カテゴリー別アーカイブ: 伝記

阮孝緒の伝記資料


阮孝緒(479-536)、陳留尉氏(現、河南省開封市)の人、あざなは士宗。梁の時代に生きた偉大な目録家であり、普通四年(523)、当時、知りえた書物の網羅的な目録、『七録』を書きました。

その阮孝緒の伝記は、現在、3種あります。

  1. 『梁書』巻51、処士伝、阮孝緒伝。
  2. 『南史』巻76、隠逸伝下、阮孝緒伝。
  3. 『広弘明集』巻3の小伝。

『広弘明集』のものは、先日ご紹介したとおりですが、これはおおむね『南史』の伝に基づいており、それを節略したらしく思われます。

『梁書』の伝と『南史』の伝とを比較してみると、両者には出入があります。『広弘明集』の伝の内容はかなり簡略ですが、『梁書』の伝に含まれない記事があるので、『南史』(あるいはそれよりも詳しい別種の伝記)に依拠したものと推測できます。

しかし、そればかりではありません。『広弘明集』の伝には、『南史』の伝にも見えない記事があるのです。それは、阮孝緒の曾祖が宋中領軍の阮歆之であり、祖が臨賀太守の慧真であることが、『広弘明集』にのみ書かれている、ということです。これによって、阮孝緒の家系をたどることが可能となります。

また、伝の末尾に「編次佛、道,以為方外之篇,起於此矣。」と書き添えられていますが、これは『広弘明集』の編者、道宣の案語でしょう。

ただし『広弘明集』の阮孝緒伝は、つぎはぎが目立って読みにくく、また文字の誤りもあります。以下、少し問題のある部分を列挙してみましょう。

  • 孝緒年十三,略通五經大義。隨父為湘州行事,不書南紙,以成父之清。 「南紙」は、『南史』では「官紙」とします。父が湘州行事となった際、阮孝緒は役所の紙を使わなかった、ということのようです。
  • 常以鹿林為精舍,環以林池,杜絕交好,少得見者。 「鹿林」は、『梁書』『南史』とも「鹿牀」とします(前後の文章は異なります)。「牀」はベッドのこと、「鹿牀」でも意味が通らないので、あるいは「麁牀(粗牀)」の誤りかと推測します。
  • 南平元襄謂履曰 南平元襄王は、蕭偉、あざな文達、『梁書』巻22に伝が立っています(太祖五王伝)。『広弘明集』は「王」字を脱しているようです。
  • 王作『二闇』及『性情義』 「二闇」は、『南史』梁宗室伝下では「著二暗義」。『梁書』太祖五王伝、『冊府元亀』巻293では「著二旨義」。
  • 世祖著『忠臣傳』,集『釋氏碑銘』、『丹陽尹錄』、『妍神記』 「妍神記」は、『南史』では「研神記」。『隋書』経籍志(史部、雑伝)にも「『研神記』十卷,蕭繹撰」と見えるので、「研」が正しいようです。

これまで『梁書』と『南史』の阮孝緒伝の違いを見落としていましたが、この機会に少し調べてみて、いろいろと異同があることが分かり、有益でした。

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余嘉錫の没年


目録学者、余嘉錫の伝記については、その娘の余淑宜・娘婿の周祖謨両氏が書いた「余嘉錫先生学行憶往」(『中国文化』13期、1996年)が基本的な資料となります。この文章には、余嘉錫の晩年とその死を次のように伝えます。

1952年の秋、「元和姓纂提要辨證」の原稿を完成させたが、転倒して右足を傷つけ、脳溢血のために四肢が麻痺し、これ以降、筆を執って著述することができず、麗しい志は遂げられず、床から天井を見上げて嘆くしかなく、身の回りの世話をする人もなく、その苦痛は言い表しがたい。狭い部屋の中にいて、まるで牢屋のようで、食事の上げ下げの時にやっと人間に会うくらいで、離れて暮らしている人も五重の扉で、数十メートルも隔てられており、乙未の年(西暦1955年)の旧暦大晦日の夜、食事中に饅頭を詰まらせてしまったが、当時、そのもがき苦しみの惨状は、誰一人目撃者がなく、食事の片付けの時になってはじめて発見されたが、すでに息は全くなく、我々、余氏の子女たる者、痛恨の極みである。こうして一代の名家が恨みを抱いて亡くなり、人の世を離れた。時年、七十二歳であった。
1952年秋撰就「元和姓纂提要辨證」稿,摔傷了右股,因脳溢血而癱瘓,從此再不能提筆著述,美志未遂,仰屋興嘆,左右侍奉乏人,苦不堪言。居於斗室之中,如處囚牢,只有送飯,取碗時才能見到人,離活着的人有五重門之隔,数十米之遥,於乙未年(公元1955年)除夕之夜,吃飯時被饅頭所噎,當時挣扎之惨状,無一人目撃,直到取碗時才發現,人早已氣息全無了,為其子女者,能不痛心疾首!一代名家,就這樣含恨而終離開了人世,時年七十二歲。

