カテゴリー別アーカイブ: 伝記

1905年、楊樹達の日本留学


楊樹達像(湖南大学文学院) 楊樹達(1885-1956)、あざなは遇夫、号は積微、湖南長沙の人。「漢聖」(陳寅恪による)とまで称せられた漢代研究の巨人であり、また、清朝の小学と近代的な文法を繋いだ語言学者でもあります。

 その楊樹達が日記をもとに書いた回想録が面白い、という話は先輩たちから聞いていたのですが、ついつい機会を失していたのを、最近読み始めました。楊樹達『積微翁回憶録・積微居詩文鈔』(上海古籍出版社、1986年)。

 長沙の楊氏の家は、もともと豊かな農家であったそうで、本格的に学問を始めたのは楊樹達の父親の代から、とのこと。幼い頃、楊樹達は家庭教育を受けて育ちました。1897年、13歳の時、長沙に湘水校経堂が設立されると、楊樹達たちは、入学したいと思って見学にゆきますが、払う学費がありません。数学の授業を見ていた楊樹達が、従兄に向かって、「これは簡単だよね」と笑っていたのを学校の人に見つかり、特別試験を受けて特待生になったとのことです。

 同じ年の10月、湖南に時務学堂が作られ、その試験にも合格しています。毎日、午前中4時間は英語の学習、午後の2時間は国語の授業がありましたが、しかし、1日6時間の授業には体力的に耐えられず、やむなく中退。時務学堂自体も、1898年には解散してしまいますから、この時代、学校、受講生とも、中国の教育が不安定であったことが分かります。

 その後、時務学堂に代わって設立された求実書院などで学びますが、1905年、21歳の頃、友人の勧めや従兄の影響もあり、日本留学を希望するようになり、国費留学の試験を受けます。科挙を受けさせたがっていた祖父が反対しますが、「来年の郷試は、必ず戻ってきて受験するから」と説得し、従兄と二人、留学が決まりました。この年、科挙が廃止されてしまいましたから、祖父の願いはかないませんでしたが。

 武昌を経由して上海に至り、そこから船に乗りこみ神戸に上陸、さらに汽車で東京に向かいました。友人の周大椿という人が、先に留学していたので、小石川区三軒町(現在の文京区小日向)にあった彼の借家に同居することになりました。1906年9月、弘文学院大塚分校に入学、翌年の7月に卒業。1908年4月、第一高等学校に設けられた予科に入学し、翌年、卒業。1909年8月、京都に向かい、第三高等学校に入学しますが、1911年、武昌革命が起こり、本国から送られてくるはずの奨学金がストップし、帰国を余儀なくされます。

 6年に及んだ楊樹達の日本留学は、こうして、清朝の終焉とともにあっけなく終わってしまいました。一高予科の頃、皆で日光を旅行したことなどは描かれているものの、日本人との学術的な交流は、留学時期の『回憶録』から、まだうかがえません。しかしながらこの留学体験が、後年、楊樹達と日本人とを深く結びつける契機となったのです。

*楊樹達『積微翁回憶録・積微居詩文鈔』上海古籍出版社(『楊樹達文集』17;楊伯峻主編)、1986年。Webcat所蔵図書館は16館。

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朱起鳳の略伝


先日、ご紹介した、陳玉堂『中国近現代人物名号大辞典』によって、『辞通』を書いた朱起鳳の略伝をメモしておきます。

 朱起鳳(1874-1948)、浙江省海寧の人。アザナは丹九、室名は古歓斎(『古歓斎雑識』の稿本があり、中に章太炎の『菿漢大師聯語』未収の対聯を収める)。光緒十八年の廩生、硤石図書館館長・海寧国学専修館教員などを歴任。
後に、中国同盟会に加入し、武昌革命(1911年)が起こると、鉄道の専門家、徐策は北伐軍に協力して北上し、長江一体に鉄道大隊を組織したが、この時、朱起鳳は秘書に任じられた。民国元年(1912年)、津浦鉄路南局秘書に任じられた。後に、袁世凱討伐運動に参加。
第二次革命(1913年)の失敗後、郷里に退居し、門を閉ざして著述を行った。三十年の年月をかけて巨著『辞通』を完成させた(1982年、重印本の呉文祺「重印前言」に詳しい)。さらに『字類弁証』の著作がある。次男は呉文祺。

