時間を費やし、甲骨文を学んでみよう」と思ったのでした。今回、その機が到来したというわけです。もちろん、門外漢のにわか勉強にすぎませんが、読める字が増えたこともまた事実であり、そのきっかけを与えてくださった白川氏の学恩に感謝しております。

鄭灼の伝記


昨日、『礼記子本疏義』という文献が我が国に古くから伝えられていることを申しました。中国では後に滅びてしまった書物ですから、ただ一巻が現存するのみとはいえ、大変に貴重なものです。

同書は『礼記』の義疏であり、梁の皇侃(488-545)の説を主とし、その弟子、鄭灼(514-581)が説を補ったもののようです。『日本国見在書目録』に「『礼記子本疏義』百巻、梁国子助教皇侃撰」と著録されるものと同じ書物のはずですが、いたるところに「灼案」の語が見えるので、鄭灼の撰と考えるのがより妥当であろうと思います。

その鄭灼の伝記が、『陳書』儒林伝、鄭灼伝に見えますので、訳出しておきます。

鄭灼は、あざなは茂昭、東陽信安(今の浙江省)の人であった。祖父の鄭惠は、梁の衡陽太守をつとめた。父の鄭季徽は、通直散騎侍郎、建安令をつとめた。

灼は幼いころから聡明で、儒学を志し,若いころに皇侃の教えを受けた。梁の中大通五年(533)、官途について奉朝請となった。員外散騎侍郎、給事中、安東臨川王府記室参軍を歴任し、平西邵陵王府記室に転じた。簡文帝が皇太子であったころ(531-549)、常日頃、灼の学問を愛し,灼を引き立てて西省義学士とした。承聖年間(552-555)、通直散騎侍郎に任命され、国子博士を兼ねた。しばらくして威戎將軍となり、中書通事舎人を兼ねた。

(陳の)高祖、世祖の時代(557-566)、安東臨川、鎮北鄱陽二王府諮議参軍を経て、中散大夫に遷り、その職を持したまま国 子博士を兼ねた。これを拝する前に、太建十三年(581)に亡くなった。年、六十八歳。

灼は学問に打ち込む人であり、とりわけ三礼に明るかった。若いころ、このような夢を見た。道で皇侃に出会ったところ、侃が灼に「鄭君、口を開けたまえ」という。すると侃は灼の口の中につばを吐いた。この夢を見た後、 礼学の義理の理解がますます進んだという。灼は家が貧しく、義疏を書き写しては日に夜を継ぐほどであり、筆がすり減ってしまうと、削りなおして使った。灼は常日頃、蔬食しており、授業のときにいつも心臓のところが熱くなって苦しんだが、 瓜の季節などには、寝転んで瓜を食べて心臓を鎮め、また起き上がっては経書の誦読を続けた。かくのごとく熱心であった。

皇侃から直接教えを受けるのみならず、口につばを吐いて入れられる夢を見て、それにより礼の学問が進んだという鄭灼。何とも生々しい話です。その皇侃と鄭灼との合作である『礼記子本疏義』が、わずか一巻ばかりとはいえ、我が日本に伝えられているのも、実に縁の深い話であろうと思うのです。

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阮裕の信仰


阮略の子孫の名を見ていると、ひとつの事実に気がつきます。阮晞之・阮歆之・阮長之・阮彌之・阮胤之・阮彦之・阮履之と、名前に「之」字をもつ人が多いことです。

陳寅恪氏「天師道與濱海地域之關係」(『金明館叢稿初編』上海古籍出版,1980年)によると、六朝時代、道教徒の間で、名前に「之」をつける習慣があったということですから、阮氏の一家は家族の信仰として、もともと道教を共有していたと、ひとまず推測することができます。陳氏の考証の詳細については、また機会を改めてご紹介します。

その陳留の阮氏の信仰について調べる過程で、『世説新語』尤悔篇に次の一段があることを知りました。

阮思曠奉大法,敬信甚至。大兒年未弱冠,忽被篤疾。兒既是偏所愛重,為之祈請三寶,晝夜不懈。謂至誠有感者,必當蒙祐.而兒遂不濟。於是結恨釋氏,宿命都除。
阮思曠(阮裕)は仏法を信奉し、完全に帰依していた。その長男は成人前、急に重い病にかかってしまった。阮裕はこの子をとりわけ愛しており、そのために三宝を祈り、昼夜を分かたず勤行した。「真心をもって仏の感応を得られたならば、きっとおたすけいただけるにちがいない」と思ったのであるが、子はそのまま助からなかった。そこで仏教をうらむようになり、宿命の教え(仏教)をまったく辞めてしまった。

阮裕の懸命な祈祷もむなしく、長男の阮牖(阮傭とも)が若死にしてしまい、それで阮裕は仏教から離れた、というわけです。

阮裕の三男、阮普は、『建康実録』では阮普之と呼ばれています。「之」字を名前に含む道教徒の名を資料に書く場合陳寅恪氏も指摘するとおり、「之」字を省く例は、たいへんに多いのです。それゆえ、阮裕の三男の名は阮普之であり、時には阮普とも呼ばれた、と考えてよさそうです。