この乙未の年は、西暦で言うと、1955年1月24日に始まり、1956年2月11日に終わりました。つまり、余嘉錫の亡くなった日は、旧暦で言うと乙未年十二月三十日、西暦で言うと1956年2月11日ということになります。

1996年、河北教育出版社から刊行された劉夢溪主編『中国現代学術経典』というシリーズは、なかなか有用なものでありますが、そのうち「余嘉錫 楊樹達巻」に収める「余嘉錫先生学術年表」では、「1955年、72歲。旧暦甲午除夕去世」と書いてあります。「甲午除夕」は誤りです。

中文版のwikipediaの「余嘉錫」項は、亡くなった日を「1955年1月23日」としており、「甲午除夕去世」に基づくらしいのですが、周祖謨・余淑宜「余嘉錫先生学行憶往」の「乙未年除夕」を正とすべきでしょう。

また、ほとんどすべての書物が余嘉錫の没年を西暦1955年としていますが、厳密に言うならば、1956年とすべきであると考えます。

我々が取り組んでいる科学研究費の研究計画「中国近代文献学―余嘉錫の総合的研究」では、余嘉錫の文献学をテーマとしています。「余嘉錫関連資料」と題して、略年表など、いくつかの知見をウェブサイトにて公開しております。あわせてご覧ください。

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半樹斎文


顧千里(1766-1835)にとって同郷の親友であった、戈襄(あざなは小蓮)。先日ご紹介した、その「贈顧子游序」は名文でした。内閣文庫蔵本の写真版が人文研にあるので、さっそく見てみました。

半樹齋文四卷 清 戈襄 撰

昭和四十四年 本所 用東京内閣文庫藏嘉慶三年序刊本景照 京大人文研 東方

巻頭に四つの序が冠せられています。

  • 錢大昕「半樹齋文藁序」
  • 袁枚「序」(嘉慶元年五月)
  • 顧広圻「序」(嘉慶二年五月)
  • 范熙「序」(嘉慶三年冬)

錢大昕(1728-1804)と袁枚(1716-1797)とは、実に豪華な顔ぶれで、親友たる顧千里と范熙も並んで序を寄せています。戈襄にとって、『半樹齋文』の出版は、この上なく晴れがましいことであったはずです。

范熙の序に「近頃、広東の東部から帰郷して、戈襄がみずから刻した『半樹齋文』四巻を見た」云々と言っているので、その序文が書かれた嘉慶三年(1798)に、戈襄みずから『半樹齋文』四巻を出版した、と考えられます。そういう意味では、前掲の書誌に問題はありません。

ところが、私が感激した「贈顧子游序」は、李慶氏『顧千里研究』(p.82)によると、『半樹齋文』卷10に収録されている、とのこと。しかもこの一文は、出版の二年後、嘉慶五年に書かれた、と。これ如何に?