大動乱の中で学問・著述を行った、前世紀の学者たちには、本当に頭が下がります。彼らと同じくらいの真剣さで学問に打ち込みたいものです。

呉文祺の「重印前言」は未見ですが、もし有益な記述が有れば、あらためてご紹介します。

*朱起鳳撰『辭通』,續編:呉文祺主編; 呉君恒, 鍾敬華, 呉嘉勳編撰(上海古籍出版社, 1982) Webcat所蔵図書館 77館(本日付)。

筆名大王のこと


 近代中国の人物について調べようとするとき、私が真っ先に見るのは、陳玉堂『中国近現代人物名号大辞典』(浙江古籍出版社、1993年)です。

 中国の伝統的な文人は、自称・他称を含め、さまざまな呼称を持っています。なかでも号などというのは、なかなか調べにくいものです。

 清朝の人物については、楊廷福・楊同甫編『清人室名別称字号索引』(上海古籍出版社、1988年)がよく使われます。しかしこの書物は、単にそれぞれの個人の本籍・アザナ・号・別称・室名などを表にしているに過ぎません。使いようはありますが、限られています。

 一方の『中国近現代人物名号大辞典』は、本籍・アザナ・号・別称・室名以外に、生卒年・幼名・略歴・著書・親族などを網羅的に挙げています。しかも、号などがいつどこで使用されたのか、周到に根拠を挙げてあります。

 たとえば黄侃(1886,一作1887-1935)に異名が多いのは有名ですが、『中国近現代人物名号大辞典』によると、次のように列挙できます(根拠は省略します)。

 幼名:緒琳
 譜名:喬馨
 学名:喬鼐
 字:季剛
 早字:梅君
 又字:禾子・季子・季康
 号:運甓・運甓生
 別署・筆名:曠処士・病蝉・病禅・剛翁・不侫・鼎苹・鼎革・鼎莘・奇恣・奇談・信川・静婉・盛唐山民・黄十公子・亦陶・量守居士・寄勤閑室主人
 室名:六祝齋・雲悲海思廬・仰山堂・橋秀庵・寄勤閑室・量守廬・感鞠廬・楚秀庵・?秋室・?秋華・?華室・?秋華室

 まあ、この調子で一万人以上の人を調べ上げているわけです。「作者簡介」によると、「陳玉堂、アザナは書石、別号は紫琅山民・百盂齋主。1924年生まれ。江蘇南通の人。上海社会科学院文学研究所副研究員、九三学社社員。長きにわたり中国近現代の人物伝記資料及び別名・筆名の蒐集と研究に従事し、「筆名大王」の誉れを有する」云々とあります(より詳しくは、こちらから)。すごい執念を感じます。

 この書物はたいへんに便利なものなので、私は「大王、大王」と敬愛して止みません。増訂版が出ていますが、旧版を愛するあまり、なかなか新版に乗り換えられません。

*『中國近現代人物名號大辭典』(浙江古籍出版社、1993) Webcat所蔵図書館 65館(本日付)。

*『中國近現代人物名號大辭典』(浙江古籍出版社、全編増訂本、2005) Webcat所蔵図書館 28館(本日付)。

人名辞書


長らく休んでおりました。今日からまた再開いたしますので、よろしくお付き合いのほど、お願いいたします。

さて、その間、ある出版社から人名辞典の項目執筆を依頼されました。計11項目。

  • 彭元瑞(ほうげんずい/Peng Yuanrui)(1731-1803)
  • 呉騫(ごけん/Wu Qian)(1733-1813)
  • 陳鱣(ちんせん/Chen Zhan)(1753-1817)
  • 銭泰吉(せんたいきつ/Qian Taiji)(1791-1863)
  • 章鈺(しょうぎょく/Zhang Yu)(1865-1937)
  • 傅増湘(ふぞうしょう/Fu Zengxiang)(1872-1950)
  • 余嘉錫(よかしゃく/Yu Jiaxi)(1884-1955)
  • 陳乃乾(ちんだいけん/Chen Naiqian)(1896-1971)
  • 王重民(おうじゅうみん/Wang Zhongmin)(1903-1975)
  • 趙万里(ちょうばんり/Zhao Wanli)(1905-1980)
  • 張秀民(ちょうしゅうみん/Zhang Xiumin)(1908-2006)

