カテゴリー別アーカイブ: 楊樹達

『漢代婚喪礼俗考』の引書


このごろ同志社大学大学院の授業で、楊樹達(1885-1956)の著書、『漢代婚喪礼俗考』(商務印書館、1933年)を読んでおります。漢代の習俗を理解するための良い手引きですし、この際、楊樹達の書いたものをもう少し読んでおきたいという気もありました。

もちろん内容はしっかりした書物なのですが、本書の中にたくさん引用されている資料について、少しばかり問題を感じています。『漢書』『後漢書』などについては問題ないものの、それ以外の書物を引用する場合、かなり明白な「孫引き」が存在しているのです。

後漢の鄭衆の『百官六礼辞』、『婚礼謁文』(及び『婚礼謁文賛』)は、後漢時代における婚礼のあり方を伝える重要な文献でありながら、今は失われており、『通典』や『藝文類聚』『初学記』『太平御覧』などに引用された佚文を利用するしか手がありません。

楊樹達も『通典』や類書などの名を挙げて資料を並べますが、実は、直接に資料を見ていない可能性が濃厚です。楊氏の列記する資料に誤字が多いことが気になり、調べてみたところ、その誤りが厳可均(1762-1843)『全後漢文』巻二十二の誤りを踏襲するのではないか、と、思いあたりました。受講生の堀祐輔さんも資料に当たって、その推測を補強してくださいました。

『全後漢文』は、厳可均の『全上古三代秦漢三国六朝文』746巻の一部で、後漢時代の佚文を網羅的に集めた書物。そこには鄭衆の書物の佚文も集めてあるので、どうやら楊樹達はこれをそのまま拝借したようです。その際に誤字まで引き継いでしまったのでしょう。

一例を挙げると、第一章「婚姻」第二節「婚儀」に引く『婚礼謁文賛』に、『太平御覧』巻八百三十からとして、次の資料を載せます。

長命之縷,女工所為。

これは、『全後漢文』も同文ですが、現在、『太平御覧』を読む際によく利用されている四部叢刊三編本では、以下の通りとなっています(句読は私に加えたもの。以下同じ)。

長命之縷,女工所制。縫君子裳,高松為例。

「制」「例」と韻を踏み、こちらこそが完全な文であるはずで、『全後漢文』の引用は文が崩れていることが分かります。

張刻『太平御覧』
張刻『太平御覧』

ちなみに、清朝の『太平御覧』の版本はいくつかありますが、たとえば嘉慶十四年(1809)の張海鵬従善堂刊本では、以下のように作っています。

長命之縷,女工□□□□所為例。

つまり、「所」の上の四文字が闕字になっているのです。おそらく厳可均が見た本にも似たように闕字があったのでしょう。もしかすると、厳可均は張海鵬刊本そのものを見たのかもしれません。そして、苦し紛れに「女工所為」の形に仕立てた、と想像できます。

もし楊樹達が『太平御覧』を直接に見たのであれば、この闕字についての言及があってしかるべきでしょう。直接に見ていないからこそ、このような誤りが出たのです。また『婚礼謁文賛』「九子之墨」の出所を『太平御覧』巻六百二(正しくは六百五)と誤るのも、『全後漢文』の誤りの踏襲です。

楊樹達が厳可均の誤りを引き写してしまったという推測は、まず間違いありません。この種の誤りが多いところが『漢代婚喪礼俗考』の信頼性を傷つけてしまっており、これは残念なことです。『漢代婚喪礼俗考』の版を新しく作る際には、こういった誤りを是非とも修正すべきでしょう。

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『積微居甲文説』


『説文解字』に興味を持っているにも関わらず、これまで甲骨文・金文などの古文字については、まとまった勉強をしてきませんでした。先週、ふと思い立って、甲骨文を学び初め、まず一通り、初級の内容は習得したようなので、一歩進んで、楊樹達(1885-1956)の『積微居甲文説』を読んでみました。