不審に思い、『販書偶記』に当たってみると、『半樹齋文』には、(1)嘉慶年間に出版された四巻本と、(2)道光七年に出版された十二巻本が存在する、とのこと。李慶氏のご覧になったのは、後者であったに違いありません。

身近に十二巻本がないので、残念ながら「贈顧子游序」の全文を読むことはできませんでしたが、四巻本もなかなか興味深いものです。ほとんどの文に対して錢大昕や顧千里が簡単な評を加えているのも面白く感ぜられます。錢氏が「以小喩大,亦有見地」「奇挈自成一子」と評した「雨中蚊」上下篇(乙卯年1795の作、巻三所収)の冒頭を紹介してみましょう。

 蚊行于夏,不晝而夜。其來無方,其去莫知。雖百計使之斃,弗能絶。譬如小人,盈千累萬,君子縱斥逐之,放殛之,終無以盡,而于是得時者,多出其技,以噆人噬人,如蚊之所為,則蚊者小人之師也。

思わず読んでしまいます。戈襄は古文の名手として名を馳せたらしく、袁枚も錢大昕も高く評価しています。錢大昕の「置之韓(愈)、歐(陽修)集中而不能辨」という「達兒小誄」(巻四)に対する評も、あながち大げさではなさそうです。

さすがは顧千里の親友。興味深い人物です。

「段玉裁年譜訂補」


段玉裁(1735-1815)の年譜として知られるのは、劉盼遂(1896-1966)の『段玉裁先生年譜』です。近年に出版された鍾敬華校点『経韵楼集』(上海古籍出版社、2008年)にも附録として収められ、いよいよ便利になりました。

ただ『段玉裁先生年譜』は、1936年に来薫閣書店から『段王學五種』の一つとして出版されたものであり、今となっては古すぎます。その後、陳師鴻森先生の「段玉裁年譜訂補」(『中央研究院歴史語言研究所集刊』第60本、第3分、1989年)が発表されました。陳師の仕事は緻密そのものであり、劉氏の年譜はすでに塗り替えられており、段玉裁の人生を概観する際、現在では必ず陳師「訂補」を参照すべき情況です。

その嘉慶十二年丁卯(1807)の條に見える、段氏と顧氏の関係を、一部だけ訳しておきます。この一端からも、「訂補」の充実ぶりが知られるはずです。

まず、蕭穆『敬孚類稿』に録する方東樹(1772-1851)の識語が次のように引かれています。

 『十三経注疏校勘記』が完成すると、阮元は段玉裁に送って覆校してもらった。段氏は顧千里が校勘した『詩経』部分が段氏の説を用いていながら、その名を冠していないのを見ると、怒った。

(そこで)顧氏が校勘した部分について、段氏は理不尽に退け、そのまま(修正稿を)広州に送り、凌という姓の出版関係者に版を作らせたのだが、このことは(責任者である)阮元も、(担当者である)顧千里も知らなかった。それゆえ現行の『詩(注疏校勘記)』だけは体裁を成していないのである。

この一件は当時も知る人が無く、後世の人も分からないだろう。乙酉(1825)の八月、厳杰(1763-1844)が教えてくれたことだ。おそらく、それ以後に出版された諸経の正義は厳杰が自分で杭州に(原稿を)持って行って、段玉裁とともに校勘したのであろう。

陳師はこれを「『毛詩校勘記』について、段玉裁が覆校の際、恣意的な操作を行った」証拠として挙げ、さらに、次のようにいいます。

 劉盼遂『年譜』に、「顧千里が段先生に代わって(『詩経』を)校刊し、段先生の(『詩経』「甘棠」に関する)一条を削除してしまい」云々という箇所は、(顧千里に対する)的も無いのに矢を放つような言いがかりであり、また、ものの順序を顛倒したものでもある。

わたくしが考えるに、段氏・顧氏が不和になったのは、顧千里が阮元のために『毛詩校勘記』を編纂した際、時にあからさまに時にこっそりと、段氏の『詩経小学』と『毛詩定本小箋』の説を顧氏が論駁した結果である。

段氏はもともと人と争って勝つのを好む人で、それに、顧氏が阮元のために『校勘記』を書いたのは段氏の推挽によったのに、果たして段氏が顧氏の校記を審査してみると、ことごとく自分の説に楯突いているのを見て、たいへんに怒り、「顧千里の校勘に対して、理不尽に退けた」のであって、(その怒りは)さらに顧千里が前年(嘉慶11年)、張敦仁のために刊行した『礼記考異』にも及んで、反駁を加えたのであり〔その後はさらにその翌年に顧千里が胡克家のために著した『文選考異』にまで及んだ〕、そうして両者の(『礼記』の)学制に関する論争が起きたのであって、これが両者の仲が険悪となった経緯である。以上のことは、劉盼遂『年譜』では丁寧に考察されていない。 