清朝から民国時代・現代にかけての文献学者が多くて嬉しいのですが、ずいぶんマニアックな名簿となりました。文献学者としては一流から一流半といったところの人々でありながら、現在の日本で名を知られている人は、多くない、といった印象です。

彼らのために気を吐き、文献学を盛り立てる意味もこめて、よい記事を書きたいものです。このブログ「学退筆談」の内容ともよく合いますので、ブログのエントリーにも積極的に取りあげていきたいと思っています。

抗日目録学者、姚名達


姚名達目録学自序 近代は、魔物です。誰にもコントロールできない、巨大な波のように時代のうねり。日本と中国との関係も、近代の到来により、それ以前とはまったく異なるものとなりました。

 増幅される憎悪は、今なお、東アジア諸国民の間で渦巻いています。及ばずながら、各国・各民族の動きに気を配っていますが、すぐに効くよい薬もありそうに思えません。この一年、私はいつもより多く、中国人・台湾人・韓国人・ベトナム人の声に耳を傾ける機会がありましたが、人文学に打ち込む我が友人たちでさえ、この「国際政治」に戸惑っているように思われました。

まずナショナリズムありきの議論に、ここで付き合うつもりはありません。「日本人として、どう考えるんだ!」という議論の立て方は、物事の一面だけしか、明らかにしないでしょう。私は、同じ学者として、姚名達(1905-1942)の思いを追うことにします。

『目録學』が書かれたのは、1933年、姚名達は数えで言うと29歳の時でした。上海事変(一二八事変)の勃発は、その前年、1932年の1月28日。この事変で商務印書館は大きな被害を受け、その付属図書館であり、全国一の蔵書を誇ったという東方図書館も灰燼に帰してしまいました。商務印書館の被害は、それと深い関係にあった姚名達の人生にも、影響を及ぼさずにはおかなかったのです。『目録學』の自序の冒頭部分を訳出します。

 この小冊子は、「一二八」で商務印書館が焼かれた後に、あらためて書かれたものである。作者は、これと時を同じくし、地を同じくし、事情を同じくして、「国難の為に犠牲となり、文化の為に努力する」一人の人間である。

 商務印書館は、倭寇の火ひとつで業務を辞めて店をたたんだりはしないし、作者もまた倭寇の火ひとつでくさって意気消沈したりはしない。我が家は焼けたとしても、我が身はなお存しているのだ、敵が強かったとしても、我々があらためて爐とかまどを作るのを禁止できるはずがあろうか?

 ただ、親愛なる読者よ!全国でも蔵書が最も多かった東方図書館も、時を同じくし、地を同じくし、事情を同じくして、「化して焦土と為り」、作者がただただこの小冊子を書くために蒐集した二百種あまりの参考書も、それとともに「悉く劫灰に付され」、この小冊子のすでに完成していた原稿も「片楮も存せざる」こととなってしまい、描き終えた肖像画を思い出してみたところで、たいして似てもおらず、描き直した絵をなでてみたところで、結局あまり美しくもないものだ!

 読者よ!彼らは我らの文化を壊滅させようとしているが、我らはどのようにして我らの文化を発揚し、彼らに見せてやり、我々は打倒することも消滅させることもできない、ということを彼らに知らせることができるのか?!

姚名達が上海事変で失ったのは、『目録學』の原稿とその参考書ばかりではなく、その他の大量の原稿も同時に焼失したそうです。彼はことに若くしてなくなったので、この喪失を回復することはかないませんでした。

しかし、この序文に見える彼の強さは、当時の中国人読者を鼓舞したのみならず、数十年の年月を隔て、「倭寇」の子孫たる私にも、訴えかけるものが確かにあるのです。

姚振宗の親友


昨日のエントリーの続きで、陶存煦「姚海槎先生年譜」に見える、姚振宗(1842-1906)の生活、特にその交友関係をご紹介します。

少なくとも、この簡略な年譜を見る限り、姚振宗には多くの友人がいたようには思われません。頻繁に名が現れるのは、有名な陶方琦(1845-1884)、その従弟の陶濬宣。その他の有名人としては同じ紹興出身の李慈銘(1830-1895)が見えます(光緒二十年の記事に「先生と塗轍を微かに殊にするも、然れども両人交わること亦た極めて相い契う」とある)。