楊樹達『積微居甲文説・耐林廎甲文説・卜辭瑣記・卜辭求義』
上海古籍出版社,1986年,「楊樹達文集」5

『積微居甲文説』の構成は、こうなっています。

卷上 說字之文(凡33篇)

  • 第1類 識字之屬(凡11篇)
  • 第2類 說義之屬(凡13篇)
  • 第3類 通讀之屬(凡6篇)
  • 第4類 說形之屬(凡3篇)

卷下 考史之文(凡20篇)

  • 第1類 人名之屬(凡7篇)
  • 第2類 國名之屬(凡5篇)
  • 第3類 水名之屬(凡2篇)
  • 第4類 祭祀之屬(凡2篇)
  • 第5類 雜考之屬(凡4篇)

あわせて53篇、1953年の自序がつけられており、1940年代以後、随時、書きためられたもののようです。上巻「說字之文」は文字自体に即した考証で、下巻「考史之文」は史実に即した考証となっています。

20世紀の初頭、殷の甲骨文の存在が知られるようになって以来、幾多の学者が研究を重ね、1940年代には、すでに相当の学説が蓄積されていたようです。楊氏のこの研究も、序文に明記されているとおり、王国維(1877-1927)、郭沫若(1892-1978)らの学説を踏まえ、独自の見解を提示したものです。

上巻「說字之文」は、いかにも小学家の面目躍如という印象で、『説文解字』に対する習熟はさすがと思いました。下巻「考史之文」では、後世の文献と比較して史実の考証が行われていますが、さらに第5類、雜考之屬「甲骨文中之四方風名與神名」では甲骨文に見える四方の風とそれを司る神の儀礼が明かされており、また「甲文中之先置賓辭」では目的語の倒置という文法現象が説明されるなど、豊富な内容を備えています。

私はかねがね、楊樹達の考証を尊敬してきましたが、如何せん古文字を知らないので、彼の著作の大部分を鑑賞できずにおりました。この機会に本書を読むことができ、大いに満足しております。今日の研究水準からすると、すでに古くなっている部分も多いかと思いますが、しかしそれでも私はここを足がかりに漢語を見てゆきたいと思っております。

思い出話を一つ。今世紀初頭のことでしたが、京都の清水寺にて、有名な白川静氏(1910-2006)のご講演をうかがったことがあります。その中で、白川氏は聴衆に向かい、「甲骨文は一週間もあれば、基礎が習得できるのですよ」とおっしゃいました。聴衆の多くは白川氏のファンらしく、そのことばを碩学一流のユーモアと受け止め、笑い声が起こりました。しかし私はその時、「これは、きっと本当のことだろうな。いつか一週間の時間を費やし、甲骨文を学んでみよう」と思ったのでした。今回、その機が到来したというわけです。もちろん、門外漢のにわか勉強にすぎませんが、読める字が増えたこともまた事実であり、そのきっかけを与えてくださった白川氏の学恩に感謝しております。

陸心源の肖像印


陸心源肖像印 『積微翁回憶録』(上海古籍出版社、1986年)から、ひとつ。

1930年7月12日、長澤規矩也に連れられ、楊樹達が東京世田谷の静嘉堂文庫を訪問したことを、数日前に書きました。当日の記録を『積微翁回憶録』から抜いておきましょう。

又到静嘉堂文庫,庫藏宋元本一、二百種,不能盡覽,僅閲二十餘種。一為『莊子』成疏,字大悦目,黎蒓齋、楊惺吾皆有跋,為『古逸』本所自出。一為蜀大字本『周禮』鄭注,黄蕘圃舊藏,印有陸存翁六十五歳小像印記,此以前藏書家所未有也。陸氏藏書盡售於庫,故有此。…。(p.50)

文中に見える「陸存翁」は、著名な蔵書家であった陸心源(1834-1894)、あざなは剛甫、室名は存斎、浙江帰安の人。陸氏の蔵書、「皕宋楼」は岩崎氏の静嘉堂文庫に売却されましたが、その陸氏の「六十五歳小像」の印が『周礼』に捺してあった、というわけです。