両者の是非については、張舜徽氏『清人文集別録』巻12に、「わたくしから見ると、二人の感情的対立は、確かに段氏の方に非があり、『経韵楼集』「黄紹武に返答する手紙」を読んでも、当時の与論として段氏を非難する者が多かったことが分かる」(345頁)といっており、わたくしとしてもそのように考える。別に専論を用意して詳論するので、ここではいちいち述べない。

少なくとも、現段階で段氏顧氏の論争をお書きになる人は、昨日紹介した汪紹楹氏「阮氏重刻宋本十三經注疏考」とあわせて、この陳師「訂補」をも、踏まえて欲しいものだと思いました。

陳鱣の徒労


經籍跋文
經籍跋文

『禮記』祭義には「天子設四學,當入學而大子齒(天子は四つの学校を設置する。入学する時、太子は同級生と対等にふるまう)」とあり、その鄭玄注に次のように言います。

四學謂周郊之虞庠也。「文王世子」曰:「行一物而三善皆得,唯世子而已。其齒於學之謂也」。

この鄭注に見える「四」郊は、「西」郊の誤りである。これが顧千里(1766-1835)の主張です。その説は、以下の『禮記考異』という書物に見えます。

禮記二十卷 坿釋文四卷 坿考異二卷 漢 鄭玄 注 唐 陸德明 撰釋文 清 張敦仁 撰考異  

嘉慶十一年 陽城張氏 用宋撫州本景刊  8册

『禮記考異』は、張敦仁(1755-1833)という人物が宋版の『禮記』を覆刻した際につけられた附録です。著者は張敦仁ということになっていますが、実際には彼に雇われた顧千里が書いたもの。そこに書かれた顧氏の説が、段玉裁(1735-1815)の逆鱗に触れたのです。

この激しい論争の内容については、段玉裁の『經韵樓集』巻11、12に収められる、段氏・顧氏の往復書簡からその大体をうかがうことができます。若松信爾氏「段玉裁と顧千里の論争に関する一考察」(『東洋文化』106号、2011年)に論争の紹介があります。

ここではその論争自体には立ち入らず、この一件が及ぼした波紋を少し紹介します。段玉裁と顧千里、両者の間を取り持ち、争いによって生じた不和を解消しようという人物がいました。蔵書家として知られた陳鱣(1753-1817)です。『經籍跋文』は陳氏が経書の善本を読んだ記録ですが、そのうち「宋本禮記注跋」において、論争の内容を紹介した上で、次のように言っています。

是書(即『禮記考異』)初出,段懋堂大令作「禮記四郊疏證」申孫(即孫志祖)黜顧(即顧千里)。…。兩家遂成水火,余欲為調人,而終莫能解。嘗彙其書為一冊,題曰『段顧校讎編』,洪稚存編修見之曰:「正可對『朱陸異同辨』」,相與一笑。頃讀撫本『禮記』,故并及之。(『經籍跋文』。『校經山房叢書』所収本)

自分が間に入って調停しようとしたが、結局うまくゆかなかった。両者の論争を集めて『段顧校讎編』という一冊も作った。それを取り出して洪稚存、すなわち洪亮吉(1746-1809)に見せたところ、「朱子と陸象山との論争をまとめた、趙仲全の『朱陸異同辨』とつりあうな」と言うので顔を見合わせて笑った、というわけです。

『禮記考異』が出版されたのが嘉慶11年(1806)、段玉裁が怒ったのが翌12年。洪亮吉は嘉慶14年に亡くなっていますから、その頃には、彼らの周囲ではもう笑い話になっていたのでしょう。とはいえ、段氏が嘉慶20年に亡くなった後も、顧千里はなお「わだかまり」をもっていたようですから、本人たちにとっては一生解消できなかった対立であり、笑い話どころではありません。

なお、陳鱣の作った『段顧校讎編』の行方は知れません。汪紹楹「阮氏重刻宋本十三經注疏考」(『文史』第3輯、1963年)は、阮元の出版した十三經注疏に関する最も基本的な研究ですが、特筆すべきは、「附録」として6頁に及ぶ「段顧校讎篇」がつけられていることです。まさに陳鱣の意を汲んだものと言えましょう。段・顧の論争を考える上でも必備の文献です。