特に仲がよかったのは陶方琦です。一般的に、年譜には親しい友人の経歴もあわせて書きますが、姚振宗が四歳であった道光二十五年(1845)の記事に「知友、会稽の陶方琦、生まる」とあります。姚振宗が「快閣」の主となってからは、「快閣後記」を執筆しています。科挙に成功しなかった姚振宗とは対照的に、陶方琦は光緒二年(1876)に進士となり、翌年、湖南学政となっています。

その後も二人の篤い交友は続きました。光緒十年、陶方琦が一大プロジェクト、『湖北通志』編纂を監修していたのですが、その「芸文志」部分の執筆を姚振宗に任せます。ところが、思わぬ事に、この年の十二月二十四日、その陶方琦が亡くなってしまったのです。享年、四十歳。年譜の記事にこうあります。

 先生、時に方に『湖北芸文志』を撰す。訃を聞きて大いに慟して曰く「黄壚の人、逝けり。吾、此を撰するも、将(まさ)に何れの為にかせんや」と。先生と方琦と、交わること最も契う。因りて結びて児女の親家と為る。方琦 許鄭(許慎・鄭玄)考証の学に精しく、先生は蔵書に富めり、両人は爾汝し(「爾」「汝」と遠慮なく呼び合い)、交わること兄弟の如きなり。

「黄壚」は、一般的には、黄泉の国を指しますが、この場合、当てはまりません。出典は『世説新語』にある王戎のはなしです。王戎がある時、黄さんという居酒屋(壚)の前を馬車で通り過ぎたところ、今は亡き親友、嵇康・阮籍とこの店で酒を飲んだことを思い出し、哀悼の念がこみ上げた、というものです。私も友人と酒を飲むのが好きなのですが、この比喩を用いる以上、姚振宗と陶方琦との間にも酒があったと考えてよいでしょう。もちろん、その酒は紹興酒であるにちがいありません。

以前に姚振宗を紹介したところ、昭夫さんがコメントをお寄せになり(2009年7月3日の記事へのコメントとして)、「許學叢書」というシリーズの第1集に収められている、陶方琦『許君年表攷』(張氏儀許廬, 光緒10年刊本)を指摘して下さいまして、早稲田大学のopacによると、この書物の附録に姚振宗の識語が含まれる旨、教えていただきました。この叢書は珍しいものではないのですが、今ちょっとすぐには確認できません。姚振宗と陶方琦の交友に関心を持つ者として、いつか検討します。

快閣?師石山房?


先日のエントリーで、姚振宗『師石山房叢書』(開明書店、1936年)を紹介した際、その書物に陶存煦「姚海槎先生年譜」が附されていることを言いました。

姚振宗(1842-1906)の人生を綴ったこの短い年譜は、目録学に関心を持つ者にとってはなかなか興味深いのですが、今日は、その中から、姚氏の号、「師石山房」もしくは「快閣師石山房」の由来を語った部分を紹介します。

同治六年(1967)、姚振宗の父親、秋墅公(姚仰雲)は、当時住んでいた揚州で、獅子の形をした奇石を入手しました。「獅石」というわけです。そして、「師石山房」という名の建物を築きました。

ところが、二年後の同治八年四月、父親は揚州の地で亡くなってしまいます。生前、彼は国庫に対して多額の金を献納していたため、八月にはまとまった金が支給されました。そこで姚振宗は父の棺とともに故郷の紹興に帰ることにしました。父が生前、紹興の鑑湖のほとりに建つ名勝、「快閣」に住みたいと言っていたので、姚振宗は父の遺志に従い、「快閣」を購入したのです。翌同治九年の春、ここに移ります。時に姚振宗、二十九歳。

「快閣」は宋の陸游がこの地に建てたもので、その中には桐香書屋・師舟・漱酣亭といったいろいろな名所があり、姚振宗はそのうちの「師舟」を「師石山房」と改名しました。きっと例の獅子型の石も持ってきていたのでしょう。今でも「快閣」の一部は残されているそうで、紹興に行く機会があれば、是非とも立ち寄りたいところです。

文人の号などは、その人の人生の一面を映す鏡であり、それぞれに趣があります。「師石山房」の由来、ようやく疑問が解けました。