これに対し、楊樹達の甥であり、『楊樹達文集』編輯委員会の主編でもある楊伯峻(1909-1992)は、次の按語をつけています。

伯峻謹案:陸心源〔1834-1894〕年僅六十一,未至六十五,疑小像印記有偽。

楊伯峻は、61才までしか生きなかった陸心源が65才の印を作ったわけがないから、印は偽物でないか、というのですが、事の真相は、こうです。『周礼』等に捺してある印の印文は、正しくは「存齋四十五歳小像」なのです。篆文では「四」の字と「六」の字がよく似ており、楊樹達は「六」と見間違えたのでしょう。その誤りの上に、甥の楊伯峻がわざわざ「疑小像印記有偽」などという、的はずれな按語をつけてしまったのです。

古文字学の大家、楊樹達の誤りも決して誉められたものではありませんが、楊伯峻の疑いはいかにも軽率です。

それに以外にも、いくつかの誤字を見受けましたので、メモしておきます。

  • 石田幹之助(1891-1974)の「幹」を「韓」に誤る(p.48)。
  • 野口正之の「口正」を誤って合して一字とする(p.122)。
  • 東久邇宮の「久」を「文」に誤る(p.229)。
  • 「貢職圖」の「職」を「織」に誤る(p.277)。
  • 「天官陰陽」の「官」を「宮」に誤る(p.301)。

『積微翁回憶録』は民国時代の学界を知る絶好の書物なのですから、再印の時には是非とも修正してもらいたいものです。

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1930年、楊樹達の日本再訪


清朝の末期、楊樹達(1885-1956)が国費留学生として来日し、東京・京都で学んだことを先日、紹介しました。時は過ぎて1930年、再び日本を訪れる機会が、46歳の楊樹達にめぐってきました。

これは日本側が資金を準備して、楊樹達ら知識人を日本に招待したものでした。当時、日本政府が外務省管轄の文化事業部という部局を設けて行った「東方文化事業」の一環です。この東方文化事業は、因縁深いものです。ことは19世紀末に起こった義和団の乱(「庚子事変」)に溯ります。義和団は光緒26年(1900)、イギリス・アメリカ・ロシア・フランス・ドイツ・オーストリア・イタリア・日本の連合軍により北京に籠もった義和団は鎮圧され、1901年、「北京議定書」(「辛丑条約」)が交わされ、清国は列強に対して歳入10年分にも及ぶ気の遠くなるような賠償金を負う約束をします。

日本も連合軍中の一国として賠償金を受け取りますが、余りにも巨額であったため、その一部を中国に関わる文化事業に還元することになり、設立されたのが、対華文化事業部でした。詳しくは、山根幸夫『東方文化事業の歴史-昭和前期における日中文化交流』(汲古書院、2005年)をご参照ください。

このような因縁から生まれたのが、楊樹達の日本再訪でした。1930年6月23日、楊樹達は張貽恵・陳映璜・曾仲魯・柯某(名は未詳)とともに、北京を出発します。瀋陽・ソウルを陸路通過し、釜山から乗船して、6月28日、下関に上陸します。その後、日本各地を旅行し、名士たちと交流し、7月23日、中国に戻りました。ちょうど一月に及ぶ旅行でした。

その道程を詳しく紹介することは避けますが、訪れた土地土地で面談した日本の名士たちとの学術交流、そして各地の図書館で彼らが見た本の数々は、大いに目を楽しませます。以下、日時と訪問先、人名を挙げてみましょう。敬称は省略します。