「段氏が嘉慶20年に亡くなった後も、顧千里はなお「わだかまり」をもっていた」と先に書きましたが、これも汪氏が引いた顧千里「重刻宋本儀禮疏後序」(道光10年、1830)によるものです。

顧千里の生き方


最近、なぜか顧千里(1766-1835)のことが妙に気にかかり、台湾出張の間も顧千里の年譜一冊を読みながら過ごしていました。李慶氏『顧千里研究』(上海古籍出版社、1989年)を久しぶりに取り出して読んだのです。

顧千里の事跡が綿密に調べ上げられており、完成度の高い年譜であり、そればかりでなく、この書物を読むことで顧氏の学問と人生が浮かび上がるように書かれています。初めて読んだ時の感動が今回もよみがえりました。

その中でも、最も心にのこったのは、嘉慶5年(1800)の年末、35歳の顧氏が地元の蘇州を離れて杭州へと旅立つに際して、古くからの親友である戈襄が彼に贈った文章です。阮元(1764-1849)が十三経注疏の校勘を行うための一員として、顧千里を杭州に招いたのです。誇り高い仕事ではありますが、とかく純粋にすぎて人と合わない顧氏の性格を、戈襄は深く憂慮しました。

顧子行端潔、性剛果、故出語恒觸人。醉後議事、尤中時要、而慢易人尤甚。即不慢人、習見者多徙席以辟。余之交顧子以此、而顧子之不合於世亦以此。今使顧子游而遂降其操、易其貞、非吾顧子矣。不降且易、則恐其識顧子者少、而遂至不能容也。況游士之紛雜瑣碎、此推彼翼、互譽交進、舉世一趨。乃所異者、獨吾顧子爾。顧子於游士之中下者、固奴畜之。其上者、亦非眉目間人、遇之當必有揮斥。不則、亦談笑置之、不與之同也、決矣。人見顧子之獨異、而妬且恨、又決矣。顧子誠明哲、其不能暢達所懷、而或幾乎有所沮止也、又決矣。(『半樹齋文』卷10「贈顧子游序」)

潔癖で、みずから持するところの高い顧千里が、杭州という未知の地でうまくやっていけるのか?それは、不可能であると思える。顧千里の性格は、杭州の人士との摩擦を必ず引き起こす。とはいえ、阮元のこの招きを断るわけにもゆかない。いかんともしがたい…。旅立つ顧千里に、戈襄はそのような序を贈りました。

これを読んだ顧千里は何を思ったのでしょうか。

戈襄が序を書いた二年後、嘉慶7年の暮れ、杭州の地でたくさんの学者と闘い、疲れた顧千里は、蘇州に戻りました。果たして戈襄の予言が的中したわけです。しかし、このことは戈襄のみならず、顧千里自身にもあらかじめ分かっていたことであったのかもしれません。

そのいさかいが事前に予測され得るものであったとはいえ、いったん事が大きくなると、もう後には引き返せません。杭州滞在中の二年間に蓄積された摩擦は、顧千里の生涯に大きな影を落としました。段玉裁(1735-1815)との対立がよく知られますが、それはやがて、親友の黄丕烈(1763-1825)との交友を破壊することにさえなりました。

私は近頃、そのような顧千里の生涯に思いを寄せてしまいます。校勘学の天才でありながら、ほかの学者との衝突ばかり繰り返した彼の人生は、一体、何であったのか?著作らしい著作も遺さず、他人のための校書に明け暮れた意味はあったのか?そういった疑問は、古典を学ぶ後輩であり、しかも人と合うことの少ない、自分が抱くべきものであるように思えるのです。

『啓功口述歴史』


啓功 『啓功口述歴史』(《启功口述历史》北京師範大学出版社、2004年)は、書法家、古典学者として名高い啓功氏(1912-2005)が生前に遺された歴史の証言です。出版後、中国ではかなり話題になっていましたが、今頃になって読んでみました。

 啓功氏は、雍正帝の10世の子孫、清朝の皇室に連なる人です。もっとも、曾祖父の溥良の頃には、だいぶ爵位も下がっており、溥良は爵位を捨てて科挙を受験して官人となったそうです。そして啓功氏の父親が早く亡くなったこともあり、啓功氏の一生は、清室の貴人ということばから連想される華やかさとはほど遠いものであったことが、この書物を通して分かります。

