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『支那書籍解題』


長澤規矩也『支那書籍解題—書目書誌之部』(文求堂書店、1940年)を図書館で借りてみました。中国歴代の書目を、劉向『別録』から董康『書舶庸譚』にいたるまで、逐一、解説した解題です。項目ごとに参考文献も明示されています。

これまで本書の参照を怠っていたのですが、その情報量に圧倒されてしまいました。日本語で書かれた同類の書物は少ないので、現在でも参考価値があると思います。

ただ、細かいことに気がつきました。「劉向別錄 漢劉向撰 清洪頤煊輯 孫彤校」の解題に、洪頤煊を「乾隆」六年の抜貢生とするのは誤り。正しくは「嘉慶」辛酉(嘉慶六年、1801)です。

長澤氏はこの項目を書いた際、余嘉錫「目錄要籍提要」(『國立北平圖書館館刊』4-2、民國19年)を参照しているのですが、この部分、余氏も「乾隆辛酉」(乾隆六年、1741)と誤っているのです。長澤氏はどうやらこれを踏襲してしまったようです。

以前、平凡社の東洋文庫から『目録学発微』の翻訳を出版した際、この「目錄要籍提要」も附録として訳しておきました。その時にこの点を修正した上で余氏の誤りを指摘しておいたことを思い出しました。

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日本の便當


蘇軾が劉攽にこう言った、「私が弟と一緒に制科の試験勉強をしていた頃、毎日、「三白」を食したものだが、食べてみるととても美味かった」。「三白」とは何か?劉攽が問うと、蘇軾は「ひとつまみの塩、一皿の生の大根、一碗の飯。これが「三白飯」というもの」と答えた。劉攽は大笑いしたとのこと。

これは余嘉錫が朱弁『曲洧舊聞』巻六を引用して紹介する話です。「読已見書斎随筆」24「三白飯」(『余嘉錫論学雑著』、中華書局、1963年、p.673)。この話には続きもあるのですが、今は全文を引かずにおきましょう。

余嘉錫はこれを紹介した上で、こんなことを言っています。

いま日本人には彼らが「便當」と呼んでいるものがあり、塩をした大根数片に小魚を数尾、そして飯を数匙分ばかり、(それらを)木製の容器のなかに入れるのだが、全国の人のうち、これを食する者が八割九割にもなる。おそらくは我が国の唐宋時代の「三白飯」の遺風であろうが、ただ彼らは塩漬けの大根を用いて生の塩を使うことはない。それに彼らの国は浜辺に魚を多く産するので、小魚という一品を足すのが、少し異なるだけだ。

「便當」といえば、いまも台湾でよく食されるものですが、それは日本人が伝えた「弁当」(かつては「便當」とも表記したそうです)に由来する。そんな話を聞いたことがあります(中国大陸では「盒饭」、箱に入れた食事、というのが一般的なようです)。

余嘉錫はどのようにして日本の「便當」を知ったのでしょうか。ことによると、「便當」そのものを見たことがあるのかもしれません。いずれにせよ、どこかで日本の「便當」のことを見聞きして、余嘉錫が唐宋時代の「三白飯」を想起したことは確かでしょう。

古い中国の「遺風」が日本に伝存している、という考え方は、中国の伝統的知識人にわりあいとよく見られ、程樹徳が『論語』の「明衣」の名残を日本のゆかたに見出したことなどとも、軌を一にするものと言えそうです。

『旧唐書』経籍志の標点一則


中華書局から出版されている校本『旧唐書』の標点に誤りを見つけたので、メモしておきます。

『旧唐書』経籍志の叙に次のようにあります。

煚等撰集,依班固藝文志體例,諸書隨部皆有小序,發明其指。近史官撰隋書經籍志,其例亦然。竊以紀錄簡編異題,卷部相沿,序述無出前修。(『旧唐書』,中華書局,1975年,p.1964)

これでは、意味が通りませんし、平仄も合いません。以下のように変更するのが適切です。訳文も付しておきます。

煚等撰集,依班固藝文志體例,諸書隨部皆有小序,發明其指。近史官撰隋書經籍志,其例亦然。竊以紀錄簡編,異題卷部,相沿序述,無出前修。
煚〔毋煚を指す〕たちの撰した目録は、班固『漢書』芸文志の体例にのっとり、諸書の部ごとにいずれも小序があり、その部の趣旨を明らかにしようとしている。近頃、史官が『隋書』経籍志を撰したが、それの体例も同様であった。私が思うに、書籍を著録する際、分類名に異なる題をつけてみたところで、前の目録を踏襲して叙述するばかりで、先行の著作以上のものとはなっていない。