  • 6月26日、ソウル。朝鮮総督府附属博物館・朝鮮故皇室宮殿・科学館・京城帝国大学。辛島驍助、藤塚鄰。
  • 6月29日、別府温泉。
  • 7月1日、大阪。朝日新聞社・上甲子園・宝塚動物園。
  • 7月2日、奈良。奈良公園・春日神社・東大寺・女子高等師範学校。
  • 7月3日、京都。京都大学。狩野直喜。
  • 7月4日、京都。京都府立第一中学・同志社大学・比叡山・琵琶湖。吉田卯三郎。
  • 7月5日、京都。御所・二条離宮・桂離宮・島津工場。
  • 7月6日、名古屋、犬山。八木幸太郎・一柳智成。
  • 7月7日、名古屋。真福寺・徳川公邸・第八高等学校。八木幸太郎。
  • 7月9日、東京。東洋文庫。長沢規矩也・石田幹之助。
  • 7月10日、東京。宮内省図書寮。塩谷温・長沢規矩也。
  • 7月11日、東京。東京帝国大学。
  • 7月12日、東京。東京文理科大学・上野図書館・静嘉堂文庫。諸橋轍次・長沢規矩也。
  • 7月14日、東京。内閣文庫・帝国教育会館。長沢規矩也・坪上貞二(文化事業部長)・塩谷温・国枝元治。
  • 7月15日、東京。古城貞吉。
  • 7月16日、東京。学士会館。服部宇之吉・諸橋轍次・塩谷温・宇野哲人・中山久四郎・小柳司気太・阪島忠夫・山田準慶・前川三郎・古城貞吉・高田真治・平野彦次郎・寺田范三・細田謙蔵・佐久節・竹田復・山本邦彦。
  • 7月17日、東京。山本邦彦・古城貞吉。

その間、各地の図書館で、『古逸叢書』の底本となった善本をはじめとする、古刻旧鈔を大量に参観していますが、東京での差配は主に長沢規矩也によるようです。また、7月16日、学士会館で開かれた大宴会には、ご覧の通り、当時の錚々たる漢学者が名を連ねており、まさに学界の佳話とも呼ぶべき華やかさです。

このような日本の漢学者との交流は、楊樹達の帰国後も続きます。しかしその一方で、1931年9月18日に瀋陽で起きた柳条湖事件を契機として(『積微翁回憶録』にも「聞日本強佔瀋陽消息」と見えます)、日中関係はどんどん悪化してゆきました。日本人に対する楊樹達の気持ちも複雑なものとなっていったことでしょう。1931年11月22日の記事に次のように見えます。

橋川時雄がやって来た。私は「日本人の侵略には理がない」と、きつく責めたが、彼も敢えて強く弁解したりはしなかった。

近代の日中関係の渦にまきこまれた人と人との交流は、「政治と学術とは切り離すべき」という建て前が通用しがたいほど入り組んだものであったように思われます。

楊樹達と陳三立


 楊樹達(1885-1956)と陳寅恪(1890-1969)とが親友であったことは、比較的よく知られたことです。楊樹達の回想録『積微翁回憶録』にも、陳氏が楊氏を「漢聖」と称し(1932年4月8日記事)、楊氏が陳氏の論文「四声三問」を「後人師法」と褒めており(1933年12月20日記事)、肝胆あい照らす仲であったことがよく分かります。

 驚いたのは、『積微翁回憶録』1933年12月17日の条に見える、次の記事です。

陳寅恪の父君、散原先生(陳三立)が療養のために北平に来たので、本日お目にかかった。寅恪は不在だったが、先生はすでに私を知っているらしく、「著述に意を注ぐように」などと私に言われた。おそらく、寅恪がすでにあらかじめ先生に(私のことを)言っておいてくれたのだろう。先生は私にむかって、時務学堂での試験で答案を採点したのは先生である、と告げられた。

  初対面だとばかり楊樹達が思っていた陳寅恪の父が、実は自分の入試答案の採点者であった、この事実を楊氏ははじめて知ったのです。長沙に時務学堂を建てた湖南巡撫の陳宝箴(1831-1900)が陳寅恪の祖父であることは、当然、楊氏もずっと認識していたことでしょう。しかし、清朝が滅亡して二十数年も経ったこの時、時務学堂にて「校閲試卷」した、と陳三立からだしぬけに告げられた楊氏は、さぞや驚いたのでないでしょうか。