  • 第1章 我的家族
  • 第2章 我的童年和求学之路
  • 第3章 我与辅仁大学
  • 第4章 我与师大
  • 第5章 学艺回顾

 みずからの家系から説き起こして、父を早くに失った少年時代、ラマ教徒としての宗教生活、匯文小学・中学時代、溥心畬・斉白石らについて学んだ修業時代、輔仁大学での仕事ぶりや「校長」陳垣との関わり、解放後に輔仁が北京師範大学に合併された後の苦労、反右派闘争(啓功氏はその出自からして、早々に右派と決めつけられました)、文化大革命、そして晩年における名声の確立と、めまぐるしく語られる啓功氏の生涯は、まさに近現代中国の激動の縮図です。

 偉人が自己を語るという点においては、『福翁自伝』に似ていなくもありません。ともに「口述」が成功を収めています。隠すことなく自分自身を語るところに、歴史の証人としての非常に大きな価値を感じます。

 この人にしか語り得なかったことが満載されています。16開という大きな版型と比較的軽い料紙には、最初、違和感を持ちましたが、慣れてくると、豊富に盛り込まれた貴重な写真とあいまって、まるで週刊誌を手に取るかのような気安さを感じ、最後まで心地よく読むことが出来ました。

 心にのこったエピソードを一つ。文革末期の1975年、長年、苦楽をともにした夫人が病気で亡くなりました。弔問に訪れる人々に感謝しつつも、彼らに対して、啓功氏は、少しだけ夫人と二人にしてほしい、と頼みます。そして、啓功氏は夫人の遺体の前でひっそりとお経を上げました。文革期に宗教が禁止されていた中、人目を忍んで夫人を悼む啓功氏の姿は、読者の胸を打ちます。

 学術生活においては、輔仁時代の交友関係の話題がもっとも精彩に富んでいます。そのほかにも、文革中の「二十四史」点校プロジェクトの話などは、初めて知ることで、興味深く読みました。

 内容のおもしろさもさることながら、活き活きとしたことばで語られているので、中国語の学習にももってこいです。本書を1週間程度で読了できる人は、相当に中国語の読解力が高いといえるのではないでしょうか。

 日本の書道界には、啓功氏のファンが多いようなので、本書の邦訳にはある程度の需要が見込めるのかも知れません。

* 『啓功口述歴史』(北京師範大学出版社、2004年)、Webcat所蔵館は、0館(本日付)。

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陸心源の肖像印


陸心源肖像印 『積微翁回憶録』(上海古籍出版社、1986年)から、ひとつ。

1930年7月12日、長澤規矩也に連れられ、楊樹達が東京世田谷の静嘉堂文庫を訪問したことを、数日前に書きました。当日の記録を『積微翁回憶録』から抜いておきましょう。

又到静嘉堂文庫,庫藏宋元本一、二百種,不能盡覽,僅閲二十餘種。一為『莊子』成疏,字大悦目,黎蒓齋、楊惺吾皆有跋,為『古逸』本所自出。一為蜀大字本『周禮』鄭注,黄蕘圃舊藏,印有陸存翁六十五歳小像印記,此以前藏書家所未有也。陸氏藏書盡售於庫,故有此。…。(p.50)

文中に見える「陸存翁」は、著名な蔵書家であった陸心源(1834-1894)、あざなは剛甫、室名は存斎、浙江帰安の人。陸氏の蔵書、「皕宋楼」は岩崎氏の静嘉堂文庫に売却されましたが、その陸氏の「六十五歳小像」の印が『周礼』に捺してあった、というわけです。

これに対し、楊樹達の甥であり、『楊樹達文集』編輯委員会の主編でもある楊伯峻(1909-1992)は、次の按語をつけています。

伯峻謹案:陸心源〔1834-1894〕年僅六十一,未至六十五,疑小像印記有偽。

楊伯峻は、61才までしか生きなかった陸心源が65才の印を作ったわけがないから、印は偽物でないか、というのですが、事の真相は、こうです。『周礼』等に捺してある印の印文は、正しくは「存齋四十五歳小像」なのです。篆文では「四」の字と「六」の字がよく似ており、楊樹達は「六」と見間違えたのでしょう。その誤りの上に、甥の楊伯峻がわざわざ「疑小像印記有偽」などという、的はずれな按語をつけてしまったのです。