余嘉錫『目録学発微』(中華書局,1963年)を翻訳していてこのことに気づいたのですが、余嘉錫が引用するこの旧唐志の一節(五「目録書之体制」三,p.58)、何と中華書局『旧唐書』と同じように句読しています。両者、同様に誤っているのがやや不可解です。

しかし、同じページに余嘉錫みずから「相沿序述,無出前修」と再びその二句を引いているのですから、余氏が標点本のように読んだはずはありません。最近、『目録学発微』はさまざまな形で版を重ねていますが、いずれの標点本も誤っています。誤りが50年も踏襲されているのは、嘆かわしいことです。

「史」が目録を書く理由


『漢書』芸文志において、『太史公』書、すなわち『史記』は、六芸略の春秋家に収められていました。その後、魏晋の時代に、四部分類が創出され、甲・乙・丙・丁の部が設けられると、史書はその丙部に収まることになります。

ここに史書は経書の仲間から独立し、新たな居を構えました。余嘉錫は目録学を「学術の史」と呼びましたが、目録家がそれほどに強い力を持ちえたのは、それは史部の創設が「史」なる学術に特別な地位を与えたためではないか、と、昨日、推測しました。

しかし、目録と「史」の関わりを考察すると、史部の創出のみが両者の唯一の関わりであったというわけではありません。四部分類の創出以前に、すでにそれは始まっており、また後世にも興味深い展開があったのです。

いま、目録と「史」の深いつながりを列挙しましょう。なお、ここでいう「史」とは、「史」官のことでもあり、「史」書のことでもあり、「史」学のことでもあります。「史」の語義にはこれらすべてが含まれますので、あえて区別せずに挙げてみます。

  1. 班固が『漢書』を編纂した際、その「志」の一つとして、劉歆『七略』をほぼそのまま流用して「芸文志」を書きました。これによって、国家の図書目録が正史と明確に結びつくこととなります。『漢書』は後に、四部分類の史部に収まりました。
  2. 六朝時代、書目の編纂が主に秘書で行われるようになりました。たとえば、魏では祕書郎の鄭默が、晋では秘書監の荀勗が、宋では秘書監の謝霊運や、秘書丞の王倹が、そして隋では秘書監の牛弘が、それぞれ国家の図書目録を編纂したのです。『宋書』百官志には、魏の秘書監を記して「芸文や図書をつかさどった。『周礼』の外史が四方の書物、三皇五帝の書籍をつかさどった、というのがこれに当たる」、といいます。六朝時代、秘書は、中書という役所と合併されたりして複雑に制度改革されますが、秘書が「史官」と見られていたこと、疑いありません。六朝時代、「史」は確かに目録をつかさどっていたわけです。
  3. 上述したとおり、四部分類の中において史部が独立し、書目が史部に収められるようになったことです。歴代の国家の図書目録が、書目をどこに収めていたか、それらが失われた現在、確認するのは困難ですが、少なくとも、『隋書』経籍志のもととなった隋の『大業目録』ではすでにそうなっていたはずです。
  4. 唐代以降、「経」学の立場からでなく、さまざまな「史」学の立場から、目録学の研究が盛んとなったことです。鄭樵『通志』、馬端臨『文献通考』などは、四部分類では史部に分類される「史」書ですが、これらは目録学史上の重要な著作であり、大いに議論を深めました。他方、「経」学者は、目録学の理論書を生み出すことができませんでした。
  5. 清朝中期、天才的な「史」の才を持つ章学誠が登場し、「六経皆史」、すなわち「儒家経典は、すべて古代の史の書物である」という命題を打ち立てました。これは、その後の目録学の趨勢に大きな影響を与えたました。
  6. 「経」側の要因として、儒家それ自体には、古代以来、非常に多く内部の学派間における闘争の歴史があり、儒家の内部さえまとめられず、とても「学問全体をまとめる」可能性がなかったという、特殊な事情があります。

このようなさまざまな事情が絡まり合い、清朝末期ごろの中国の学術史においては、「経」学ではなく、むしろ「史」学に、目録および目録学の管理が求められた。そのような趨勢にあったのでしょう。

そのような歴史の積み重ねの上に、最終的に登場したのが、目録は「学術の史」であるという余嘉錫のことばであった。私はそのように考えます。余嘉錫が考え出したというよりも、むしろ、事態をうまく言い当てたものではないのでしょうか。