  『中國近現代人物名號大辭典』を藍本にして、陳三立の伝記を略述しておきます。

陳三立(1852-1937)、江西義寧の人。あざなは伯厳、号は散原。光緒十五年(1889)の進士。吏部主事となる。戊戌変法の期間(1898)、父の湖南巡撫、陳宝箴を助けて、湖南の地で新政を施行した。政変後(1898)は、父子ともに左遷された。辛亥革命(1911)後は清朝の遺老として暮らし、杭州・潯陽あたりに隠居していたが、のちに南京にもどった。晩年には北平に移り、民族の大義を堅持し、日本の誘いにのらなかった。その詩は難解で、好んで奇字僻典を用い、「同光体」(同治・光緒ころ流行した詩体、陳三立も代表的作者の一)中の「生渋奥衍」派、と呼ばれた。著書に『散原精舍詩文集』。陳衡恪・陳寅恪の父。

 楊樹達は、陳氏一家との縁の深さをあらためて思ったことでしょう。なお陳寅恪も、楊樹達が来日当初に学んだ、弘文学院の学生だったことがあるのです。

1905年、楊樹達の日本留学


楊樹達像(湖南大学文学院) 楊樹達(1885-1956)、あざなは遇夫、号は積微、湖南長沙の人。「漢聖」(陳寅恪による)とまで称せられた漢代研究の巨人であり、また、清朝の小学と近代的な文法を繋いだ語言学者でもあります。

 その楊樹達が日記をもとに書いた回想録が面白い、という話は先輩たちから聞いていたのですが、ついつい機会を失していたのを、最近読み始めました。楊樹達『積微翁回憶録・積微居詩文鈔』(上海古籍出版社、1986年)。

 長沙の楊氏の家は、もともと豊かな農家であったそうで、本格的に学問を始めたのは楊樹達の父親の代から、とのこと。幼い頃、楊樹達は家庭教育を受けて育ちました。1897年、13歳の時、長沙に湘水校経堂が設立されると、楊樹達たちは、入学したいと思って見学にゆきますが、払う学費がありません。数学の授業を見ていた楊樹達が、従兄に向かって、「これは簡単だよね」と笑っていたのを学校の人に見つかり、特別試験を受けて特待生になったとのことです。

 同じ年の10月、湖南に時務学堂が作られ、その試験にも合格しています。毎日、午前中4時間は英語の学習、午後の2時間は国語の授業がありましたが、しかし、1日6時間の授業には体力的に耐えられず、やむなく中退。時務学堂自体も、1898年には解散してしまいますから、この時代、学校、受講生とも、中国の教育が不安定であったことが分かります。

 その後、時務学堂に代わって設立された求実書院などで学びますが、1905年、21歳の頃、友人の勧めや従兄の影響もあり、日本留学を希望するようになり、国費留学の試験を受けます。科挙を受けさせたがっていた祖父が反対しますが、「来年の郷試は、必ず戻ってきて受験するから」と説得し、従兄と二人、留学が決まりました。この年、科挙が廃止されてしまいましたから、祖父の願いはかないませんでしたが。

 武昌を経由して上海に至り、そこから船に乗りこみ神戸に上陸、さらに汽車で東京に向かいました。友人の周大椿という人が、先に留学していたので、小石川区三軒町(現在の文京区小日向)にあった彼の借家に同居することになりました。1906年9月、弘文学院大塚分校に入学、翌年の7月に卒業。1908年4月、第一高等学校に設けられた予科に入学し、翌年、卒業。1909年8月、京都に向かい、第三高等学校に入学しますが、1911年、武昌革命が起こり、本国から送られてくるはずの奨学金がストップし、帰国を余儀なくされます。

 6年に及んだ楊樹達の日本留学は、こうして、清朝の終焉とともにあっけなく終わってしまいました。一高予科の頃、皆で日光を旅行したことなどは描かれているものの、日本人との学術的な交流は、留学時期の『回憶録』から、まだうかがえません。しかしながらこの留学体験が、後年、楊樹達と日本人とを深く結びつける契機となったのです。

*楊樹達『積微翁回憶録・積微居詩文鈔』上海古籍出版社(『楊樹達文集』17;楊伯峻主編)、1986年。Webcat所蔵図書館は16館。