古文字学の大家、楊樹達の誤りも決して誉められたものではありませんが、楊伯峻の疑いはいかにも軽率です。

それに以外にも、いくつかの誤字を見受けましたので、メモしておきます。

  • 石田幹之助(1891-1974)の「幹」を「韓」に誤る(p.48)。
  • 野口正之の「口正」を誤って合して一字とする(p.122)。
  • 東久邇宮の「久」を「文」に誤る(p.229)。
  • 「貢職圖」の「職」を「織」に誤る(p.277)。
  • 「天官陰陽」の「官」を「宮」に誤る(p.301)。

『積微翁回憶録』は民国時代の学界を知る絶好の書物なのですから、再印の時には是非とも修正してもらいたいものです。

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1930年、楊樹達の日本再訪


清朝の末期、楊樹達(1885-1956)が国費留学生として来日し、東京・京都で学んだことを先日、紹介しました。時は過ぎて1930年、再び日本を訪れる機会が、46歳の楊樹達にめぐってきました。

これは日本側が資金を準備して、楊樹達ら知識人を日本に招待したものでした。当時、日本政府が外務省管轄の文化事業部という部局を設けて行った「東方文化事業」の一環です。この東方文化事業は、因縁深いものです。ことは19世紀末に起こった義和団の乱(「庚子事変」)に溯ります。義和団は光緒26年(1900)、イギリス・アメリカ・ロシア・フランス・ドイツ・オーストリア・イタリア・日本の連合軍により北京に籠もった義和団は鎮圧され、1901年、「北京議定書」(「辛丑条約」)が交わされ、清国は列強に対して歳入10年分にも及ぶ気の遠くなるような賠償金を負う約束をします。

日本も連合軍中の一国として賠償金を受け取りますが、余りにも巨額であったため、その一部を中国に関わる文化事業に還元することになり、設立されたのが、対華文化事業部でした。詳しくは、山根幸夫『東方文化事業の歴史-昭和前期における日中文化交流』(汲古書院、2005年)をご参照ください。

このような因縁から生まれたのが、楊樹達の日本再訪でした。1930年6月23日、楊樹達は張貽恵・陳映璜・曾仲魯・柯某(名は未詳)とともに、北京を出発します。瀋陽・ソウルを陸路通過し、釜山から乗船して、6月28日、下関に上陸します。その後、日本各地を旅行し、名士たちと交流し、7月23日、中国に戻りました。ちょうど一月に及ぶ旅行でした。

その道程を詳しく紹介することは避けますが、訪れた土地土地で面談した日本の名士たちとの学術交流、そして各地の図書館で彼らが見た本の数々は、大いに目を楽しませます。以下、日時と訪問先、人名を挙げてみましょう。敬称は省略します。

  • 6月26日、ソウル。朝鮮総督府附属博物館・朝鮮故皇室宮殿・科学館・京城帝国大学。辛島驍助、藤塚鄰。
  • 6月29日、別府温泉。
  • 7月1日、大阪。朝日新聞社・上甲子園・宝塚動物園。
  • 7月2日、奈良。奈良公園・春日神社・東大寺・女子高等師範学校。
  • 7月3日、京都。京都大学。狩野直喜。
  • 7月4日、京都。京都府立第一中学・同志社大学・比叡山・琵琶湖。吉田卯三郎。
  • 7月5日、京都。御所・二条離宮・桂離宮・島津工場。
  • 7月6日、名古屋、犬山。八木幸太郎・一柳智成。
  • 7月7日、名古屋。真福寺・徳川公邸・第八高等学校。八木幸太郎。
  • 7月9日、東京。東洋文庫。長沢規矩也・石田幹之助。
  • 7月10日、東京。宮内省図書寮。塩谷温・長沢規矩也。
  • 7月11日、東京。東京帝国大学。
  • 7月12日、東京。東京文理科大学・上野図書館・静嘉堂文庫。諸橋轍次・長沢規矩也。
  • 7月14日、東京。内閣文庫・帝国教育会館。長沢規矩也・坪上貞二(文化事業部長)・塩谷温・国枝元治。
  • 7月15日、東京。古城貞吉。
  • 7月16日、東京。学士会館。服部宇之吉・諸橋轍次・塩谷温・宇野哲人・中山久四郎・小柳司気太・阪島忠夫・山田準慶・前川三郎・古城貞吉・高田真治・平野彦次郎・寺田范三・細田謙蔵・佐久節・竹田復・山本邦彦。
  • 7月17日、東京。山本邦彦・古城貞吉。