「史」になる


史官というのは、『周礼』に出てくるような古代の官職です。『隋書』経籍志の正史類の小序には、「夏や殷よりも前には、左史が君主のことばを記録し、右史が出来事を記録し、周では太史・小史・外史・御史がそれぞれ分担して仕事をし、諸侯の国にも史官が置かれた」、といいます。もちろん、古代の官職としての「史」の実態はここからは分かりませんが、唐代の人には、そのように思われていたのでしょう。

古代において史という職分があったのみならず、後世にも、天子の記録である「起居注」や、王朝の歴史たる「国史」を執筆する担当者がいました。

しかし現実問題として、いくら「史」になりたくても、誰もがなれるはずがありません。特に、近世に入って非常に多くの人が科挙を受けて官界を目指すようになれば、自分に「史」の適正と意欲が備わっていると自認する個人がいたところで、とうてい、官僚機構の中でそれにふさわしい地位を占めるのはかなわぬことです。

一八世紀に生を受けた章学誠(1738-1801)は、非常に強い自負を抱き、史書の編纂についての多くのアイディアをもっていました。しかしもちろん、国家の史書を書く立場につくことはありませんでした。もっとも彼自身、唐代以降の史官は堕落していると考えていたため、史官になりさえすればそれで幸せということでもなかったのでしょうが。

最近、ニヴィソン氏の名著、『章学誠の生活と思想』を読んでいて、興味深い記述に出会いました。

David S. Nivison, The life and thought of Chang Hsüeh-ch’eng (1738-1801), Stanford University Press (Stanford studies in the civilizations of Eastern Asia), 1966.

この書物に引かれた章学誠の手紙は、章学誠の若い頃に書かれたものです。そこには、「たとえ史臣となることができずとも、地方志の編纂にたずさわれるではないか」、という章氏の見解が述べられていました。ニヴィソン氏の訳とともに引きます。

丈夫生不為史臣、亦当従名公巨卿執筆充書記、而因得論列当世、以文章見用於時。如纂修志乗、亦其中之一事也。(「答甄秀才論修志第一書」)

If a man of spirit is unable to become an official historian, he may still become a secretary in the retinue of a person of note or a high official, and in this way be able to discuss critically his age and gain significant employment for his literary skill. One possible activity in such a capacity is the compilation of local histories. (Nivison, 1966, p.30)

清朝のころ、地方志の編纂は、不遇の知識人にとってきわめて大きな意味をもっていました。章学誠の父親も、進士にまでなりながら、官界では恵まれず、有力者の庇護のもと、教師や地方志編纂者として生活の糧を得ていました。それは章学誠自身にとっても同じでした。地方志の編纂事業は、彼らにとっての生命線であったのです。そのことは、ニヴィソン氏の書物にも周到に書いてあります。

国の史官になる希望はかなわずとも、男子たる者、地方志を修めることもできる。これが章学誠の率直な思いであったのでしょう。むしろ、そうであって欲しいと願っていた、ともいえましょうか。

昨日、余嘉錫が目録および目録学を「学術の史」と喝破した、と申しました。その「史」はもともと史官の意味をもっていたことも申しました。余嘉錫が夢想していた、生きたものとしての「学術の史」とは、いかなるものであったか。ことによると、目録学史上の偉大な先達、章学誠の生き方、つまり地方志の編纂者に、その一つの典型を見ていたのではないか。そのように想像されるのです。

「学術の史」としての目録学


目録学は、劉向・劉歆から始まる長い伝統を持つ学問ですが、二千年にわたるその歴史の中で、多くの学者の力によってさまざまな新しい顔が明らかにされてきました。

その歴史の中で、余嘉錫は、目録学の何を明らかにしたのでしょうか。目録学に対する余嘉錫の最大の貢献は、目録が「学術の史」であると位置づけた点にあるように、私には思われます。

中国には、長い学の伝統があり、その成果としての書物が伝えられてきました。前漢時代の末期、それらの膨大な書物を前にして、劉向たちはそれらの書物からさかのぼって古代の学の姿を明らかにし、さらにその上で、学の伝承がどのように書物の上に反映されているのか、そこまでを論じて目録を書いた。それは、目録の序文として完成された。これぞ「学術の史」と評価しうる、余嘉錫はそのように考えます。

してみると、目録は単なる帳面ではありません。そして目録学は、単なる帳簿の学ではありません。

知凡目録之書,實兼學術之史,賬簿式之書目,蓋所不取也。(《目録学発微》「目録学之意義及其功用」)