そうであるとすると、長男を失ったことを転換点として、阮裕は仏教から道教へと信仰を変えた、このように推測できます。そこから、家族の信仰も変化したのでしょう。子孫の名に「之」字を含む者が多いことも、これによって説明できるように思われます。

その一方で、陳留の阮氏からは熱心な仏教徒も多く出ており、阮孝緒もその一人です。道教を信仰する家から仏教徒が出たことについては、次の問題として考えなければなりません。

また、阮氏の道教信仰の実態は、今のところ、まったく明らかでありませんので、その方面も解明が必要でしょう。

阮孝緒の家系


陳留阮略世系
陳留阮略世系

阮孝緒(479-536)は、陳留尉氏(現在の河南省開封近郊)の出身。建安七子のひとり、阮瑀(?-212)や、その子の阮籍(210-263)と同族に属する、貴族の一員です。

阮孝緒の血統を溯り、系図を作ってみました。右の画像をクリックしてみてください。今回は、父子関係のみの系図です。

『晋書』巻49、阮籍伝には、阮籍以外にも、陳留尉氏の阮氏が収められており、その中に阮略という人物とその一族が見えます。阮略を初代にすえると、第8代の阮孝緒らまでをたどることができます。

なお、宋本『世説新語』(尊経閣文庫蔵)には、汪藻「世説叙録」という資料が附刻されており、その中に「人名譜」がついています。「陳留尉氏阮氏譜」(以下、「阮氏譜」と略)が含まれており、参考になります。現在、宋本の影印本が手元にないので、楊勇氏『世説新語校箋』修訂本(中華書局、2006年)によりました。

「阮氏譜」によると、阮瑀の父、阮敦は、阮略の兄です。つまり、阮略は阮瑀の叔父という関係となります。

  • 第1代

阮略。官は斉郡太守(「阮氏譜」は斉国内史)。(『晋書』巻49)

  • 第2代

阮顗。官は淮南内史(「阮氏譜」は汝南太守)。略の子。(『晋書』巻49)

  • 第3代

阮放、字は思度。官は黄門侍郎、交州刺史。顗の子。(『晋書』巻49)
阮裕、字は思曠。顗の子、放の弟。官は金紫光禄大夫。(『晋書』巻49)(『世説新語』徳行篇注引『阮光禄別伝』)(『宋書』巻92、『南史』巻70)

  • 第4代

阮晞之。放の子。官は南頓太守。(『晋書』巻49)
阮牖(『晋書』、「阮氏譜」では「阮傭」に作る)、字は彦倫(『阮氏譜』による)。裕の長男。早世した。(『晋書』巻49)(『世説新語』尤悔篇注引『阮氏譜』)
阮寧。裕の二男。官は鄱陽太守。(『晋書』巻49)
阮普(『建康実録』では「普之」)。裕の三男。官は驃騎諮議参軍。(『晋書』巻49)(『宋書』巻92、『南史』巻70)(『建康実録』巻14)

  • 第5代

阮歆之。牖の子。官は中領軍。(『晋書』巻49)(『広弘明集』巻3)
阮腆之。(『晋書』巻49、「阮氏譜」では「腆」。)寧の子。官は秘書監。(『晋書』巻49)(『晋書』巻10)
阮万齢。寧の子、腆之の弟。(『晋書』巻49)
阮長之。字は茂景(『南史』、「阮氏譜」では「景茂」)。普の子。官は臨海太守。(『宋書』巻92、『南史』巻70)(『建康実録』巻14)

  • 第6代

阮彌之。歆之の子。官は交州刺史。(『晋書』巻49)(『宋書』巻97、『梁書』巻54、『南史』巻78)
阮慧真。歆之の子。官は臨賀太守。(『広弘明集』巻3)
阮師門。長之の子。官は原郷令。(『宋書』巻92、『南史』巻70)

  • 第7代

阮胤之。慧真の子。(『梁書』巻51、『南史』巻76)
阮彦之。慧真の子、胤之の弟。官は大尉従事中郎。(『梁書』巻51、『南史』巻76)(『広弘明集』巻3)
阮韜、字は長明。裕の玄孫。官は侍中。(『南斉書』巻32、『南史』巻24)(『建康実録』巻16)(『続高僧伝』巻五)
阮晦。裕の玄孫、韜の弟か。官は光禄。(『続高僧伝』巻五)(『高僧伝』巻十一)

  • 第8代

阮履之。彦之の子。(『梁書』巻51、『南史』巻76)
阮孝緒、字は士宗。彦之の子、履之の弟。(『梁書』巻51、『南史』巻76)

阮氏の本貫は陳留尉氏(河南省開封近郊)ですが、4世紀初頭、永嘉の乱のころ、洛陽貴族たちとともに南遷して建康に至りました。移住したのは、おそらく阮顗と、その子の阮放・阮裕らではなかったか、と推測しています。東晋時代、阮裕は建康の社交界における注目の的となり、『世説新語』には多くの逸話が伝えられています。

阮氏の子孫たちは、その後、南朝末期に至るまで、基本的には建康に居を構えたようです。