その間、各地の図書館で、『古逸叢書』の底本となった善本をはじめとする、古刻旧鈔を大量に参観していますが、東京での差配は主に長沢規矩也によるようです。また、7月16日、学士会館で開かれた大宴会には、ご覧の通り、当時の錚々たる漢学者が名を連ねており、まさに学界の佳話とも呼ぶべき華やかさです。

このような日本の漢学者との交流は、楊樹達の帰国後も続きます。しかしその一方で、1931年9月18日に瀋陽で起きた柳条湖事件を契機として(『積微翁回憶録』にも「聞日本強佔瀋陽消息」と見えます)、日中関係はどんどん悪化してゆきました。日本人に対する楊樹達の気持ちも複雑なものとなっていったことでしょう。1931年11月22日の記事に次のように見えます。

橋川時雄がやって来た。私は「日本人の侵略には理がない」と、きつく責めたが、彼も敢えて強く弁解したりはしなかった。

近代の日中関係の渦にまきこまれた人と人との交流は、「政治と学術とは切り離すべき」という建て前が通用しがたいほど入り組んだものであったように思われます。

楊樹達と陳三立


 楊樹達(1885-1956)と陳寅恪(1890-1969)とが親友であったことは、比較的よく知られたことです。楊樹達の回想録『積微翁回憶録』にも、陳氏が楊氏を「漢聖」と称し(1932年4月8日記事)、楊氏が陳氏の論文「四声三問」を「後人師法」と褒めており(1933年12月20日記事)、肝胆あい照らす仲であったことがよく分かります。

 驚いたのは、『積微翁回憶録』1933年12月17日の条に見える、次の記事です。

陳寅恪の父君、散原先生(陳三立)が療養のために北平に来たので、本日お目にかかった。寅恪は不在だったが、先生はすでに私を知っているらしく、「著述に意を注ぐように」などと私に言われた。おそらく、寅恪がすでにあらかじめ先生に(私のことを)言っておいてくれたのだろう。先生は私にむかって、時務学堂での試験で答案を採点したのは先生である、と告げられた。

  初対面だとばかり楊樹達が思っていた陳寅恪の父が、実は自分の入試答案の採点者であった、この事実を楊氏ははじめて知ったのです。長沙に時務学堂を建てた湖南巡撫の陳宝箴(1831-1900)が陳寅恪の祖父であることは、当然、楊氏もずっと認識していたことでしょう。しかし、清朝が滅亡して二十数年も経ったこの時、時務学堂にて「校閲試卷」した、と陳三立からだしぬけに告げられた楊氏は、さぞや驚いたのでないでしょうか。

  『中國近現代人物名號大辭典』を藍本にして、陳三立の伝記を略述しておきます。

陳三立(1852-1937)、江西義寧の人。あざなは伯厳、号は散原。光緒十五年(1889)の進士。吏部主事となる。戊戌変法の期間(1898)、父の湖南巡撫、陳宝箴を助けて、湖南の地で新政を施行した。政変後(1898)は、父子ともに左遷された。辛亥革命(1911)後は清朝の遺老として暮らし、杭州・潯陽あたりに隠居していたが、のちに南京にもどった。晩年には北平に移り、民族の大義を堅持し、日本の誘いにのらなかった。その詩は難解で、好んで奇字僻典を用い、「同光体」(同治・光緒ころ流行した詩体、陳三立も代表的作者の一)中の「生渋奥衍」派、と呼ばれた。著書に『散原精舍詩文集』。陳衡恪・陳寅恪の父。

 楊樹達は、陳氏一家との縁の深さをあらためて思ったことでしょう。なお陳寅恪も、楊樹達が来日当初に学んだ、弘文学院の学生だったことがあるのです。