このような目録学の見方は、余嘉錫が一人で発明したものではなく、前史があります。まず、章学誠は班固を踏まえて、目録学の意義を「弁章学術、考鏡源流」という二句で総括しました。それをさらに一語で言い表したのが、余嘉錫の「学術之史」であったのです。

班固曰:「劉向司籍,辨章舊聞。」又曰:「爰著目録,略序洪烈。」後之論目録者大抵推本此意。章學誠又括之以二語曰:「辨章學術,考鏡源流。」由此言之,則目録者學術之史也。(《目録学発微》「目録学之体制一・篇目」)

学術をまず腑分けし、それぞれの学派の「源」をつきとめ、さらにはその「流」がどのように展開したのかを詳しく考察する。その責任をもつのが目録編纂者であり、目録はまさにその表現である、と余嘉錫は考えました。「史」官は歴史を記述する任務を負いましたが、わけても、もっぱら学術を記述するのが「学術の史」たる目録家の仕事である、というわけです。

そしてこの任務は、劉向・劉歆父子で終わったわけではありません。歴史の推移とともに、ある学問は途絶し、ある学問は新たに生まれる。そして確実に、学問は日ごとに増えて、また複雑になってゆく。これこそが、後世の目録家が知恵をしぼることになった理由なのです。

また、書籍を管理する立場からいうと、帰属する書物があまりに乏しい分類を設けておくことは、のぞましくありません。しかし一方、「学術の史」の立場からいえば、学の系統の異なるものを一つの分類に収めて涼しい顔をしているわけにもいかないのでしょう。ここに、目録の難しさがある、余嘉錫はそういいます。

藏書之目,所以供檢閲。故所編之目與所藏之書必相副,收藏陳設之間,當酌量卷册之多少厚薄。從來官撰書目,大扺紀載公家藏書,是以門類不能過於繁碎。甲乙之簿與學術之史,本難強合爲一。劉歆七略收書不多,又周秦學術,至漢雖有廢興,而古書尚存,篇卷約略相當,故卽按書分隸,因以剖判百家,尚不甚難。然史附春秋,而詩賦別爲一略,已不能不牽就事實。後世之書日多,而學有絶續,體有因創,少止一二,多或千百,其數大相逕庭。爲書目者,既欲便檢査,又欲究源流,於是左支右絀,顧此失彼,而鄭樵焦竑之徒得從而議其後,亦勢之所必至也。至今而檢査之目與學術門徑之書,愈難強合。(《目録学発微》「目録類例之沿革」)

古く「史」とは、君主の言行を記録する役人の呼び名でした。そういう意味において、「学術の史」とは、王朝の目録を管理する役人にこそふさわしい呼び名といえましょう。余嘉錫自身、清末の科挙官僚であったわけですから、そのような前近代の感覚を引き継いでいた、と評しうるかも知れません。

しかし、それを「古くさい時代錯誤」と切って捨てるわけにもゆきません。書物全体、そしてその書物を成立させている学術の総体を記述しようという意欲。「学術の史」とは、そのような目録家たちの意気込みを実によく表したことばです。いつの時代にも、学術の記述が不要であるはずがありません。それが今の時代にも可能であるのか否か、一考に値するのではないでしょうか。

『古書通例』と『目録学発微』


余嘉錫は生前、著作をわずかに一点しか出版しませんでした。それは『四庫提要辨証』という書物です。これは、有名な『四庫全書総目提要』二百巻を詳しく検討しなおしたものであり、今なお広く用いられています。同書は著者自身認める畢生の作でもあり、余嘉錫文献学の真骨頂であるといえますが、いかんせん、それ自体、膨大かつ難解です。全篇を通読する人は少ないのではないでしょうか。かくいう私も通読したことはなく、いま読んでいる最中です。

それでは初心者がとりつく島がないのかというと、そうではなく、都合のよいことに、余嘉錫が1930年代に大学の講義に使っていた次の二書、『古書通例』(『古籍校讀法』ともいう)と『目録学発微』が、恰好の手引きとなるのです。

これらはもともと、民国時代に講義資料として印刷されたものであり、正式な出版物ではありませんでしたが、余嘉錫の没後、整理出版されました。私は、それぞれ以下の版で読みました。

  • 『古書通例』上海古籍出版社、1985年7月
  • 『目録学発微』巴蜀書社、1991年5月

これらのうち、『古書通例』については、2008年に平凡社、東洋文庫の一冊として、嘉瀬達男・内山直樹の両氏とともに、訳出しました。近いうちに、『目録学発微』の方も世に問うことができれば、と望んでおります。

さて両書は、ともに大学の講義資料とはいえ、資料も充実しており、たいへんに高度な議論が展開されています。両者とも、重点は前漢末の劉向・劉歆父子が作った目録を根本に据えて、中国の書物の歴史を見通したものです。

『古書通例』は、先秦時代の諸子百家の学問が、どのようなかたちで「書物」というかたちに定着したのか。そして劉向たちは過去の学問をどのように整理・集成し、どのように目録を作ったのか。そこに重点があります。詳しくは、日本語版につけられた、内山直樹氏の「解説」をご覧ください。

一方の『目録学発微』は、やはり劉向・劉歆父子の校書を大いに発揚しつつ、一つの学としての目録学の意義、そして、劉向らの目録以後の目録学の展開を述べたものです。『古書通例』が「劉向以前から劉向まで」に重きを置くのに対し、『目録学発微』は「劉向から劉向以後」に重きを置く、といえます。

また両書の方法論を比較すると、『古書通例』が実践的な読書の学を説くのに対し、『目録学発微』は目録学の方法と資料を紹介する、ともいえましょう。

このように対比してみると、それぞれの書物の内容には違いがありますが、互いに補い合って、余嘉錫文献学の基本的な見方を提示できていると考えています。

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余嘉錫の没年


目録学者、余嘉錫の伝記については、その娘の余淑宜・娘婿の周祖謨両氏が書いた「余嘉錫先生学行憶往」(『中国文化』13期、1996年)が基本的な資料となります。この文章には、余嘉錫の晩年とその死を次のように伝えます。

1952年の秋、「元和姓纂提要辨證」の原稿を完成させたが、転倒して右足を傷つけ、脳溢血のために四肢が麻痺し、これ以降、筆を執って著述することができず、麗しい志は遂げられず、床から天井を見上げて嘆くしかなく、身の回りの世話をする人もなく、その苦痛は言い表しがたい。狭い部屋の中にいて、まるで牢屋のようで、食事の上げ下げの時にやっと人間に会うくらいで、離れて暮らしている人も五重の扉で、数十メートルも隔てられており、乙未の年(西暦1955年)の旧暦大晦日の夜、食事中に饅頭を詰まらせてしまったが、当時、そのもがき苦しみの惨状は、誰一人目撃者がなく、食事の片付けの時になってはじめて発見されたが、すでに息は全くなく、我々、余氏の子女たる者、痛恨の極みである。こうして一代の名家が恨みを抱いて亡くなり、人の世を離れた。時年、七十二歳であった。
1952年秋撰就「元和姓纂提要辨證」稿,摔傷了右股,因脳溢血而癱瘓,從此再不能提筆著述,美志未遂,仰屋興嘆,左右侍奉乏人,苦不堪言。居於斗室之中,如處囚牢,只有送飯,取碗時才能見到人,離活着的人有五重門之隔,数十米之遥,於乙未年(公元1955年)除夕之夜,吃飯時被饅頭所噎,當時挣扎之惨状,無一人目撃,直到取碗時才發現,人早已氣息全無了,為其子女者,能不痛心疾首!一代名家,就這樣含恨而終離開了人世,時年七十二歲。

この乙未の年は、西暦で言うと、1955年1月24日に始まり、1956年2月11日に終わりました。つまり、余嘉錫の亡くなった日は、旧暦で言うと乙未年十二月三十日、西暦で言うと1956年2月11日ということになります。

1996年、河北教育出版社から刊行された劉夢溪主編『中国現代学術経典』というシリーズは、なかなか有用なものでありますが、そのうち「余嘉錫 楊樹達巻」に収める「余嘉錫先生学術年表」では、「1955年、72歲。旧暦甲午除夕去世」と書いてあります。「甲午除夕」は誤りです。

中文版のwikipediaの「余嘉錫」項は、亡くなった日を「1955年1月23日」としており、「甲午除夕去世」に基づくらしいのですが、周祖謨・余淑宜「余嘉錫先生学行憶往」の「乙未年除夕」を正とすべきでしょう。

また、ほとんどすべての書物が余嘉錫の没年を西暦1955年としていますが、厳密に言うならば、1956年とすべきであると考えます。

我々が取り組んでいる科学研究費の研究計画「中国近代文献学―余嘉錫の総合的研究」では、余嘉錫の文献学をテーマとしています。「余嘉錫関連資料」と題して、略年表など、いくつかの知見をウェブサイトにて公開しております。あわせてご覧ください。

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